7月のシンデレラ / stage 1


わずかな向かい風は、夏の匂いがした。


「佐倉、あと少しだっ」

左足で踏み切り、上体を前に倒して、膝を引き付け着地する。
リズム良く歩数をこなし、また目の前の障害物を繰り返し跳び越こしていけば、徐々にゴールが近づいてくる。

周りの空気が吸い寄せられていくような一体感。何度体験しても飽きることはない。
その一瞬、一瞬が、自分のものになる。最高の気分だ。

「16秒1!まずまずだな」

息を切らしながら、すぐに顧問の岬の方を振り返る。彼は機嫌の良さそうな顔をしていた。再びストップウォッチに、目を走らせている。

「この調子なら、県大もかなりいけるんじゃないか?」 近づいてくる。
「ならええんやけど、表彰台にあがるんやったら、まだまだや」
「今日はもういいぞ。あがっていい」
「はい、」
「ああ、佐倉、」
「?」
「期待してる」
「・・・はい」

彼は、少し照れくさそうに言った。その様相に、蜜柑は内心で微笑んでしまう。不器用そうに自分の気持ちを伝える姿は、何故か「かわいい」のだ。普段は硬派なだけに、そのギャップがなんともツボだ。女子生徒に人気があるのも無理はない。

汗を拭きながら、グラウンドの中央に目をやる。同じく県大会の出場が決まっているサッカー部が、 盛んにシュート練習をしていた。それを暫し眺めながら、何気なく部室の方へ視線を向けると、親友の姿が目に入った。なかなか来ない蜜柑に痺れを切らして、迎えに来たのだろう。慌てて、向かう。

「蛍、」
走りながら近寄っていく。
「おそいじゃない」 待ちくたびれた顔をしている。
「ごめん、」
「で、相変わらず、」
「え?」
「彼の姿に見とれてたってわけ?」 ちょっと不機嫌そうに言う。
「な、そんなんじゃ、」
「あらへん、なんて言わないで。アンタを見てれば、わかるわよ」
「もう、そんなのはええねん」

「―――― なつめ!」

後方から、聞こえてきた声にビクリとなる。
反射的に振り返った。
軽い歓声が沸きあがる。
シュートが決まったのだ。

「おまえ、調子いいじゃんっ」
「絶好調〜!」
「今年は県予選も、通るんじゃねえ?」

部員がシュートを決めた少年をつついている。当の本人は、何を言ってるんだという顔をしながも、されるがままだった。 校庭の隅では、その様子を見ていた女子生徒の一団から、かん高い声があがっている。見慣れた光景だ。

「あの男は、やめておきなさい」
「・・・へ?」
顔を戻す。蛍は、サッカー部の方へ目を向けたままだ。
「あんなオンナたらし、いくらでもいい男はいるわよ」
その嫌厭な言い方に、蜜柑はやや焦り気味になる。
「や、やめておくもなにも、ウチなんか相手にしてへんって」
「そうかしら?」
紫紺の瞳が、すっと蜜柑の方へ動く。聡い色を宿している。
「当たり前や。だって、」
「だって?」

出会いが最悪やし。
こんなガキみたいなオンナに興味なんか持つはずあらへん。

日向 棗。
蜜柑が通う中学の3年。彼女より一つ年上だ。文武両道もさることながら、美形っぷりも際立つ
有名人。
こんな出来すぎの彼との、初めての対面シーンを思い出すと顔から火がでるほど恥ずかしくなる。忘れたいが、嫌な過去ほど鮮明に居座っているものだ。

あれは去年の冬のことだ。
部室に向かおうと校庭への階段を上っていたとき、不覚にも段差に躓いてしまったのだ。必然的に前のめりになり、慌てて手をついたが、体は非情にも不恰好な姿勢で倒れこんだ。
「いたたっ」
脛を打ちつけ、あまりの痛みで、すぐには起き上がれなかった。
だがいつもまでもこんな格好をしていて、誰かに見られでもしたら恥ずかしい。そう思い、掌に力を入れ、体を起こそうとしたとき、

「へえ、水玉か。珍しいじゃねえか」

・・・・え?
水玉?

