7月のシンデレラ / stage 5


コーンを持った店員が、ケースの扉にかけた手を止めた。心配そうな面持ちをしている。

「あの、大丈夫でしょうか?」 店員が訊く。
「・・・・・え?」
蜜柑が不思議そうな顔をする。
「・・・これで三つ目ですよ。それも全部、トリプルで・・・」

最後の方の声は、喧騒にかき消された。売る側の人間が、そんなことを忠告するのはおかしいとも思っているのか、戸惑う雰囲気も伝わってくる。蜜柑は、そんな店員にわずかに微笑むと、これで最後ですから、と言い、小さく頭を下げた。自分のお腹の状態を気にしてくれた礼のつもりだ。

昼間起こった衝撃的な出来事から、漸く落ち着きを取り戻しつつあった。今は部活が終わり、寄り道をして、ひとりアイスのやけ食いである。時間が経つにつれ、無性に腹が立って仕方がなかった。
棗と、どんな関係か知らないが、理不尽極まりないあの女の言い方を思い出すと、悔しさが込み上げる。
だがその反面、何度もため息が零れ落ちていた。
あの後、汗と涙にまみれた顔を水で流し、もう一度携帯を捜した。授業が始まっていることは、校庭に出てきた生徒の姿を見て知るところとなったが、そんなことはどうでもいいと思えるほど気分的に落胆していた。程なくして隙間に挟まった捜索品が見つかった後も、しばらくぼんやりとしていた。
悲しかった。そうとしか表現しようがないほどの、悲しさで溢れかえっていた。あの時投げつけられた言葉のすべてが頭から離れずに、いつまでも居座っていた。

―――明後日は、どないしよう。

そればかりが頭の中を駆け巡る。本当は今日の帰りも約束をしていたのだが、用事ができたとメールを送り、断った。早速あの女の言いなりになっているようで、ひどい嫌悪感に襲われていた。この約束まで断ったら、彼はどう思うだろう。
(―――― 本気で相手をしているわけじゃない)
この言葉は、蜜柑にとって、かなりの重みを持ってのしかかっていた。棗は本当にどういうつもりで自分のような女に声をかけたのだろうか…。まったくわからない。聞く勇気もないのだが。
理由なんて、あまり拘らない方がいいと自分に言い聞かせてきた。別に彼がほんの遊び心で声をかけてきたとしてもいいじゃないかと、羨んでも近づくことすら出来ない存在だったのだから。
しかし蜜柑の中では、棗と過ごす時間が長ければ長いほど、もう彼に対して、そんなことでは片付けられないほどの感情が根付いていた。いつしか彼の特別な存在になることを望んでいる自分がいるのだ。それをあの女の心ない言葉によって、より強く認識させられた。だから、本気で相手にされていないのなら、もうこれ以上は親しくならない方がいいのだ。傷口は浅いに越したことはない。

だが、簡単に割り切れる問題でもなかった。棗との関係を切りたくないと思っている自分の方が、圧倒的優位に立っている。もう、頭の中はかなり混乱していた。あれほど蛍たちに忠告されていたのに、他人事のようにとらえ、安穏としていた。彼女たちはきっと、こうなるだろうことを予測して、心配してくれていたのに。
お粗末すぎて、話にならない。このまま突き進んで、傷ついていく自分も見たくはない。でも、棗とも離れたくはない。
今晩か、明日には、日曜のことについて、彼からメールが入るだろう。その時までに、どうするか決めなくてはならないのに。

蜜柑は、もう一度大きくため息をついた。アイスが少し溶けかかっている。無造作に口をつけた。冷たさが口内に広がり、やがて喉奥へと消えていく。やりきれなさだけが取り残される。

「ああ、もう、どうしたらええんやっ」

大きな声で独り言を言いながら、ガブリと再びアイスを口に入れる。やぶれかぶれだ。唇は、アイスまみれだ。周辺に座っていた数人の客が見ていたが、そんなことはどうでもよかった。


