7月のシンデレラ / stage 2


―――― 今度、一緒に帰らないか?


赤い瞳が、問うように見つめている。
言われている言葉の意味を理解しているはずなのに、起きていることに実感がなく、返答できない。今までは遠い存在だったのに、急に目の前に現れ、思ってもみなかったことを口にしたのだ。
この状況をどう信じ、受け入れるべきか。 だが今、確かに彼は、蜜柑を誘っている。
「・・・・・・」
困惑気味に黙っていると、彼はもう一度静かに問うた。
「イヤか・・?」
気遣うような言い方。蜜柑は首を左右に振る。
「そんなことは、・・・ないです」
「そうか」 わずかなに笑みを漏らす。「ならいい、」
「―― みかん、」
後ろを振り返る。
「・・・蛍、」
彼女は、長廊下へと曲がる壁際に立っていた。険しい顔つきでこちらを見ている。
「行くわよ」 彼の方へ、チラリと視線を向けた。
「あ、うん、」
顔を戻した。すると彼も、同じようにやや険しい表情をしている。
だがそう思うや否や、彼は蜜柑の耳元に顔を寄せると、一瞬何かを囁いた。
直後、握っていた手首を離す。
「―――、」
蜜柑が同意するような目を向ける。彼はまた、うっすらと笑みを浮かべた。
「じゃあな、」
言いながら直ぐに背を向けると、理科室の方へと戻って行った。

「蜜柑」
蛍の方へ体を向ける。彼女は、先ほどと同じ面持ちのままだ。
「あのな、蛍、」
「とりあえず、行くわよ」 踵を返す。
「うん、・・」
後に続く。
その華奢な背中を見ながら、困った、と思う。勘の鋭い親友は、彼との間でどんな取り交わしがあったか、だいたいの見当はついているだろう。ついこの間、何も起きたりはしないと断言したばかり
なのに。
――― 絶対なんて、ありえないわよ
あの時の言葉が、浮かぶ。
誰が予想できただろう。こんな展開になるとは。

「来ない、来ないと思っていたら、やっぱりこっちに来てたのね」
蛍が歩きながら言う。蜜柑は、やや小走りをし彼女の隣に並んだ。
「うん、いつもはこっちの教室やから、つい確認するの忘れてしもうて。迎えに来てくれたんやろ。
ありがとうな」
「こんなことなら、アンタを待ってればよかったわ」
「・・・え?」 彼女の横顔を見つめる。
「誘われたんでしょ?」 平坦な声で言う。
「誘われたって、ほどでもないんやけど、」
「なに?」 蜜柑の方へ顔を向ける。
「一緒に、帰らないか、って、」
「・・・・・・・」
蛍が顔を戻し、ひとつ息を吐く。
「立派に、誘われてるじゃない」
「・・・ごめん、」
「何で、謝るのよ。こうなった以上は、もうあたしだって干渉しないわよ」
「蛍・・・、」
「ただ、」 再び蜜柑の方へ顔を向ける。「目を付けられないようにしなさいよ」
「・・・先輩たちに?」
「そう。あいつの周りにいる女から。一緒にいるところを見たら、何しでかすかわからないわ」
「うん・・」
蜜柑は、ゆるりと頷く。
確かにそうだと思った。後輩である自分と彼が一緒にいるところを目撃されたら、色をなすに
違いない。
そこで、ふと思う。
彼は何故、誘ってくれたのだろうか。
唐突に。何の前触れもなく。
――― 彼女は、
絶対にいるはずだ。いないなんて、まず考えられない。
やはり、からかわれている?
こんな色気のないオンナに声をかけた理由はなんなのだろうか。

『明日の帰り、校門の前で』

耳元で囁かれた言葉。
今思い出しても、頬が熱くなってくる。
そこにどんな理由があるのか知る術はない。
・・しかし。
この誘いが、嬉しくないはずがないのだ。


今夜は、眠れないかもしれない。







「抜き足の膝、だいぶ内出血してるな」
岬が蜜柑の足を見ながら言う。
「・・はい、時々ぶつかってしもうて、」
走り終えたばかりの息を整えながら、彼女も同じように膝を見る。
「県大まで、あと三週間か。疲れがたまっているのかもしれないな。キツイか?」
「いえ、そんなにキツイわけじゃないです。せやけど思うように足が上がらへん時は、あります」
「そうか、」 岬が、小刻みに頷く。「少し調整した方がいいな。この先一週間は疲労回復も兼ねたメニューにする」
「はい」
「今日は、もういい。ちゃんと休めよ」
「はい」
返事をしたあと、すぐに校庭の隅の支柱にある時計に目をやる。もうすぐ6時だった。
まだサッカー部は、終わっていない。二手に別れ、試合形式で実戦練習をしている。
もう少しかかりそうだ。
――― 頃合いを見て、先に待っててもええんやろか、
彼との待ち合わせ。
まだ、信じられない。
ふたりで並んで帰るなんて。

