7月のシンデレラ / stage 3


柔らかく握られた手を離すとき、
彼は、待っていると、静かに言った。



着替えを済ませ出て行くと、彼は門柱に寄りかかりながら携帯を操作していた。こちらに気が付くと、電話を閉じて、ポケットへしまう。

「すみません、遅くなって」
「別に、それより歩いていて平気か?」
「はい、全然なんともないです」
「そうか」

並んで歩き出す。辺りは、ほぼ暗くなり、時刻も7時を過ぎていた。校舎の目の前に位置するメインストリート沿いの歩道を進んでいく。この学校は街の中心部に近い場所にあり、10分も歩けば賑やかなアーケード街へ出る。
蜜柑は歩調を合わせて歩く、彼の方をチラリと見た。
―――― ホンマに、一緒に帰っとる
保健室を出てからも、着替えをしながらも、どこか夢心地でふわふわとした気分だった。まるで自分のことでは、ないような。
つい三日前までは想像もつかなかったことで、こうしていることが本当に信じがたいのだ。
歩き方まで変わってしまうほど。浮ついた気持ちとは裏腹に、どこかギクシャクしている。
すると彼が少し笑った。

「そんなに、固くならなくてもいいだろ」 こちら側に少し顔をむけた。
「あ、いえ、・・・・でも、」 俯く。
「・・・でも?」
「・・・・・・、」 先輩ですよ、という言葉を呑み込む。
「別に特別でも、なんでもない」
「え?」
和んだ面差しで見ている。
「周りが固めた評判なんて気にしなくていい。普通でいいんだ」
「・・・・・・」
そうは、言っても。返答に困る。
「ところで、家はどの辺なんだ?」 彼が訊く。
「・・・三園東です」
「三園東?」 驚いている。

彼がこうなるのも無理はない。蜜柑が住んでるその地区は、学区の端の方にあたり、通学に30分以上はかかる。中心部を通りすぎ、更に奥なのだ。因みにその場所から通っている生徒は、彼女を含め全学年でもほんの数人しかいない。