結局、気持ちに決着が付けられないまま、夜を迎えた。そして予想していたことは、いとも簡単に訪れた。それも意外な形で。

風呂上りに携帯を覗くと棗から電話が入っていた。メールではなく、直接連絡をくれたようだ。
こんなことは初めてだ。
思わず、天を仰いだ。これは、こちらから連絡を入れなおすべきだろうか。でも返事は?
携帯を握り締めながら、ウダウダと考えていたら、突如電話が鳴った。ビクリとする。
――― な、もう、きてしもうたん?
早すぎるではないか。心の準備が出来ていない。画面を確認した。
「・・・・・・・・・、」
蛍?
表示されている名前は、蛍だった。慌てて、通話ボタンを押す。
「ほたる?」
「遅い」 
「ごめん、お風呂上りだったから。何や、突然電話なんて、」
電話口の向こう側から、ふう、と軽く息を吐く音が聞こえた。
「昼休み、何があったの?」
「・・・・え、」
蛍のその言い方に言葉が詰まる。何かあったの?ではなく、何があったのかという、確信めいた訊き方だ。
「まさか、あんまり携帯が見つからないからって、泣きながら捜してたってことはないでしょう」
「・・・・・・・・・」
蛍は、だいぶ時間が経ってから教室へ戻ってきた蜜柑の様子に尋常じゃないものを感じ取っていたのだろう。何ごともなかったかのように振舞っていたつもりだったのだが、見抜かれていたようだ。
やはりこの親友の洞察力は侮れない。
「な、何、言うてんの」
「・・・・・・・・・・・・・」
「泣いてなんか、あらへんよ。汗や、汗。目に入って染みて大変だったんや。まあ、あんまり見つからへんから、確かに泣きそうにはなっとったけどな」 あはは、と笑いながら咄嗟的に、嘘をつく。
「・・・・・・・・・・・・・」
「もう、深読みしすぎなんや、蛍は、」 精一杯の演技。
「・・・・・日向棗、」
「え?」 ドキリとする。ここで彼の名前が出るとは。
「今日は、ひとりで帰ってたわよ」
「・・・・・・・・・・、」 
・・・・・ひとりで・・・?
「一緒に帰るんじゃなかったの?」
「今日は、ウチに急用ができて、・・・・って、アンタ、そんな時間まで学校に残ってたんか?」
「委員会の仕事が長引いたのよ」
「そう、なん」
「取り巻きのいないあの人を見るのは、初めてかもしれないわね」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・わかったわ」
これ以上聞き出しても仕方がないと思ったのか、蛍はあきらめの声を出す。
「何もないならいい、・・・・じゃあね、」
「蛍、」
「・・・・?」
「心配してくれて、ありがとうな。ホンマに大丈夫やから」
親友は一瞬、ふっと、笑ったようだ。そしてごく小さな声で、相変わらず嘘が下手ねと呟き、電話を切った。
―――― 蛍、ゴメン。
閉じた携帯に、思わず謝る。嘘をつき通せる自信があって、ついたわけじゃない。彼女に嘘は通用しない。だが、どうしても言い出せなかった。もともと棗と関わりを持つことに反対だった蛍に、昼間の出来事を話してしまえば、彼の印象はもっと悪くなる。それだけは避けたかった。
(―――― ひとりで帰ってたわよ)
棗の姿が、浮かぶ。
切なさが込み上げた。
・・・・逢いたい。
少し強引だけど、いつも蜜柑を気遣ってくれていた。たまに見せる穏やかな顔つきは、はっとするほどの美形で、思い出すだけでも鼓動が早くなる。本当に、自分でも驚くほど、これまで以上に彼を好きになっている。
本気で、失いたくないと思っている。
だからこそ、怖くてたまらない。
傷つくことを恐れては、前に進めないのに。

