7月のシンデレラ / stage 4


人は恋をして、


「佐倉、抜き足をもっと引き付けろ」


その恋が満たされていくと、


 「そう、その調子」


当たり前の日常が当たり前じゃなくなるほどの幸せを実感し、


 「16秒0!」


目に映る景色や、心で感じるすべてのものが愛おしくなる。

いつもはちっぽけで、どうしようもなく自信がないけれど、
彼を好きになった自分は、・・・好きだと思えた。



風が、変わる。
夏独特の生ぬるさと纏わり着くような湿気を含んだ風は、季節の移り変わりを顕著に現していた。
しかし今の蜜柑に、それを不快と感じる要素は一切ない。県大会を一週間後に控え、練習に余念がないのは勿論のこと、それを上回る状況の変化が彼女自身をかなり前向きにさせている。

練習を終え、部室に向かう途中、いつものように校庭の中央に視線を送る。彼の練習は、まだ続いていた。ここ数日は、蜜柑の方が終了時刻が早い。

―――― もう少し、かかるかもしれへんな

あの最初の誘いから二週間が経過していた。蛍の公言どおり、棗との時間が終わることはなかった。 週に2〜3度は、一緒に帰路につく日が続いている。彼は別れる間際やメールで、次に会う日を必ず聞いてくれるのだ。今日も待ち合わせて、帰る約束をしている。

信じられない、という感情からは、脱しつつあった。それでもつい最近まではまだ、自分の身に起きていることとは思えず、目が覚めれば、すべてが儚く消え失せているのではないかという思いに駆られたりもしていた。それほどまでに彼の誘いは衝撃的で、共に過ごす時間は夢のようだった。

「蜜柑ちゃん、お疲れさま」

視界の端に、野乃子の姿が入った。小走りで近づいてくる。顔を向け、笑みで応えると、彼女の可愛らしい顔が綻んだ。
「その幸せそうな顔は、日向先輩と待ち合わせ?」
野乃子の唐突な言葉に、少し面食らう。
「なんや、いきなり」 苦笑いをした。
「あ、当たりなんだ。蜜柑ちゃんすごく調子いいし、先輩効果かな、なんて思ってたの」 ますます楽しそうに微笑んでいる。
「もう、野乃子ちゃんには、かなわへんね」
言いながら並んで歩き出す。自分はどうあってもわかりやすい人間なのだ。意識しているわけではないのだが。
「羨ましいな。うまくいくといいね」 
「そんなんじゃあらへんって」 
「そんなことないよ。きっと大丈夫だよ、何度も誘ってくれてるんでしょ?」
「ん、まあ、・・・一緒に帰るだけやけど、」 気恥ずかしい。
「でも、」
野乃子が立ち止まる。
「ん?」 一緒に立ち止まった。「どないしたん?」
すると彼女は、やや顔を近づけ、密やかな声を出す。
「急に後ろを見ないでね」
「?・・・うん、」
「いつも日向先輩の近くにいる先輩たちいるでしょ?今も、練習見てるけど、」
ほぼ毎日のように来ている、女性生徒たちのことを言っているのだろう。
「その中の一人の先輩が、蜜柑ちゃんのこと、いい目で見てないって噂が聞こえてきたの」
「そうなん?誰・・・やろ?」 初耳だ。
「そっと見てね。左から3人目の、セミロングの・・・」
何気にその場所を見る。目に入ったのは、以前からよく棗の近くで見かけていた女性だった。
かなりの容姿で、人目をひく。
「日向先輩とはクラスが一緒で、かなり親しいのかな、一時期彼女なんじゃないかって、噂がたった人なの。蜜柑ちゃん、・・・・気をつけて」
「うん、・・・・」
複雑な心境だ。

蛍からも忠告をされていたことを思い出す。やはり棗が相手では、手放しに幸福感を味わうのは無理なのだろうか。浮かれた心を抱えるあまり、周りの変化について失念していた。

現にふたりの行動は、密やかな噂になりつつあった。それは蜜柑自身も自覚している。
毎日ではないにしろ、つい数週間前まで、彼の隣にはいつも違う女が寄り添っていた。部の終了時刻まで居座り、一緒に帰ろうと躍起になっている女子生徒は、ひとりやふたりではない。それがある日を境に、彼女たちの誘いをすべて振り切り、これまで何の接点もなかった年下の女に目を向けるようになったのだ。あの日向棗が誘いをかける女とは誰なのか。夕刻の校庭から話は広がり、やがて昼間の校舎にも蔓延しつつあった。隙あらば、その芽を摘み取ろうと動き出す人間がいてもおかしくはない。