「あそこまで帰るとなると、かなり遅くなるだろ」
「はい、練習が長引いた時は、家に着くのが8時近くになってしまうので、途中まで迎えに来てもらうんです」
「今日も、」
「?」
「迎えに来てもらうのか?」
「あ、いえ、今日は、」 ほんの小さくかぶりを振る。
一緒に帰ることがわかっていたので、迎えはいらないと言ってあるのだ。
「あの、・・先輩の家はどこなんですか?」
その問いに彼は、また少し笑いながら応えた。
「今にわかる。それより、水玉、」
「・・・え?」
その呼び方に、面食らう。思わず、彼の顔を凝視する。
「いい呼び名だろ」 さらりと言う。
「・・・・・・」
いい呼び名って、
「あの、・・いくらなんでも、」 語尾が小さくなっていく。そこで、はたと思う。彼は、自分の名前を知っているのだろうか。
「あ、まだ名前を、」
「佐倉蜜柑」 はっきりと言う。
「・・・なんで、」
「なんでって、普通名前も知らないヤツなんて、誘わないだろ?」
それもそうだが。
「それと有名人だから」
「有名人・・?」
耳を疑った。この自分のどこが有名人なのだろうか。
「陸上の個人で、ただ一人の県大会出場者。しかも実力は全国レベルに近く、学校の期待も大きい。運動部であれば、知らない奴はまずいないな」
「そんな大袈裟なものじゃ、ないです」 恥ずかしくなる。
「走りは、スピードといい、リズムといいバランスがとれている。素人目に見ても無駄を感じない。いいタイムが出てもおかしくはないな」
「・・・・・・」
蜜柑は、彼を少し驚いたように見ていた。
「・・・どうした?」
「いえ、」
いつの間にこんなに詳しく見ていたのだろう。もちろん部活中に間違いはないが、部以外の人間から、こんな風に言われたのは初めてだ。意外だった。
「さてと、」
考え込んでいると、突如彼の足が止まった。声につられ、同じように足を止めると、アーケードの入り口に近い小洒落たカフェの前にいた。
「時間、少し大丈夫か?」 彼が言う。
「はい、大丈夫ですが、・・・まさか」 入るのだろうか?
中学生がこういう場所に入るのは、校則で禁止されている。
彼は、そんな疑問めいた蜜柑の表情見つつ、店の入り口に立った。
「あの、」
声をかけたのと同時に自動ドアが開く。彼は躊躇なく中へと入っていった。
追いかけるように、後へと続く。店内はジャズが流れ、シックな雰囲気のテーブルや椅子が並んでいる。どう見ても、学生が入るような店ではない。だが彼がカウンターテーブルに鞄を置いたとき、
おかえり、という声が、奥の小部屋らしき場所から聞こえた。やがて顔を出した人物は、穏やかな顔つきをした男性だった。彼に少し似ている。
「いらっしゃい」 蜜柑にも声をかけた。
「こんばんは、」 頭を下げる。
「座れよ」
彼は言いながら、カウンター席に座る。
「・・・はい、・・・、」
「ここが、家だ」
蜜柑の言わんとしていることを理解して、直ぐに答えた。
「ここが、」
思わず店内をもう一度見回す。なんと、いきなり家に来てしまったのか。
「おい、早く出せよ」
彼が目の前の男性に向かって言う。
「ああ、ちょっと待って、」
「おやじだ」 目線を動かす。
やはりこの二人は、親子なのだ。
「急いで作ったから、どうかな」
目の前に皿が置かれた。ホットサンドが綺麗に並んでいる。
「・・・・・・、」
「さっき学校から出るときに連絡しておいた。食べて行けよ」
―――― 保健室での出来事のせいで、
「でも、」
「どうぞ」 彼の父親もにこやかに言った。そして、皿の傍にカップを置く。紅茶のいい香りが漂う。
「・・・すみません」
何もかもが唐突すぎて正直戸惑うばかりだ。しかし、ここまでされて遠慮をするわけにもいかない。躊躇いがちにホットサンドに手を伸ばし、食した。口に広がるのは、・・・ハムとチーズのふんわりとした食感。
「おいしい、」 言葉が 素直に口から出て行く。つい、笑顔になる。
「それは、よかった」 彼の父親も、嬉しそうだ。
そのままの顔で彼の方を見ると、目が合った。頬づえをつきながら、やはりどこか嬉しそうにこちらを見ている。恥ずかしくなり、少し目を逸らした。
「しかし驚くなあ、棗が、」
「・・・・・?」
「おい、」 彼がキッと父親を睨む。「余計なこと言わなくていい」
「ああ、ゴメン、ゴメン」
「・・・・?」 なんだろう。
紅茶をすすった。渋みがなく、まろやかだ。ついまた微笑んでしまう。
「幸せそうな顔して、食うんだな」 彼が言う。
「・・・そうですか?」
「そんな顔して食う奴、初めて見た」
それは締まりのない面をしているということだろうか。自分ではよくわからない。ただ自然と顔が綻ぶのだ。 ホットサンドも紅茶もおいしくて。そして更に彼が隣にいる。夢のような時間。こういうのを幸せというのではないだろうか、・・・と二個目を頬張りながら考えていた。
すると後方の自動ドアが開く音がした。同時に、
「ただいま」
振り返った。思わず、持っていたサンドを落としそうになった。
―――か、かわいい、
「こんばんは、」
入ってきた少女は、蜜柑に挨拶をした。市内の伝統ある私立校、敬和の制服を着ている。いわゆるお嬢様学校だ。
セミロングの髪が揺れている。
「妹だ」
「葵です」 微笑んだ。
「佐倉蜜柑です」 慌てて、頭を下げた。
「お兄ちゃんの彼女?」
いきなりの直球。その問いに蜜柑の方が、慌てる。
「いえ、違います、決して、そんなんじゃ、」
すると妹は、彼の方に目を動かして、どうなの?といった顔をした。
彼はやや呆れた顔をしている。
「いちいち人のこと気にすんな。食いもんが喉を通らねえじゃねえか」
「あ、ごめんなさい」
照れるようにまた笑った。その顔がまた可愛らしい。だが、
「お兄ちゃんって、学校ではどんな感じなんですか?」 蜜柑の隣に座る。
「えっ、」
「葵、いい加減にしろ」
「だって、なかなか聞けるひとがいないんだもん。ルカ君も中学になってから殆ど来ないし」
寂しそうに言う。
「聞いてどうする」
「お兄ちゃんの弱味を見つける」
「なんだ、それは」 ますます呆れている。
「だってね、」 蜜柑の方へ身を乗り出す。思わず皿を少し移動させた。「家では、すっごく意地悪なんですよ。この間なんて冷蔵庫に楽しみにとっておいたプリンをいつの間にか食べちゃったり、」
「あれは、おまえがいつまでも放置しておいたのが悪い」
「それからね、葵専用の超スーパーサラ艶シャンプーが残り一回分しかない時だって、」 こぶしを握っている。「それ全部使っちゃったんですよ」
「ストックくらいしておけ」
「どうして、いつもそうやって」
「おい、おまえたち、」 父親が声をかける。
「・・・・・・、」
彼らが顔を見合わせる。そして同時に蜜柑の顔を見た。
少女は交互に目線を動かし、彼らの顔を見る。
だがすぐに、吹き出した。
「あ、・・・ごめんなさい、つい」 葵が恥ずかしそうに、肩をすくめる。
「いえ、」 笑いが止まらない。
「・・ったく、てめえが帰ってくるとロクな展開にならねえな」 半分、不機嫌になっている。
「でも、いいですね」
蜜柑が彼の方を見る。
「ウチは、兄妹おらへんから。なんかこういう感じが羨ましいです」
「こんな妹でいいなら、」
「こんな兄でよかったら」
いつでも持ってけよ、と持っていってがハモった。
互いがまた顔を合わせて、火花を散らした。
「おまえたちは、・・・」
しょうがないなあと、彼の父親がやんわりと笑いながら呟いた。
蜜柑もまた、同じように笑った。

