幸福予想図



蒼みを帯びた夜空で、大輪の美しい花が咲いた。

「わ、始まってしもうた」

蜜柑が、縁側から空を見上げる。
空気を裂くような鋭い音と、ずしんと地の底から響くような重い音が連続しておこり、鮮やかな花火が次々と夜空を飾った。賑やかな嬌声が聞こえてくる。

「お母さん、」
「はいはい、ちょっと待って、」
柚香が、パタパタと台所から駆けてくる。両手には、カキ氷の器。
「アンタ、イチゴでいいんだっけ?」
「うん」
柚香が蜜柑にカキ氷を渡す。蜜柑は小さく、ありがと、と言いながら、山盛りのカキ氷を慎重に受け取った。ふたりで縁側に腰掛ける。
「すごーい、こんなに間近で花火を見たのは初めて」
柚香が目を細め、嬉しそうに空を見上げる。面立ちに、一瞬の花火の明滅が映し出されていた。
「ええ眺めやろ?この家は、一番の特等席なんや。昔もよくこうやって、スイカやらカキ氷やら食べながら、じいちゃんと蛍と眺めてたなあ」
蜜柑はイチゴのシロップをザクザクと混ぜながら、朗らかに微笑んだ。
「そう言えば、」
柚香が後ろを振り返える。
「おじいさんは?さっき、出かけたみたいだけど、」
「いつもの寄り合いの人たちと、花火酒」
「花火酒?」
柚香が、クスっと笑った。それは、いいわね、と言いながら、山の頂にある残雪のようなメロンシロップを混ぜ合わせた。


本当は、祖父は気を遣ってくれている。
蜜柑には、それがよくわかっていた。おそらく柚香もわかっているだろう。
あえて口に出したりはしないけれど、なるべく母親とふたりだけで過ごせるようにと、さりげない気配りをしてくれているのだ。

学園を卒業して初めての夏。様々な出来事や葛藤の中、少しずつ心を交し合い、ようやく親子としての時間を取り戻している。数十年以上ブランクがあったこの関係を、信頼という名で埋め尽くすのは、並代低のことではなかったけれど、 それでも確実に前へ進んでいった。
母娘としては、まだぎこちない部分もあるが、血というのは不思議なものだ。日を追うことに慣れない気遣いや違和感も減っていき、今では離れていたことが嘘のように感じられることさえあるほどだ。幸せだと、・・素直に思う。

「んー、カキ氷冷たい、頭がキンキンするー」
柚香が、蜜柑の方を見ながら苦笑いをし、指でこめかみをぐりぐりとつついている。

――― それでも。
蜜柑にはひとつだけ、悔いていることがあった。
ずっと柚香に言いたくて、でも言えなかったこと。正確には、すぐに謝りたくて、でもなかなか謝ることが出来ず、躊躇してしまっていること。

8年前のあの夏、

『そんな人と逃げるなんて、ウチはいやや・・絶対に』
初等部校長から逃れ、一時匿われた伯父の、校長の部屋で。
『何でウチが、ウチの友達を傷つけたあの人と、』


『いやや』


ドンっと一際大きい音が、あたりに響き渡った。
頭上には迫るような赤い大輪が、広がった。

「きれーい!豪華ー!」


あの時、柚香はどんな思いであの言葉を聞いていただろう。
野田に言われた時は、あまりピンとはこなかった。
けれど事情を知り、時が経てば経つほどいたたまれなくなった。身が竦んだ。
・・・傷つけて、しまった。
何も知らなかったとはいえ、ひどく傷つけてしまったと。
未だに心の中は、棘がささったままだ。

一番最初に会ったら、まずそれを謝ろうと思っていた。だが、出来なかった。そして毎日、幸せそうにしている柚香の姿を見ていたら、余計に言い出せなくなった。言った途端に取り返しのつかない何かが互いの間に生まれてしまったら。そう考えると怖くてたまらなかった。・・・しかし。
このままでは、いけないと、日に日に思いが募る。
幸せを実感し始めているからこそ、すべてをさらけ出して、真っ直ぐな気持ちを向けなくてはならない。今がその時。心から、大好きだと言えるように。それこそが、親子であるということなのだから。


