蜜のように甘く、愛する


何気ない一つ一つの仕種に目を奪われた。
窓越しに差し込む朝日にすけて光る黒髪。瞼を伏せたときに頬に陰る睫毛。薄い唇がわずかに開くと、カップを吸い寄せ、音もなく喉奥へと消えていく。着用している白いワイシャツは整った体躯によくフィットし、カフスから伸びた細い手は、流れるような所作で新聞を捲る。

この姿を見続けて、二ヶ月。
見始めると、つい目が離せなくなる。
そして必ずと言っていいほど思うこと。
本当に一緒にいるのだ、・・幸せだと。

「何だ?」
棗が、新聞に目を向けたまま問う。
「・・え、」 ドキリとした。
「何か、言いたいことでもあるのか?」
「ううん」
蜜柑が、小刻みにかぶりを振った。やはり気付くか。やや恥ずかしくなり、性急に持っていたカップを口につける。
「毎朝じっと見てるから、何かねだりたいもんでもあるのかと思ってた」
新聞を整えながら、こちらを見た。澄んだ朱の瞳が向けられる。
「まさか、」
その瞳を避けるように蜜柑は、笑いながら立ち上がりキッチンへと向かう。
持っていた食器を流し台に入れながら、気持ちを落ち着かせるように静かに深呼吸をする。

学園を卒業して、すぐに籍を入れた。まるでそうするのが当たり前のように自然と物事は進んで
いった。
嬉しくて仕方がなかった。長い学園生活を経て、漸く得られた棗との新しい時間。
ここまで辿り着けたことに幸福を感じずにはいられなかった。いつも傍に、目の前に棗がいる。
だから気がつけば、先ほどのような仕草や行動につい目がいき、その度に恍惚とした視線を送ってしまうのだ。
あまりに嬉々としすぎて、初々しすぎる気もしている。あんなに長い間、付き合ってきたというのに。けれどこの喜びは、隠しようがない。つい笑みが零れる。

「今度は思い出し笑いか?」
食器を持った手がすっと流し台の中へ入った。背中にふれる気配。ふわりと棗の匂いがした。コトリと鼓動が鳴る。
「も、もう行くん?」
スポンジに洗剤をつけながら、わずかに首を後ろに向けた。ああ、と言いながら立ち去る気配。
「・・・・そうだ」
「へ?」
本格的に後ろを振り返る。
「今日の夕飯、外で食うか?」
言いながら棗は、またこちらへ近寄って来る。
「せやけど・・、遅いんやないの?」
「早めに切り上げる。たまには、いいんじゃないのか?」
蜜柑の顔が綻んだ。
「うん」 子供のように、大きく頷く。
「場所やなんかは、あとでメールを入れる。それからおまえ、」
「?」
棗の手の甲が、頬にふれる。
「なんでこんなに顔赤いんだ?」
「・・・・え、赤い?」
そう言えば、何だか頬が熱い。
「なんでやろな、」 あはは、と笑う。すると棗は、今度は額に手をあてた。熱はないようだなと呟く。
「何でもあらへんよ、気にせえへんでもええから」 そう気にしなくていい。だってこれはきっと、・・。
「・・・・・わかった」
棗の手が離れていく。それを目で追っていると今度は、
「・・・・・・・・」
唇によく知った心地よい感触。ゆっくりと瞬きをした。温もりが離れていく。
「行ってくる」
「・・・・・うん、」
いってらっしゃいという声は、自分でも聞きとりづらいほど小さなものだった。棗は、不思議そうに
やや首を傾げると、ほんのり笑みを浮かべながら背中を向けた。
――― 頬まで赤くしていたら、嬉しさも重症やな
蜜柑は、ふうと、息をつきながらキッチンの縁(へり)に寄りかかる。けれどもうしばらくは、こんな感じでいくのだろう。もしかしたらこの泡のように、もっと、
・・・・泡、
ふと持ったままのスポンジに目がいく。
「う、わあ、」
無意識に握りを繰り返していたのか、両手はいつのまにか泡まみれだ。



夜の街中をゆく足取りは、軽快だった。薄ピンク色のワンピースのフレアがふわふわと揺れる。
多少の混雑もなんのその、幸せそうなカップルとすれ違えば、自然と表情に笑みが広がった。
これから自分も棗とあんな風に過ごせるのかと思うと、気持ちが浮き立っていた。

待ち合わせ場所は、とあるイタリアンレストラン前。ネットで場所を調べたら、お洒落な外観が画面に現れた。見るからに雰囲気が良さそうな感じだった。どうやって見つけたのか、誰かに教えてもらったのだろうか。兎にも角にも結婚して初めての食事。楽しみで仕方がなかった。

だから程なくして現れた店の前に棗の姿を発見したときは、ほぼ無意識に小走りをしていた。だが、その足は、すぐにスピードを緩めた。棗の隣、・・・見知らぬ女(ひと)が立っている。
徐々に近付いて行くと彼らは、こちらに気付いた。棗にいたっては、少しホッとしたような顔をしている。