練習に身が入らなかったわけじゃないが、やはりどこか浮ついていたのだろうか。
抜き足をハードルの壁面にぶつけてばかりいた。確かに疲れはあると思うが。

「蜜柑ちゃん、これもう片付けていい?」
顔を横に向けると、マネージャーの野乃子がハードルに手を添えていた。
「うん、もう終わりや」
蜜柑も片付けに入る。
「蜜柑ちゃん、日向先輩のこと好き?」
「えっ、」
彼女の唐突な質問に、思わず持っていたハードルを落としそうになった。野乃子は、クスクスと笑っている。
「なんで、」
「だって今日の蜜柑ちゃん、サッカー部の方がかなり気になってたみたいだから。それも、日向先輩のこと、ずっと追ってたよ」
「そ、そうなん?」
「うん」 微笑んでいる。「日向先輩、かっこいいもんね」
「まあ、・・」 何だか恥ずかしい。
「競争率激しそうだけど、頑張ってね」
「頑張るって、ウチなんてそんなとこまでいかへんって」 無理無理と、顔の前で手を振る。「それに、彼女くらいおるやろ」
「そう、かな」 野乃子が少し首を傾げる。
「・・ん?」
「噂で聞いたの、今はいないみたいな話を」
「へえ・・そうなん」
「うん、だからチャンスはあると思うの。蜜柑ちゃん、負けないで」
その野乃子の可愛らしげな言い方に、蜜柑の顔が綻ぶ。
「そういう野乃子ちゃんこそ、誰か好きな人おらんの?」
「わたしは、」 幸せそうな顔をする。「岬先生だから、」
「・・・そ、やったね」
あはは、と微笑んだ。すっかり抜けていた。彼女の岬への愛は、巷でも有名だというのに。
――― ええなあ。
自分もいつか、こんな顔で話する日が来ればいいのに、そう考えていた時、その野乃子の表情が驚愕に一変した。何を思う間もなかった。
「蜜柑ちゃんっ、」
「え、」
野乃子が、手を伸ばす。刹那、頭に衝撃が走った。
――― な、に・・?

倒れこんでいく体とともに見えたのは、ボールだった。
サッカー部の。

「蜜柑ちゃんっ」

野乃子の声が、遠ざかっていった。





「衝撃で気絶しただけ。心配はないわ」

カーテンの向こう側の声で、蜜柑の意識が浮上していく。校医の山田瀬里奈の声だ。
少しずつ瞼を開けると、野乃子が心配そうな顔で見ていた。
「蜜柑ちゃん、大丈夫?」
「・・・野乃子ちゃん」
「どこか痛くない?ボールが当たったところは、大丈夫?」
「うん、」 軽く頭を振ってみる。「大丈夫や。ずっといてくれたん?」
「すごく心配で。でも、よかった」 安堵の表情だ。
「ありがとうな。どのくらい気を失ってたんやろ?」
「ええとね、」 腕時計を見ている。「1時間近くかな、」
「1時間・・、」
思わず顔に悲しさが滲む。
――― 待ち合わせ、
今日はもう無理・・・かな。
「ちょっといいかしら」
カーテンが、開けられる。瀬里奈が顔を見せた。
「大丈夫?どこかおかしなところはない?」
「はい、大丈夫です」 体を起こす。
「吐き気がするとか、ぼんやりするとか、何か気になるところは?」
「ないです」
「そう、よかったわ」 微笑んだ。「でも24時間は注意して」
「はい」
すると校医は後ろを振り向いた。誰かに頷いている。
彼女の体と入れ替わるように現れたのは、
「あ、・・・」
「え、・・・」
日向棗だった。
「大丈夫か?」
鼓動が、一瞬大きくなる。
――― 待っててくれた。
野乃子がひどく驚いた顔をしている。だが反応が早かった。直ぐに立ち上がる。
「蜜柑ちゃん、じゃ、わたし帰るね」
「あ、・・うん、ホンマにありがとうな」
「また、明日ね」
彼女は、はんなりと笑みを浮かべると、彼に軽く頭を下げていった。
「悪かった。こっちのミスで、」
こちらに近づき、先ほどまで野乃子が座っていた椅子に座る。
「いえ、・・そんな、普通はボールなんかで気絶せえへんと思うから。たまたまそうなっただけで、」
「明日、岬に事情聴取されるかもな」
「・・・すみません」
「なんで、謝る?」 不思議そうな顔だ。
「・・・なんとなくです、」 自分でもよくわからない。
彼が、ふっと笑う。
「・・・?」
「帰れるか?」
「・・・はい」
俯き加減で返事をする。だが直ぐに彼を見ると、
切れ長の眼差しと目が合った。
――― 深遠な瞳。
そこには今、確かに蜜柑だけしか映っていない。
その事実がまた、苦しいほどに胸をざわつかせる。
本当に、・・・信じられない。
「行くか」
彼が立ち上がる。
「はい」
それに合わせて蜜柑もベッドの下に足を下ろそうとした。
だがその時、お腹の中から、ある音が鳴り響く。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
蜜柑が思わず、腹を抑える。顔がみるみる赤くなっていった。
「・・・・・・」
彼が、こらえきれず失笑する。
「腹、減ってんのか?」
「いえ、いえ」 懸命に頭を振る。
――― なんで、こんなときに、
顔だけでなく体までもが、汗ばむほどに体温があがっていく。
これは、恥ずかしいなんでもんじゃない。
「思ったとおりだな」
「・・・え?」
「気にしなくていい。ホラ、」
彼が笑いながら手を差し出した。動揺し、立ち上がれない蜜柑を気遣うかのように。
「だいじょうぶです、」
「疲れた体にボールを強打、その上腹が減ってんじゃ、力なんかでねえよ」
「・・・・・・・」

状況はいたたまれないが。

思いとは裏腹に、彼の方へと手が伸びていく。
重ねるように、ゆっくりと置いた。

その手は、優しく握られた。


お願い。
どうかもう、これ以上。
惑わせないで。
後戻りが出来なくなるから。


保健室を出た後も、離れることはなかった温かな感触。



・・・・今夜も、きっと眠れない。




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