しかし内心では、うんざりとした気持ちを抑えられなかった。気をつけろと言われても、どう気をつければいいのか。正直わからない。

だからこの時はまだ、野乃子の忠告を漠然とした思いでしか、捉えていなかったのだ。



「悪い、待ったか?」 
人がはけた頃を見計らって校門前で待っていると、彼が少し急ぎ足で駆けて来た。
「お疲れさまです、いえ、ウチも今来たところです」 
「・・・・・・・・・・」
言葉なく、じっと見返してくる。
「?…どうしたんですか?」
「その話し方、やめろよ」 歩き出す。
「話し、方?」
「敬語」
「・・・、せやけど、」 
「けどもへったくれもねーよ。いつまでそんな言い方する気だ?」
「いつまでって、」 特に意識していなかった。「・・・・すみません」
謝っている矢先からまた敬語になっている。そんな蜜柑に彼は苦笑いをした。
「別に謝らなくていい。それと、」 立ち止まる。
「・・・・・・・・?」
「呼び名。棗でいい」
「・・・・・・・・・、」 目を見開く。言葉が出ない。
彼はそんな蜜柑に少し笑うと、再び先を歩き出した。夏服の白いシャツを着た背中が、優しく感じる。

・・・・・ 棗、

胸のうちで呼んでみても、恥ずかしくなる。
呼べるはず、ないじゃないかと思ってしまう。
彼の名を呼ぶ度にきっと、・・・・・沢山の気力を必要としそうだ。

「それはそうと、待ち合わせ場所、変えたほうがいいんじゃねえか?」 
彼が振り返りながら、少し心配そうに問う。
「あの場所じゃ目立つし、何だかんだと面倒だろ」
「いえ、あの大丈夫・・です。日向、じゃなくて・・・・な、」 
蜜柑が戸惑いながら言葉を切る。情けないほど、しどろもどろだ。最後は名前を言おうとしたが、やはりまだ言えない。
「なんだ、とうとう、しゃべれなくなってきたか」 揶揄するように言う。「そんなに難しいことじゃないねえだろ」
「難しいです」 この問いに対しては、断じて言う。拗ねたような顔になっているに違いない。
「何が」
「せやかて、先輩ですから。急に言葉を変えろと言われても、・・・難しいです」
「いい加減に慣れろ。オレは、おまえの部の先輩でもねえし、ましてや、後輩だからとかそんな理由で誘っているわけじゃない」
「・・・・・・・・・・」
じゃ、どんな理由で?・・・・という言葉が出かかる。しかし、寸でのところで思いとどまった。今はあまりこういうことに、こだわらない方がいい。
「んな、深刻な顔すんな」
額を、ピンと弾かれる。
「いたっ。何すんねんっ、・・あっ、」 
ジンとした痛みに耐えかね、抗議したが、自分の発した言葉にはっとした。思わず口を抑える。
その様子に棗はクッと喉を鳴らし、可笑しそうにする。
「それでいい」
「・・・・・・・・・・」
すっかり彼のペースになりつつあった。確かにこのまま、いつまでもお行儀よく敬語を使うのは窮屈極まりないかもしれない。額を、少しさする。
「次の日曜は、どれくらい練習が入ってる?」
「・・・え?」 そのままの格好で、彼を見る。
「一日、入ってんのか?」
その問いに、蜜柑は小さくかぶりを振る。
「午前中だけ、やけど、」 たどたどしい。
「・・・・・・・・・・・・・」
すると棗は、ふいに手を伸ばし、蜜柑の前髪に一瞬ふれた。突然のことに、彼の顔を見る。
「じゃ、午後は空いてんだな」 
蜜柑の驚きようなど見ていないかのように、話を続ける。
「葵が、おまえを連れて来いとうるせえんだ。オレも午前で終わる予定だから、用がなければ来いよ」
「・・・・・・・・、」
「蜜柑?」
「え?」
――― 今、なんて、
「来られそうか?」
「・・・・・・はい、」
ぼんやりと返事をした。
彼は、今確かに自分の名を呼んだ。その臆面もないタイミングは、動揺に追い討ちをかけた。おそらく殆ど無意識だろう。
「どうせ、ロクでもねえ話しかしねえんだ、あいつは、」
「・・・・・・・・・」
どうしてこう、・・・・・この人は、なんでもすんなりこなしてしまうのだろう。
自分は、その度に平静でいられないというのに。
・・・ふわりと触れられた、手。
額の痛みを気にしてくれたのだろうか。手を繋いだ時といい、あの時も彼は、自然に振舞いやり過ごしていたが、蜜柑にしてみれば驚愕の連続だ。いちいち心臓に悪い。これで万が一、彼女にでもなったら、
彼女・・・?
自分の言葉に、ドキリとする。何を、思い始めているのか。いや・・・今更だ。こう考えているのは、きっと今に始まったことじゃない。いつも心のどこかで、それを望んでいる自分がいるのだ。ただ自信がないだけで。
気がつけば、体がひどく脈打ち始めていた。顔も熱くなっている。今度は頬を手で抑えた。
「おい」
「え?」 
彼の方へ顔を向けた。目が合う。
「まさか、ほっぺたまで、痛えのか?」 
「や、これは、・・・」
慌てて、頬から手をはずす。
「なんでも、あらへん」
「・・・・・・・・・・・」
すると彼は、かすかに笑った。
「いちいち、おもしろいヤツ」 
「・・・・・・・・・・」