「お母さん、」
「ん?」
柚香が、スプーンを加えたままこちらを振り向いた。
「あの、」
「うん?」
目が笑うように何、と言っている。
「・・・・・・、」
つい、・・言葉が詰まる。
「蜜柑・・・」
優しい声音。すっと、体の中へ入り込んでくる。とても温かい。
「あのね、お母さん・・・・、」


柚香は黙って聞いていた。蜜柑は柚香の顔を見ることが出来なかった。まんじりと庭を見ながら謝った。謝罪は、きちんと相手の目を見て誠意を示すのが筋だ。
しかし柚香がどんな顔をしながら、この謝罪を聞いているのか、やはり知るのが怖かった。当時を思い出し、悲痛な表情をしていたらと思うと怖くてたまらなかった。傷つけておきながら、自分自身がそれによって傷つくことを恐れているなんて、・・けれど、どうしても。

「蜜柑」

一瞬、鼓動が大きく動いた。はっきりとした声。先ほどの声音とは違う。
――― どないしよう、
刹那、蜜柑のカキ氷にザクっとスプーンが入った。咄嗟的に、柚香を見る。
「早く食べないと、ジュースになるよ」
柚香はいたずらっぽく笑いながら、氷をすくい口へ含んだ。
「お母さん、」
「うん、イチゴもなかなかよね」
そう言って、体を寄せてきた。二の腕を密着させると、ひょい、と器を蜜柑の方へ差し出す。つまり、メロン味も食べてみろと言っているのだ。
蜜柑は、柚香の顔と器を交互に見つめた。やがて戸惑いながらも氷の中へスプーンを入れる。
「・・・気にさせて、ごめんね」
はっと、ふたたび柚香の顔を見る。
切なく揺らいだ瞳。
「長い間、悩んでいたんだね。本当に、ごめんね」
「・・・・・、」
涙が溢れた。柚香は自分を責めるように、何度もごめんねと謝った。
体中が悲しく疼いた。
小刻みにかぶりを振りながら、ウチこそホンマにごめん、と声を振り絞るように言った。
そんな蜜柑の髪を、柚香が幼子をあやすように、優しく撫でた。
「蜜柑、・・母さんは、最高に幸せだよ。・・・・ありがとう」
蜜柑は、潤んだ目で何度も瞬きをした。
「・・・お母さん、」
柚香は、ひとつ頷くと、穏やかに微笑んだ。
「あんな思いまでさせたのに、毎日アンタと一緒にいられて、すぐ傍にいて、正直こんな日が来るとは思わなかった。だから、」
柚香は夜空を見上げた。蜜柑もつられるように顔をあげる。花火は上がっていない。光の余韻で紫がかった明るい空に、漂う煙がゆっくりと流れている。
「たくさん幸せになろう。もう何も心配はいらないから。たくさん、ね」


ふたたび、空気を裂くような鋭い音がした。
ずしんと地の底から響くような重い音と振動が、あたりを支配する。
華やかな光彩を放つ火花が、流星のように尾を引き、舞い、散っていく。


たくさん、幸せになろう。


蜜柑の頬に、一筋の雫が落ちた。嬉しくて、ただ嬉しくて。
ふと、父親の泉水の笑った顔が浮かんだ。

・・・お父さん。



「あ、・・・鼻水、」
「へ?って、わ、」
蜜柑はカキ氷の器を置き、ワタワタと慌てる。その姿に柚香が笑い、近くにあったティッシュの箱を手渡す。
「ねえ、蜜柑、」
「ん?」
蜜柑は頬や鼻を軽く拭い、柚香の方を見る。
「やっぱりそっくり」
「え?」
柚香は少女のように、はにかんだ。
「先生に」

どの辺が?って、訊こうと思ったが、その言葉は喉奥へと消えていった。
何故なら目の前の母親の表情(かお)は、恋する乙女のようで。

花火に負けず劣らず綺麗で、つい見惚れてしまったから。






fin
あとがき
ギリギリの提出でしたが、参加することが出来て嬉しかったです(笑)この先、この母娘がどんな道を歩むとしても、やっぱり幸せになって欲しいですよね。
そんな思いを込めて。幸ある未来を・・!

[ 09/10/12 kaoru ]
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