次の瞬間、何が起きているかを理解した。
慌てて起き上がろうとした。同時に、スカートを抑える。
途端に激痛が走り、また階段に手を付きそうになった。
なんとか持ちこたえ立ち上がりはしたが、上体は前かがみになり、なんとも無様で不安定だ。
しかしスカートの中を見られた恥ずかしさで、それどころではない。
恐る恐る、後ろを振り返る。
すると至近距離にまで迫っていた顔とばっちり目が合った。
その人物が誰かを認識した途端、驚きのあまり、今度は体が後ろへと傾いでいった。
「う、わ」
腕を掴まれる。
「危っぶ、ねえ、」
――― この人、
「大丈夫か?」
「・・・・・・・・」
すぐには答えられなかった。
体が固まる。
初めて間近で見た彼は、半端じゃない端正な顔つきだった。
いつも遠目にしか見ていなかったせいで、わからなかったのだ。
噂は本当だった。これほどまでとは。
首元からジワリと熱さが込み上げ、顔を侵食していく。

「おい、」
「・・・・・あ、はい、」 漸く返事をする。
「大丈夫なのか?」
「だ、大丈夫です、すみま、」
「上、行くのか?」 校庭の方へ目を動かす。
「・・・、いえ、」 彼も行くだろうから、もう行けない。
「・・・?歩けんのか?手離すぞ」
そう言って、ゆっくりと手をはずす。
「あの、すみませんでした・・」
たどたどしく礼を言う。
すると彼は更に顔を近づけてきた。口の端を上げ、ニヤリと笑う。
「無理すんなよ、水玉」
「!」
一瞬忘れていたことが、急激に思い出され、髪が逆立ちそうなほどの衝撃が襲ってきた。
「じゃあな」
彼はその紅潮した顔を見ながら、階段を上がっていく。
「・・・・・、」
蜜柑は、スカートを握った。思わず天を仰ぐ。

最悪や。
見られてしもうた。
中学にもなって、
よりによって、なんであの人なん、
それに珍しいって、今どきこんな柄、誰も穿いてへんってこと?

「・・・・・・」

恥ずかしくて、いたたまれなかった。
穴があったら入りたいとはこういう気分なのだ。

同調するように、胸の音がやけに響いて聞こえる。
しかし、・・・これは、恥辱の高鳴りだけではない気がする。

『大丈夫か?』

あの綺麗な顔立ち。
ちょっと低めの声・・・・頭から離れてくれない。

なんなん、もう。


蜜柑は、彼のことが好きなわけではなかった。
何かと注目を集め、人気があるという認識だけで、別に関心があったわけではなかった。
自分とは違う世界のひと、そんな諦観した考えのせいで、校内でたまに見かけても、他の女の子のようにその姿を目で追いかけ、ときめきを感じているわけではなかった。

しかしこの日を境に、蜜柑の中で、確実に何かが変わった。
あの時はよくわからなかったが、今にして思えば、あれは限りなく「一目ぼれ」に近い。
だが出逢いが出逢いなだけに、すれ違っても、どこかで見かけても、顔すら見ることが出来なかった。そして極め付け、彼の隣にはいつも違う女の子が寄り添っていた。それも美人系の先輩ばかり。
そんな彼が、今だツインテールをし、幼さが残る自分を相手にするとは思えなかった。
その上、不可抗力とはいえ、パンツを見られたのだ。最悪だ。小学生じゃあるまいし。

したがって接点など生まれようがないのだ。幸いと言っては淋しいが、向こうも話しかけてはこない。先ほどのように、せいぜい遠目から見ているくらいなのだ。


「と、とにかくや。アンタが心配するようなことなんか、絶対起きたりしいひんから。大丈夫や」
蛍は、蜜柑をじっと見つめる。
「絶対なんて、ありえないわよ」
「もう、出会いがあんなんだし、どうにも動きようがないねん」
「ああ、あれ。まだ気にしてたの?あの男、パンツなんて見慣れてるわよ。気にするだけ損」 さらりと言う。
「見慣れてるって、」 なんちゅうことを、
「事実を言ったまでよ。実際にあの時、珍しいとか何とか言ってたんでしょ?」
「・・うん、まあ、・・・」 あまり思い出したくはないが。
「アイツの周りにいる女の数ときたら。あんなわけのわかんないのに、アンタがなびいているのかと思うと、」
蛍はそこで話を切った。これ以上、彼の話なんかしたくないといった顔つきで。

