前回のお話



「今度のテストで赤点とったら、しばらく逢わないからな」

棗はすれ違いざま蜜柑の手首を軽く握ると密やかな声でこう言った。
蜜柑がはっとし振り返ろうとした刹那、彼は手首を一瞬強く握った。手が離れていく。
”これはいよいよマズいんちゃう?”蜜柑の中で差し迫るような緊張が走った。このままでは棗に見放される。
蜜柑は足を止め、ゆっくりと振り返った。棗の背中が徐々に小さくなっていく。
そこへ「棗ちゃーん」と、馴れ馴れしい声で近づく女子生徒の姿。手にはテキストを持っている。
蜜柑はその様子をじっと見つめた。切なく、ため息が零れ落ちる。あんな風に堂々と教えて欲しいと言えたなら・・・。
そのとき、ポンッと肩を叩かれた。

「岬先生、」
傍には岬が立っていた。しかし視線は廊下の先に注がれていた。遠ざかっていく棗の姿を目で追っている。
「なに、あいつ、とうとうこんな真昼間から手出してきたのか」
岬はほんのりと笑い、蜜柑に視線を向けた。蜜柑の頬がふっと熱くなる。
「いやいや、まさかそんなことは、」過去にはあったが、そんなことは口が裂けても言えない。
「じゃあなんでそんな切ない顔であいつのこと見てんだよ」
「それは・・・、」
蜜柑は居心地悪く目を逸らした。すると岬がやや顔を近付ける。
「そんなんじゃ、バレるぞ」
「わかってます・・・気を付けます」
岬は軽く吐息をついた。
「今度のテストの結果次第で、逢わないとか?」
蜜柑はふたたび目線を戻すと、大きく目を見開いた。
「なんで?」
「あいつこの間ブツクサ言ってたしな。ま、赤点3つで親呼び出しだし。おまえに頑張って欲しいんだろ」
「ウチ、なんでこんなに出来ないんやろ」
ため息が出た。数学教師の彼女が、なんとも情けない。
「・・・火、木金の放課後1時間」
「・・・?」
「個別授業やるか?」
「ホンマに?!」
蜜柑は勢いよく岬の腕に縋り付いた。岬は微苦笑し、軽く頷く。
「ありがとうございます!」
あまりの嬉しさにやや大きな声で礼を言った。その声が廊下の先に響いているとも知らずに。

「ねえ蜜柑、岬先生に特別授業してもらってるの?」
瞳に映し出されていた数式から、目線を上げた。
前席に座るクラスメイトの詩織が頬杖をつきながらじっと蜜柑を見据えた。
「いいなー羨ましいなー」
詩織は遠い目をし、空を見つめた。
心底羨ましそうだ。
蜜柑は思わず微笑んでしまう。詩織は岬先生が大好きなのだ。
「別に特別ってゆうんじゃないんやけど。まあ、たまたまや」
「たまたま?」
「ウチ、次の学年末で赤点とったらホント洒落になんないし。
で、途方に暮れてたら、たまたまその時居合わせてて」
蜜柑はノートを閉じると、力なく笑った。
「可哀想に思ってくれたんやと思う。けどいつもマンツーマンって訳じゃなくて、
時々他の子も一緒に受けることもあるんよ」
実際そうだった。週三日のうち、1日〜2日は他の生徒も混じっている。
すると詩織の顔がパッと明るくなった。
「じゃ、あたしもたまには混ぜてもらっていいのかな」
「たまにじゃなくて、毎回でもええんちゃう?」
「ホントに?」
蜜柑は大きく頷いた。
「じゃあ、後で先生に頼んでみよっと」
詩織はウキウキしながら前を向いた。本当に嬉しそうだ。
その気持ちはわかりすぎるほどに理解出来た。
棗に教えてもらえたら・・・何度考えたことだろうか。
チャイムが鳴った。
次は先程まで復習をしていた数学だ。
ふと空気の変化を感じ、入り口に視線を向けた。棗だ。まっすぐに教卓に進み、正面を向いた。
蜜柑と目が合った。
けれどそれは不自然に逸らされた。
まるで無理に避けたかのように。

あれは何だったんだろう
蜜柑は先ほどの授業の始まりに見た棗の表情が頭から離れなかった。 そしてその不安が反映されたかのように、
これまでの授業で示し合わせたように重ねられた視線も、今日は一度も交わされることなく終わった。
やはり気のせいではない。明らかにおかしい。
けれど自分の行動を振り返ってみても、思い当たる節が何一つ浮かばなかった。
寧ろ、彼に言われたことを忠実に胸に刻み、赤点阻止の為に日々勤しんでいる。
――― 一体何が
「・・逆さまですけど?」
「・・へ?」
ふと手に持っていた問題集が目に映った。適当なページが開かれており、それが逆さまになっていた。
「あ・・・・、」
学校のお向かいにある本屋に来ていた。岬に言われた問題集を買うために。
手にとったまではうっすらと記憶があるが、その後は棗のことを考えていたから、中身は全く頭に入っていない。
急速に顔が熱くなった。店員は不審に思っただろう。
きまり悪く声がしたほうへ振り向くと、蜜柑の身体が硬直した。
「・・・なつ、あ、いえ・・先生、」
棗が立っていた。どこか不機嫌な面立ちだ。彼は驚く蜜柑をじっと見つめ、軽くため息をついた。問題集に視軸をずらす。
「あ、えっと、これは岬先生にお奨めされて」
「・・そうか。感心だな」
冷めた声音。全く感心なんてしていない。やっぱり絶対何かある。
「あ、あの、先生は?」
動揺を隠し切れぬまま、とりあえず質問した。
「本屋に来て、飯食うヤツなんていねえだろ」
背中向け、歩き出した。
蜜柑はたまらず棗の腕を掴んだ。
らしくない物言い。やはり納得出来ない。
すると棗はゆっくりと振り返った。
その表情に蜜柑は、はっと息を呑んだ。

拗ねた顔。
目を細め、じっと蜜柑を見据える。
我が侭が通らなかった子供が、唇を小さく尖らせ、悔しさを滲ませているあの表情(かお)に似ている。
初めて目の当りにする、その棗の意外な表情に蜜柑はやや面食らった。
どう反応していいのかわからない。
彼は何故こんな、
「あ、いたいた」
背後から密やかな声が聞こえた。詩織?
蜜柑は棗の腕からすばやく手を離した。
後ろを振り返ると、立ち読みをする客の隙間を縫って、やはり詩織が向かってくる。
「みか〜ん、、行くなら声かけ、て、あれ、棗ちゃん?」
詩織は傍まで来ると、ふたりの顔を交互に見つめた。
「や、その、参考書見てもらってて」
蜜柑はえへへと作り笑いを浮かべ、何気に棗のほうへ目を向けた。
落ち着いた表情。いつもの棗に戻っている。
「あ、それならあたしも!選んでもらいたいテキストがあるんだよね」
詩織はやや背伸びをし店の奥を覗き込んだ。
「棗ちゃん、ちょっといい?、蜜柑、少し待ってて」
「う、うん、」
詩織はふたりを追い越し、先へ進んだ。
棗は軽く息を吐き、詩織の後ろ姿を目で追った。
やや面倒そうだ。
結局理由は聞けず終いだ。蜜柑が腑に落ちぬ想いのまま彼を見ていると、
棗の目線が蜜柑に戻った。
否や彼は詩織がいる店の奥とは反対方向の出口へと歩を踏み出した。
すれ違いざま蜜柑の右手の甲を握る。
――― えっ
・・・何?
驚く蜜柑を余所に棗はその状態のまま店を後にした。

岬先生と棗の小話


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