その表情は、見惚れるほど
・・・・・たおやかだった。




「もう、どこにいったんやろ」

今は昼休みだが、校庭に数多く存在する、ある部室の中で、ボヤキが聞こえる。
「おかしいな。あるとすれば、確か、この辺のはずなんやけど、」
室内は窓一つない状態で、外気温以上のうだるような蒸し暑さだ。その中で蜜柑は、汗を滲ませ、懸命に携帯を探していた。昨日、荷物の整理をしていたとき、うっかり置き忘れたのだ。これでは棗にメールを送れない。日曜日の詳しい内容について、連絡を取り合うことになっているのに。

――― あさって、なにを着て行こう、

棚の物を避けながら、日曜日のことに思いを巡らせる。思わず顔がニヤついてしまう。下校以外で棗に逢うのは初めてだし、彼の妹、葵に会えるのも楽しみだ。そして、あの家族の雰囲気も一度で、好きになった。あの和やかさは、自分の家にはないものだ。

お土産は何にしよう、あの一家は甘いものが好きそうだから、街のどこかで美味しいものでも買っていこうか、考えるだけでも楽しい。だが同時に、この暑さにもうんざりとし始めていた。ドアにストッパーがついていないことを恨めしく思った。これでは、開けっ放しにも出来ない。蒸し焼きになるではないか。
だがその時、背中にふわりと生暖かい風があたった。誰かがドアを開けたのだ。
躊躇なく、すぐに振り返る。
「・・・・・・・・・、」
声を出せなかった。目に入った人物は、あまりにも想定外だったからだ。いや正確には、こういう形で対面するとは考えが及ばないと言った方が相応しい。しかしそこにいるのは間違いなく、昨日、野乃子が話していた・・・・あの女(ひと)だ。
彼女は後ろ手で静かにドアを閉めると、すうっと目を細め、こちらを見据えた。遠目に見ていた時より、スレンダーで、抜群に綺麗だ。

「佐倉蜜柑ね」
「・・・・・・・・・」
「単刀直入に聞くわ。あなた、棗と、どんな関係?」 近付いてくる。
「どんな、関係って、」
思わず後ずさる。しかし、後ろはすぐ棚だ。
「答えなさい」 威圧的だ。
「・・・・個人的なことですから、答える必要は、ないと思います」
蜜柑は、彼女の態度に一抹の恐ろしさを感じながらも、精一杯答える。だが、そう言うが否や、相手の表情に翳りが増していく。口元を歪め、冷たい笑みを浮かべた。先ほどの美しい容貌は、影を潜めている。
「そう出るわけ・・・、まあ、いいわ」 
目の前で立ち止まった。
するとこちらに手を伸ばしてくる。
―――― 何を、
顎に手をかけようとしている。
咄嗟的に肩をすくめ、抵抗しようとしたが、強い力がそれを阻んだ。掴み上げると、女が顔を近づける。
「あなた、彼とキスしたことある?」
「・・・・・・・え?」
「あたしは、あるわよ。・・・・何度も、」
胸が、酷くざわめいた。手を痛いほど、握り締める。
「どうして、・・・そんなこと、」
「だから、あたしたちの邪魔しないでくれる?」 
「自信があるなら、・・・・それでいいじゃないですか、」
その投げかけに、女はすっと表情を消した。突き放すように、掴んでいた手ごと、顔を離す。
「目障りなのよ」
「・・・・・・・・・・・」
「彼だって、本気で相手しているわけじゃない。それくらい、わかりなさいよ。だから、今後は一切関わらないで」




額から、汗が滴り落ちる。
水滴は、地面にありきたりの形を残していく。
棚の枠組みに背中をこすりながら、へたりこむように座り込んだ。ひやりとしたコンクリート面が、腿にあたる。

――― あなた、彼とキスしたことある?

そんなこと、

――― 本気で相手しているわけじゃない。

・・・・・・わざわざ言われなくったって、


陽のあたらない室内で、ひとり泣く。
汗か、涙か、もうわからない。
校舎では、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴っていた。

しかし今の蜜柑に、届くはずがなかった。



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