後方からは、ボールを蹴る音や掛け声が聞こえていた。
まだサッカー部の練習は、続いている。
しかし振り返ってその様子を見ることは、躊躇われた。

蛍が何故そこまで彼を嫌悪するのか、確かに彼女が好みそうなタイプではない。
何もかもが。だが嫌い方が尋常じゃない。他に違う理由がありそうだ。

蜜柑が、その理由を知るのは、もう少し後の話だ。





「ええと、理科室、理科室、」
チャイムが聞こえる。次の時間は、移動教室だ。 前の授業で、担当教諭の手伝いをしていた蜜柑は、その教室へと急いでいた。
長い廊下を曲がると、すぐに目的地が現れた。軽い安堵とともに出入り口へと向かう。壁の向こう側は、やけに静かだった。
「?」
授業が始まっているといえ、最初からこんなにひっそりとしていただろうか。少し惑ったが、 ここに突っ立っていても仕方がないので、音を立てずに戸を開けた。
「・・・・・?」
目に飛び込んできたのは、見慣れぬ教師。そして生徒、
・・・ここ、
それぞれの実験テーブルには、数人単位で生徒が座っていた。
そのうちの何人かがこちらを振り返って見ている。皆知らない面々ばかりだ。
―――― やっぱり、違った、
そう思った時、蜜柑が持っていた何かが、バサリと床に落ちた。
途端に、ほぼ全員が振り返る。
焦りを感じ、急いで頭を下げると、やや勢いよく戸を閉めた。
「・・・・・・、」
――― びっくりした・・・

歩きながら、気持ちを落ち着かせる。
そうか。
理科室――――。
第一と第二がある。どちらか聞いておくのを忘れていた。
ちなみに今のは、第一の方だ。
いつもはその場所を使用するから早合点してしまったのだ。
――― 急がなきゃ、
時間をロスしてしまった。
急ぎ足で、先ほどの長い廊下へ戻ろうとした。
だが。

「なんだ、今日はチェック柄か、」

・・・ん?

「!」
反射的にスカートを抑える。
・・・・?
・・・待てよ?
今は、別に普通ではないだろうか。
見えるような格好も姿勢もしていない。
すると、少しの笑いが聞こえてきた。
――― まさか、
やや顔をしかめ、振り返る。

「・・・・・、」

予想していた人物が、揶揄するようにこちらを見ていた。

「その顔は、図星ってことか」
あの時と同じ笑みを浮かべ、近づいてくる。
「いえ、そんな、」
「じゃ、花柄か?」 目の前で立ち止まった。
「なん、」てことを。・・・顔が、熱くなっていく。
「やっと、見たな」
「・・・?」
「どこで会っても、目合わせようとしなかったじゃねえか」
――― 気付いて、
彼は掌を、蜜柑の方へすっと差し出した。
「・・・・?」
つられるように、蜜柑も緩慢な仕草で手を出す。
すると手首を握られる。
ドキリとした。
少し引かれる。
体が一歩、彼の方へ前進した。
「あの、」
疑問を口にしようとした時、掌の上に筆入れが置かれた。
「さっき、入り口で落とした」
「さっき、」
「慌てて出て行っただろ。気付いてなかったのか?」
――― あの授業。彼のクラスの授業だったのか。
追いかけて来てくれてた・・?
「・・・ありがとうございます」
「・・・・・・・」
「・・・・先輩?」
「・・・・・・・」
彼は何も言わずに蜜柑を見ていた。手首もまだ、やんわりと握ったままだ。
「・・・あの、」
「今度、」
「え?」
顔を少し近づけてくる。黒髪がサラリと揺れた。

「今度・・・・・・」
あの低い声が、耳に届く。

「・・・・・・・・・」


心臓が止まりそうだ。
信じられない。
彼は、からかっているのだろうか。
今、突然これは夢だと告げられても、疑いはしないだろう。

体も心も、自分のものじゃないみたいに熱を帯びていく。


――― どないしよう・・・。



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