7月のシンデレラ 番外編/ final stage


夕方、蜜柑の時間が空きそうな頃を見計らって、彼女の家へ出向いた。

今日は木曜だが、もう受講は終わっている時刻で、奴も帰っている頃だろう。顔を合わせずに済むなら、それに越したことはない。

到着すると、彼女の母親が出迎えた。
「まあ、棗君、いらっしゃい」
さあ、入って入って、という彼女は、まるで自分に逢いに来たのではないか、というほど喜んでいた。
思わず、苦笑いをする。だがその笑いは、すぐに冷ややかなものへと変わった。男物の靴。
・・これは。
「あ、蜜柑ね、まだ勉強中なのよ」 申し訳なさそうに言う。
「わからないところで躓いているらしくて。少しだけ延長してもらっているの。もうすぐ終わるから、待っていてくれる?」

延長。・・・つくづくついてない。結局、避けていても何の意味もない。

リビングに通され、彼女の母親はキッチンへと向かう。それを追いかけるように見ていると、ある扉に目が止まる。蜜柑の部屋だ。今、向こう側ではあの男とふたりで、・・・・沸々と湧き上がる苛々感。
眉間に皴がよる。
それを振り切るように、扉近くのソファに座った。思いのほか勢いよく腰を掛けてしまい、軽い風圧が肌を掠める。
ソファの背に深く身を預けながら、気を落ち着かせた。考えれば考えるほど、きっと堪えることなど出来なくなる。意識を逸らさなければ。
だが努力も空しく、突如、蜜柑の部屋の中から、ゴトリと物音がした。
聞こえる、微かな声。
無意識に立ち上がった。扉に近付く。くぐもった声が聞こえる。

『見せてごらん』
『なんや、・・・恥ずかしい』
『恥ずかしくないから。こういうのに僕は慣れているから。痛くしないよ』
『・・・ホンマに?』
『うん。だから、ね』
――― なんだ、この会話は、
『・・・・じゃあ、』
『肌が綺麗だね。スベスベしてる』
『なん、先生ったら、・・・あ、』
『力を抜いて、・・優しくするから』
『・・・ひゃ、』

(――― 危なっかしい男だから)

――― あいつ、
強く握り締めていた掌を開放し、ノブに手をかけた。

「蜜柑!」

勢いよく開いた扉の向こう側で、ふたりは驚愕した表情で振り返った。同時に、鳴海の体が大きく飛び退いた。



「いてて、」
「先生、手を避けて」
「冷たっ」
「すぐに慣れるから」
鳴海が蜜柑の母親に、湿布を張ってもらっている。背中の一部分を出し、情けない格好でソファに凭れかかっている。
「ナル先生、大丈夫?」
蜜柑が心配そうに声をかけた。
「うん、大丈夫。・・・心配ないから」
そう冷や汗をかきながら本人が答えれば、蜜柑が困惑した面持ちで、こちらを見る。
「だから、悪かったって言ってんだろ」
そっぽを向き、居心地悪く言った。

扉を開けた時、彼らの驚きようは半端じゃなかった。特に鳴海の方は、ほぼ同時に体が後ろへ飛び退き、蜜柑の机の角に背中をしたたかに打ちつけた。
「睫毛が目に入って、とってもろうてた、だけやのに・・」
蜜柑がポツリと言う。

脱力感。
・・ったく、馬鹿馬鹿しくて、腹が立つ。
蜜柑に逢いに来たはずが、なんでこんなことになるんだ。
いや、・・・そもそも立ち聞きをした自分にも問題があるのだが。

「先生、送っていくから」
蜜柑の母親が、車の鍵を手にした。鳴海はやんわりと断るが、立ち上がると、より一層痛みが増したのだろうか、しずしずと母親の後をついていく。
「蜜柑ちゃん、また来週、」 背中を擦りながら、力なく手を振った。それからこちらへ顔を動かす。
「君は、最強の彼氏だね」
「・・・・・・悪かったな」
「うん、でも僕としては嬉しいね。これで蜜柑ちゃんに、変な虫はつきそうにない」
彼はどこか安堵したような声音で言うと、また女のような軽々しい笑みを浮かべて、家を後にした。


