7月のシンデレラ 番外編/ stage 2


肩にゆっくりと重みがかかった。

見れば蜜柑が、頭をのせ、あどけない顔で眠っている。
帰りの車内。窓越しに見える沈む夕陽が、遅い時刻を物語っている。ぎりぎりまで遊んでいたせいで疲れたのだろう、揺れる電車が心地よい睡眠をいざなったようだ。

その重みを感じながら、頭の片隅にある昼間の話しに思いを巡らす。
やはり解せなかった。どうして今、家庭教師なのか。蜜柑の成績は、そんなに酷いのだろうか。
聞ける人間は、ただ一人。あまり会いたくはない人物だ。

内心で舌打ちをした。
何故、こんなにも感情をかき乱される?
それはやはり・・蜜柑だからだ。
冷静に考えれば、家庭教師を雇い、学力を上げることなど普通のことなのだ。たとえ恋人であろうと、それを邪魔する権利はない。だが、駄目なのだ。・・・教える教師が男だなんて、とても受け入れられない。誰であっても、蜜柑の隣にいるという事実自体に拒否反応が出る。特にあの男は。馴れ馴れしすぎる。中学生相手に悪びれることなくじゃれ合い、同じ空間で時を過ごす。
・・・容認できるはずがない。

蜜柑について問うた時の、彼女の顔つきが嫌でも浮かぶ。
だが、もはや拘っている場合ではない。
それにもしかすると、鳴海いう奴のことも、少しは知っているかもしれない。

しかし心は決まっても、そう簡単に物事は運ばないのが常だ。

だが今回は、・・違ったようだ。

蜜柑を家まで送り届け、自宅へ戻ると、彼女はいつものようにカウンター席に座っていた。
こちらに気がつくと、顔を顰め、やや視線を逸らした。・・・逸らしたいのは、こちらも同じだ。

「おかえり」
カウンター内でコーヒー豆を挽いている父親の声に、目で頷いた。彼女の席からやや離れた場所に腰を下ろす。
「珍しいわね」
紫紺の瞳が向けられる。
「いつもなら、さっさと奥へ引っ込んでいくのに」
「・・・・・・・・・・」
やはり、気に入らない。自身の行動から、すでに何かを勘繰っている。
「で、楽しかったわけ?海は」
「あいつの成績は、どの程度ものなんだ?」
問いに答えず、こちらから逆に問い質すと、彼女は怪訝な顔つきをした。
「どうなんだ」
「棗君があたしに質問してきたのはこれで二度目ね。前回は、あの子に彼がいるのかどうか、で、今回は成績の話。それを聞いてどうする気?」
「前と同じ質問をすんな。さっさと答えろ」
すると彼女は、心底呆れたような顔をした。
「相変わらず身勝手ね。理由は知らなくていい、でも訊いたことには答えろと」
彼女は、目の前にあるアイスコーヒーを引き寄せ、ストローでひと口流し込む。そしてこちらを見据えながら冷ややかに言った。
「最悪」
「・・・・・・・・・」
思わず彼女の顔を凝視した。
――― 最悪、
「最悪?・・何が、」
「すべてが。あの子、勉強に関しては全然ダメなのよ。だから試験ではいつも苦労している」
「・・・だから、家庭教師か」
そう呟くように言った言葉を、彼女が拾う。
「ああ、なるほどね」 合点がいったように、薄く笑う。「あの、家庭教師が気に入らないわけ?」
「知ってんのか」
「まあね。かなり前から出入りしていたし、何かと危なっかしい男だから」
その言い草に、片方の眉が上がる。
「危なっかしい・・?」 聞き捨てならない。
「あら、・・喋りすぎたわね」
彼女はしらじらしく肩を竦める。それから再びアイスコーヒーを口に含んだ。だが今度はストローではなく、直接コップに口をつけ、飲み干している。氷がからりと音を立てた。
「おい、どういう」
「豆、もう挽き終わりました?」
彼女は父親に問いかけながら、立ち上がる。
「はい、いつものね」 父親が紙袋を手渡す。
「ありがとうございます」
「おい、」
彼女はこちらに顔を向け、ひとつ息を吐いた。
「校内一の自信家が、そんな家庭教師の一人や二人に随分と余裕がないこと。蜜柑が信じられないわけ?」
「んなこと訊いてんじゃねえ」
「そうやって何でもかんでも独占欲丸出しにしていると、いくら棗君でもそのうちあの子に、」
彼女は言葉を切った。自身の不穏な眼差しを感じ取ったからだ。
「ご馳走さまでした」
「いつもありがとうね、蛍ちゃん」
彼女は父親に軽く頭を下げると、足早に店を後にした。

――― 嫌われるわよ
そう言いたかったのだろう。本当に、
「しかし、おまえと蛍ちゃんの会話は、いつ聞いても妙だな」
「・・・・胸くそ悪い」
すると父親は、笑う。
「あの子がお母さんに頼まれて、豆を買いに来た時のことが浮かぶね。小学校の低学年の頃だったかな。最初におまえと顔を合わせた時の反応も雰囲気も、今と変わらない。何故だか、いつも睨みあってたよな」
「いっそのこと、出入り禁止にしろよ」
「まさか」
父親はまた、屈託なく笑った。