手の中の携帯が赤く光り、着信を知らせる音が鳴る。メールだ。確認すると棗からだった。
電話じゃないことに、ホッとする。本文に目を通した。
「・・・・・・・・・」
内容については予想通り、日曜日の時間についてと、妹がとても楽しみにしているということだった。無論、電話で話さなくてもいいような話だ。それとも本当は、別に用件があったのだろうか。

蜜柑は、携帯を閉じる。
明後日のことは、明日結論を出して、きちんと返事をしよう。
こんな中途半端な気持ちのまま、返信は出来ない。

出逢ってから、数週間。
ふつうの恋には、程遠い気がしてならない。




翌朝、蜜柑は母親の柚香の浮ついた声で、目が覚めた。
「蜜柑、起きて、」
重い瞼を押し上げて見れば、柚香が覗き込んでいる。今日の練習は午後からで、目覚ましもセットせずに朝寝坊を決め込んでいたと言うのに。
「・・・なんや?」
「アンタの学校が、テレビに出るわよ」
「・・・・・・・・・」 テレビ?
ああ、と蜜柑は納得する。土曜の朝に放送している地域情報番組の特集で、今が旬の注目校が取り上げられるコーナーがあった。それに、出るというのだろう。そう言えば学校でクラスメイトが喋っていたような。だが蜜柑は、再び襲ってきた睡魔の前にそんなことはどうでもいいという気分になっている。どうせ誰かが録画していて、望まなくても目にするのは間違いないからだ。
「・・・ええよ、別に、・・・観なくても」
「なあんだ」 柚香が膨れたような声を出す。「せっかく、教えてあげたのに」
「・・・・・・・・・・・・」
何も答えずに布団に顔を埋めるようにしていると、柚香がブツクサと言いながら、立ち去る気配がする。
「県大会の上位候補のサッカー部が出るとかなんとか言ってたけど、確かにアンタには関係ないもんね」
「・・・・・・・・」 え?
蜜柑が、布団から跳ね起きる。
柚香が振り向いた。
「ちょ、びっくりするじゃない」
蜜柑は驚く彼女を他所に、素早くベッドから降りると、母親を追い越してリビングへ向かった。


テレビを観ると、丁度サッカー部が練習をしている場面が映し出されていた。紹介アナウンスが流れる。部が創設されてから初の県大会出場だが、今大会最も優勝に近いチームだと、説明されている。 これは知らなかった。いつの間に撮影したのだろう。棗からは、何も聞いていない。

ぼんやりと観ていると、柚香の声が背後から聞こえた。
「へえ、これはかなり期待出来そうね」 言いながら隣に並ぶ。
画面は、部員ひとりひとりのシュートシーンに切り替わっていた。・・・と、言うことは。と否や、棗が
画面に現れた。鮮やかにゴールを決める。カメラがズームし、彼の端正な容姿が、よりクローズアップされた。
「わあ、この子、かっこいいっ」 母親が隣ではしゃいだ声を出す。見れば、韓流ファン顔負けの煌めいた表情で彼を見ている。
「蜜柑、この子、誰?」
「だ、誰って、」 焦る。何を訊くのか。
「知ってるんでしょ、」
「・・・・知らんよ」 顔を背けた。昨日の今日で、知っていると自慢する気にもならない。
すると柚香は、不満そうな気配を露わにした。
「知らないってことないでしょう、だって、隣で練習してるんでしょ?」
「知らんって言うたら、知らんの」
背を向け、自分の部屋へと向かう。
「なんなの、訳わかんない子ね、慌てて観にきたくせに」
子どもみたいな口調で文句を言う柚香を無視して、部屋の中に入った。ベッドに向かい、再び布団に潜る。
サッカー部と聞いて、つい反応してしまった。いけない。ついでに言えば柚香の反応には、参った。彼は、あの年齢にも受ける顔なのだ。
知っていると、自慢げに言えたらどんなにスッキリしただろう。先行きの見えない彼との関係を考えると、胸を張って言えることじゃない。
「・・・ねえ、蜜柑、」
再びドアが開く。しつこい。眉根が寄る。
「知らないって言うてるでしょ、」 うんざりした声を出す。
「そうじゃなくて、」
「・・・・なん?」 枕から頭を上げ、ドアの方を見る。
「あのね、」
柚香は、狐にでも摘まれたような顔をしている。
「さっきのテレビの子が、来てるんだけど、」
「・・・・・・・・・・・」
――― なんやて?!