ここにこうしている自分が、まだ信じられない気がしているけど。
彼の新たな一面と、この和やかで温かい雰囲気のおかげで、変な緊張が取れた気がした。
そして同時に遠くて仕方がなかった彼との距離が縮まり、ある想いが確実に動き出した。
走り出してしまったのだ。この恋は。
フライングなんかじゃない。

だから結果なんてわからないけど、・・・前だけを見ていたいと思った。





「蜜柑、」
「・・・・」
「蜜柑」
「・・・・」
「みかんっ」
「い、ひゃい」
頬を引っ張られる。それに伴い目を動かせば、前の席で蛍が不機嫌そうに手を離した。
「箸からご飯が落ちているわよ」
「へ?」
頬をさすりながら、箸を見れば、やはり米粒が忽然と姿を消している。
トレイの下に落ちていた。
「いつまで食べているのよ」
「いつまでって、」 時計見れば、給食時間は終わろうとしていた。周りは片付けに入っている。
「いつもガッツいてるアンタが、半分も食べてないじゃない」
「うん、・・・なんかお腹すかへんねん」 箸をしまう。
「恋は、ダイエットには最適ね」 嫌味っぽい。
「そう言わんといてえな」
「いいじゃない、幸せなんだから」
「ほたる・・、」 力なく言う。
蜜柑は、蛍に昨日の出来事の一部始終を話して聞かせた。やはり彼女には嘘はつけない。だがそれ以来、少し機嫌がよろしくない。
「昨日は、ホンマに夢のようやったけど、これが続くとは限らへんねん。何か今日になったら、竜宮城から帰ってきたような気分や」 立ち上がった。
「心配しなくても、続くわよ」 妙に確信めいている。
「いくら蛍でも、こればっかりはわからへんよ。昨日送ってもらって別れる時だって、次の約束したわけじゃあらへんし」
「・・・・・・」
親友の複雑な顔を見ながら、トレイを下げに向かう。
そう、こればかりはわからない。案外この次は、ない可能性だってある。
――― せやけど、これっきりやったら、ホンマつらいなあ、
はあ、と溜め息をついた時、教室がさざ波のようにどよめいた。
「・・・?」
何が起きているかわからなかった。ぼうっとした頭であたりを見渡すと、ある一点で目が止まった。
黒板側、教室の出入り口。
――― な、
彼が立っていた。
蜜柑と目が合うと、指先で軽く手招きをする。
クラスの中にいた女子生徒から、密やかな嬌声があがった。どうして蜜柑なの?という声まで聞こえてくる。
そして背中の視線が痛かった。蛍が、ほらみなさい、と言っているような気がしてならない。後ろを振り向けなかった。
そのまますばやくトレイを置き、彼の方へ向かった。
――― まさか教室に来るなんて、

「昨日は、ありがとうございました」
蜜柑は、彼の顔を見るなり礼を言う。
すると彼は、出入り口側を避けて、反対側の壁際へ寄った。
「体調は?」
「え?」
「ボールがあたったところだ」
「大丈夫です」
「ならいい」 安心したような顔だ。
「すみません、心配かけて、」
「昨日、」
「・・・?」
「聞きそびれた。携帯持ってるか?」
「・・・はい、」
「アドレス、聞いてもいいか?」
「・・・・・、」
――― うそ、
「水玉?」
「あ、はい、」
「じゃあ、今日の帰りに教えてくれ。昨日と同じところで、」
「・・・・わかりました」


昨日と同じところ。
これは、・・・夢ではない。
目の前には、あの日向棗がいて、確かな言葉をくれる。
自分の中のすべてが彼のことでいっぱいになっていく。

だから全く気がつかなかった。
この時から既に、不穏な眼差しが向けられていたことなど。



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