―――― それにしても。
危なっかしい男、・・・何だってんだ、全く。中途半端な物言いしやがって。
これじゃ余計に気になるだけじゃねえか。
成績は最悪。そこまで、酷いとは。
これでは手の打ちようがない。普通レベルなら、蜜柑の母親を口説いて、何とか自分がそのポジションに落ち着こうと思ったが。状態があまりにも悪すぎるのなら、受験生である自身の申し出など聞き入れるわけがないだろう。
―――― 何でもかんでも独占欲丸出しにしていると、
・・・わかっている。それくらい。
だが、わかっていながら、自制が効かないのだ。こんなことは初めてだ。

日に焼けた二の腕の肌がぴりりと、痛んだ。それは、釈然としない心中の疼きと似ていた。



「棗、」
「・・・・・」
「聞いてる?」
ふと思考の中から呼び戻される。こちらを覗き込むように見ているルカと目が合う。ブルーの光彩が、不思議そうに揺らぐ。
「、・・わるい。それで?」
親友は、やれやれといった表情で苦笑を滲ませる。
「心ここにあらず、だね」

夏休みも丁度半分を過ぎた今日。本屋へ行く途中、街中で偶然ルカに会った。聞けば、葵と出かける約束をしているらしく、家に向かう途中だったようだ。いつの間に約束を取り付けたものか、当の本人からは、そんな話しは聞いていない。ぬけめのない奴。ルカのことを想っていたことはわかっていたが、ここまで積極的だとは予想外だった。
約束の時間より早く到着しそうだという彼と、近くにあるファミレスに入り、時間潰しに他愛もない話をしていた。・・いや、しているつもりだった。

蜜柑とは、あの海の日以来、会っていない。10日が経つ。
メールのやりとりは欠かさずしていたので理由を聞けば、部活と勉強に忙しく時間がとれないようだ。
これは家庭教師に気を取られていた自身にとっては、意外な展開だった。

「あの子のこと、考えてるの?」
「・・・別に、」
気のないふりをして答えると、ルカは何故か楽しげに目を和ませた。
「・・んだよ」
「棗でもそんな風になるんだ」
「・・・・・・?」
「すごく余裕のない顔してる」
「嫌なこといいやがって、」 顔を逸らした。本当に、嫌なことをいいやがる。
「会ってないの?」
「ああ。部活と勉強で、大忙しだ」
「どちらが受験生か、わからないね」 クスリと笑う。「会いに行けば?棗は動けるんだし」
「そうしたいのは山々だがな、」
「・・・行くと、何か都合の悪いことでもあるの?」
ルカをマジマジと見つめた。こいつとも付き合いが長い分、何かと見抜かれてしまう。
・ ・・都合の悪いこと、
ある。大ありだ。
あの男と一緒にいるところなど見たくもない。だからと言って、いない時を目指しても、蜜柑の顔を見た途端、不満をぶつけかねない。
結局、手をこまねいているだけの日々。彼女の為になるような展開になど、ならないだろう。

何も答えずに黙ったままでいると、彼は頬杖をつき、ウィンドウの外へ目線を移した。
「理由なんて聞かないけど。彼女も・・逢いたがっているんじゃない?」
「・・・・・・・・・、」
「待ってるかも」 目線を戻し、はんなりと微笑んだ。
「・・・・・・・・・」
「棗が逢いたいって思っているなら、彼女だって同じなんじゃない。そんな顔して、色々と溜め込んでいないで、さっさと会いに行けば?」
「・・・・・・ルカ」
そのどこか説得力がある言い方は、妙なくらい、ストンと胸の中に落ちた。
――― 蜜柑も逢いたがっている。
そして、・・・自分も。
顔を見たら何を言い出すかわからないという心配は、二の次なのだろうか。
確かに彼女に逢わずにして、このモヤモヤとした感情を打ち消すことなど出来ない。
「本気なんだね」
ルカは立ち上がり、伝票をつかんだ。
「・・なんだよ」 
「いや、ちょっと安心しただけ」
「・・・・・・・・」
何も言わずに、同じように立ち上がる。ルカが支払いへと向かっていく。レジにいた女に伝票を渡すと、彼女はルカを見て頬を染めていた。
・・・本気。
これまでの、女との関わりを散々見てきた彼だからこそ、出る言葉だ。
客観的に聞いても、違和感はない。
「今度、」
「?」
「会ってみたいな。彼女に」
「・・蜜柑に?」
ルカが優美な笑みを浮かべ、軽く頷く。
「学校では遠目にしか見たことがなかったしね。棗をそんなに動揺させてしまうなんて、どんな子なのか、一度会って、話がしてみたいな」
「・・・・・・・・・・」

――― 動揺。
そんなに切羽詰った顔をしているのだろうか。
自分がどれほどの人間かなんて、興味もないが。

どうやらこれは完全に、
蜜柑に飲み込まれているらしい。


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