蜜柑は、再び布団から跳ね起きた。

彼はどうしていつも、予想もつかない行動をするのだろう。
教室へ来てみたり、家へ来てみたり。
いつも動揺の連続だ。


慌てて着替え、顔を洗って髪を梳かすと、玄関先へ向かった。柚香があがるように勧めたようだが、丁寧に断ったようだ。ドアを開けると、棗は、庭の方へ向けていた体ごと、こちらを振り返った。
間違いなく彼だ。練習に行く前なのか、制服を着ている。

「・・・おはよう、ございます、」
「まだ、寝てたのか?」  揶揄するように言う。
「あ、もう起きてたんやけど、着替えをしてなくて、」 下手な言い訳をする。「それより、さっきテレビに」
「ああ、」 どうでもいいような顔に変わる。「今日だったのか」
「観なくてよかったん?」
「別に。興味はない、あんなの」 
「・・・・・・・・・・、あの、よくここが、」
「三園東に住んでる佐倉という苗字で探したら、すぐにわかった」
「どないしたん?わざわざ訪ねてくるやなんて、」
「・・・・・・・・・・」
紅の瞳が、じっと蜜柑を見つめる。
「顔色は、悪くねえな」
棗の手がすうっと伸び、蜜柑の頬にふれる。
背筋が、一瞬、熱くなる。だが、途端に頬が軽く引っ張られる。
「・・・・・・・いっ、」 
見れば彼は、子どもみたいに拗ねた顔つきをしていた。
驚く。こんな顔は初めて見た。
「どうしたんだ?なんで、昨日は返信をよこさなかった?」
「・・・・・・えっ、あ、・・ごめんなひゃい、」
頬から手が、離される。すぐに指の背をあて、撫でてきた。
「昨日は帰りも一緒じゃなかったし、夜は夜で返事も来ねえから、どこか具合でも悪くしてんじゃねえかと思ってた。・・・・それとも、」
彼は静謐な眼差しを蜜柑に向ける。
「何か、あったか?」
「・・・・・・・・・・・・・」
―――― 心配、・・・してくれて、
「・・・・・・蜜柑?」
蜜柑は、目を逸らした。その思いやりが、胸の中にじんわりと広がる。涙が出そうだった。棗は、そのためにわざわざここに。
「大丈夫なのか?」
「うん、・・・何も、あらへんよ」 目線を戻し、微笑む。「このとおり、元気や。昨日の夜は、早く寝てしもうて送れなかっただけや」
「そうか、・・・・・ならいい」
彼は、頬を撫でていた手を、今度は頭の上に置いた。ほんのり笑みを浮かべている。
「明日、来られるな?」
「・・・・うん、」 返事と共に、頷く。
「何時ぐらいに来られる?迎えにいくか?」
それに蜜柑は、かぶりを振る。「大丈夫や。・・・2時くらいには、行けると思う」
「わかった。じゃ、待ってる」 
頭上に置かれた手が、ふわふわと動く。とても心地よかった。

彼の黒髪が朝陽に反射し、つややかに輝いていた。その綺麗な顔立ちを、恍惚と見つめる。

信じたい、と思った。
自分に向けられる彼の行動のひとつ、ひとつを。
だから、今は、このまま。

あの女の顔が浮かぶ。彼女は、きっと黙ってはいないだろう。
もしかしたら、あの時以上に、逆上するかもしれない。
それでも。

今、この手を振り切ってしまう以上の辛さが、他にあるだろうか。


棗の手が離れていく。


蜜柑は、それに一抹の寂しさを感じながらも、再び幸福感で満たされていく自分を感じていた。




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