「棗、何か、冷たいものでもいれるね」
二人きりになり、蜜柑が余所余所しくキッチンへと向かう。鳴海騒動のせいで、彼女の母親が準備していたものが中途半端になっていた。冷蔵庫の扉を世話しなく開けている。
「何がええ?何でもあるよ。麦茶に、コーラに、」
「・・・呆れてんだろ」
近付き、問うように言えば、彼女の動きが止まる。
「おまえの勉強中に押しかけて、挙句の果てにこのザマだ」
「・・・・・・・・・・」
蜜柑が冷蔵庫の扉を静かに閉めた。
「もしかしたら、まだ、・・・間に合うかもしれない」
「・・え?」
蜜柑は目を瞬きながら、こちらに顔を向ける。その顔を見ながら、扉に手をつく。
「俺は、おまえとあいつが二人きりでいるところなんて、見たくはないし、想像もしたくない。そこにどんな理由があってもだ。だからもう、いっそのこと、家庭教師なんて止めにして欲しいと思っている」
「・・・なつめ」
「この件に限らず、これから先も同じようなことがあれば、間違いなく縛ることになるだろう。おまえはその度に苦労する。俺は、そういう男だ」
「・・・・・・・・・・・・」
「だから、離れるなら、・・・今のうちだぞ」
「・・・・・・・・・・・・」
蜜柑は、何度も目を瞬いていた。
「・・・蜜柑」
そう名を呼べば。忽ち、目の淵が赤くなり、水滴が零れ落ちそうになる。
「み、」
再び名を呼ぼうとした時、彼女の細い腕が縋るように首にまわった。
「なつめ・・・」
その動きに、声に連動するように、自分もまた、彼女の体に腕をまわす。
「そんなこと言わんといて・・・逢いたかったんよ、ずっと」
「・・・・・・・・、」
「せやけど、ウチ、棗に逢うたら、アンタのことばっかり考えて、勉強なんて身に入らへんようになってしまうんやないか、思うて。ずっと、ずっと我慢してた」
「・・・・・みかん」
「せやから、逢えて、逢いに来てくれて、・・・ホンマに嬉しい。アンタがどんなにウチを困らせたかて、もう、・・・・離れるなんて、そんなこと、・・・絶対に出来へん」
「・・・・・・・・・・」
頼りない声。しかし縋る腕は、強さを増して。
華奢な体から伝わる想いに応えるように、強く抱きしめる。
胸の中に広がる、途方もない安堵感。
愛おしくて、・・・たまらない。
「・・・後悔するぞ」
ゆっくりと体をはなす。子供のように頬を濡らした蜜柑を見つめる。
「せえへんよ。アンタと離れていた10日間の辛さを思うたら、そんなの平気や。それより棗こそ、・・・こんなバカな女で、後悔するかも」
「そうかもな」 
「う、」
「冗談だ」
そう笑いながら言えば、彼女もまた、ほんのりと微笑んだ。
―――― ルカに感謝だな。
「それにしても」 
話を切り替えるように、一つ吐息をつく。
「何でこんなに猛烈に勉強しているんだ?成績については大体聞いたが・・、まだそんなに焦らなくてもいいんじゃねえのか?おまえには、陸上という道もあるわけだし」
その質問に蜜柑は、成績のことは蛍に聞いたんやね、と言い、頬を膨らませた。ついでに言っておくが、今井が小さい頃からコーヒー豆を買いに来ていたことは、付き合い始めてから知ったようだ。
「棗に、少しでも、追いつきたくて・・・」
「・・・追いつきたい?」
蜜柑の顔を食い入るように見つめて訊けば、彼女は小さく頷く。
「同じ高校に入りたくて・・・せやから、今からやらんと間に合わん思うて。それでも、足りないかもしれへんけど」
「・・・・・・・・・」
何を考えているかと思えば。・・・そういうことか。
だからこの間、どこを受けるのかと聞いたのか。
「・・・・・バカ」
呆れたように言うと、蜜柑は口を尖らせた。
「高校なんて違ったって、たいしたことじゃねえよ」
「・・・・・・・たいしたことあるもん」
思わず、かぶりをふる。
「どうでもいいことだ。別に遠くへ行くわけでもない。同じ市内だ」
「そうやけど・・・」
蜜柑は、どこか納得のいかない顔をしている。
「まあ、でも」
「・・・・?」
「おまえが頑張りたいというなら、それはそれで応援する」
「ホンマに?」
蜜柑の顔が、ぱあと明るくなる。
「その代わり、」
頬に触れ、指先で小麦色の肌をなぞる。
「俺にも、手伝わせろ。鳴海にばかり頼るな・・・」
そう言って、軽いキスをすれば。蜜柑は喜ぶどころか、惑うような表情だ。
「なんだよ。嫌なのか?」
「そうやない」 首を大きく左右に振る。「棗に教えてもらえるのは、めっちゃ嬉しいねん。せやけど、ホンマにウチ、物覚え悪いし、理解力も・・・・冗談抜きで、アンタは嫌いになるかもしれへん」
「ならねえよ」
「ホンマかな・・」 
「有り得えない。心配すんな」
――― 俺は、おまえのそんなところを好きになったわけじゃない。
「何なら・・・早速、個人レッスンするか?」
「え、や、今日はもう、いいやん。疲れたし」
「・・・・・・・・・・・」
その蜜柑の逃げ腰の態度に、突如、不満が押し寄せる。
鬱積していたものは、彼女の想いを知ってもなお、消えることはなく。
堰を切ったように溢れ出す。
再び冷蔵庫に手をついた。蜜柑を追い込むように囲う。
「な、つめ?」
「・・・気にいらねえな。この10日間、鳴海といる時間の方が多かったなんて、穴埋めしてもらわねえとな」
「あ、穴埋め?」
蜜柑の顔がひきつっている。
「ああ、穴埋めだ」
「えっ、・・・・・」
顔を近付ける。
何が起こるのか咄嗟的に理解した蜜柑が、すっと瞼を閉じた。


強い独占欲が、駆け巡る。
それは自分でも持て余すほどだ。もはや、付ける薬はない。

・・・許せ、ルカ。
当分は、無理だ。会わせてやれない。
学校でも、声をかけるなよ。

そして蜜柑。
俺をこんな風にしているのは、お前だということを

・・・忘れるな。




Fin


お粗末さまでした;;やっぱり、蜜柑は苦労するかも(苦笑)ですね・・!


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