「こんばんは・・・・」
誰だかわからないが、とりあえず笑顔で挨拶をした。すると女性もまた、満面の笑みを浮かべた。
間近で見ると、すっきりとした顔立ちの綺麗な女性だった。サラサラとしたストレートヘアがよく似合っている。
「こんばんは。やっぱり、付いてきて正解だったわ」 はしゃいでいる。
「・・・・え?」
蜜柑が、棗と彼女の顔を交互に見やる。すると棗はやや困惑顔で言う。
「この店を教えてくれたんだ。会社の、」
「一応、棗君の上司です」と屈託なく後を引き継いだ。上司、という響きにやや面食らう。
そう呼ぶには、あまりに若いような。自分たちとさほど違わないように見える。
「うふふ、ごめんなさいね。お邪魔しちゃって。だけど棗君の愛おしい奥さんをひと目見てみたくて。無理を言ってついて来たの。やっぱり想像どおり、可愛い」
「とんでもないです、」 蜜柑が、小さくかぶりを振る。
「そうだ、・・・・どう見ても並だろ」 棗がサラリと言った。
並・・・・、
蜜柑のこめかみの神経が、ヒクリと反応する。
「何言ってるのよ、まったく。それに事務の女の子たちも噂していたわよ。棗君の奥さんは、可愛くて、かしこくて、お料理も上手で、とにかく素敵な人なんだって」
「どこからそんな話が、」 棗がひどく呆れている。「尾ひれのつきすぎだ。料理はともかく、頭なんて平均以下だし、粗忽だし、騒がしいし・・・・もういいだろが」 それ以上は言いたくはないといった顔をしている。
「あ、ごめんなさい、そろそろ退散します。じゃあ、明日。例の案件、10時に現地集合で。楽しくなりすぎて、忘れないでよ?」
「・・わかってる」
「それじゃあ」
彼女は、小さく手を振りながら軽く頭を下げていった。蜜柑も丁重におじぎをする。
「・・ったく、騒々しい」
棗のぼやきが、蜜柑の前を素通りしていく。顔も気持ちも俯いたままだ。
・・・・並、平均以下・・・・
・・・・粗忽、
掌をぎゅっと握りしめる。
「蜜柑?」
「何も、」
「?」
「あんな風に、言わんかて、・・・」
蜜柑が、低く、怒りをこらえるような声を発した。
「あんな風にって、」
次には踵を返していた。スタスタと来た道を戻っていく。
「・・・っ、蜜柑」
棗がすぐさま追いかけ、腕を掴んだ。それを無言で振り払った。はずみで棗の手が外れ、勢いのまま近くに停まっていたタクシーへと乗り込んだ。


こんなことぐらいで怒るなんて、子供っぽいことなのかもしれない。
窓の外を見ていた。流れる景色。先ほどと変わらない人の往来。だが映し出されるものに、何ら感情が湧かなかった。あの最初の、待ち合わせ場所へ向かう時の浮き足立った気分が嘘のようだとも思う。

胸がキリキリと痛んだ。気がつけば、膝にのせているバッグの柄を、強く握りしめていた。
確かに自分は決して出来がいいとは言い難い。事実、棗の中の自分の評価なんてあんなものだろう。わかってはいたが、人前で言われたことのショックは大きい。あまりにも体裁が悪すぎる。

棗はきっと会社の中で、いつも噂の的なのだ。それだけの知性も容姿もあるのだから、どこの世界で生きようが、常に羨まれる存在であることに変わりない。その彼の隣に立つということ、それはそれ相応の人物にならなければ、いけないのかもしれない。少なくとも先ほどのような言葉が、出ない女に。

あんなに毎日浮かれて、馬鹿みたいに嬉しがっている自分が情けなく感じる。ただの中身のない人間に思えてならない。

大きくため息をついた。じわりと目の淵が潤む。何度も瞬きをし、やり過ごした。
家に到着し、灯りのない窓を見た時、また涙が溢れそうになった。急いで鍵を開け、スイッチを入れる。後ろ手でドアを閉めた。少しの安堵が胸を満たし、ゆっくりとその場にしゃがみ込んだ。
――― 何だか、疲れてしもうたな・・
顔を伏せようとした時、ノブが音を立てた。同時に扉が開く。咄嗟的に立ち上がり、
後ろを見ないまま、靴を脱ぐ。
「おい、」
背中の声を無視して、部屋へと上がる。
「蜜柑」
すぐさま、声が追ってきた。リビングの扉を開け、部屋の明かりのスイッチを入れようとした時、気配に掴まった。胸の辺りに片腕がまわされる。
「っ、離して、」
スイッチに伸ばした腕ごと、身体をよじる。棗は空(くう)を彷徨う手を握った。そのまま抱き込むように胸に引き寄せられる。
「ちょ、離して、言うてるでしょ、」
悔しさのあまり、抵抗を試みるがやはりビクともしない。それどころか、一瞬力を抜いた隙に片腕の拘束と解き、すぐそばの壁に握られた手ごと背中を押し付けられた。唇を噛み締め、睨みつけようと顔を上げた。
「蜜柑」
やや声高に名を呼ばれ、ビクリとする。棗が真っ直ぐに見ている。
そして降りてきた唇に意識を奪われた。噛んでいた下唇をほぐすように、棗のあたたかい舌先がなぞるようにふれる。
「・・・・・、」
背中が震えた。
抗うことが出来ない。唇がわずかに開いた。すぐに深く絡めとられる。
「・・・ん、・・」
惜しみなく与えられる、甘い感覚。だめだ、と思う。
胸に切なく広がる愛おしさ。止まらない。口内の優しい侵蝕に、応える自分。
・・・棗、
身体の力が抜け落ちていく。
棗がゆっくりと唇を離した。
「・・・・あんな下らないことで、怒るんじゃねえよ・・」
掠れた声が囁くように言った。その言葉に蜜柑が、やや顔を歪める。
「下らなくなんか・・・ない。ウチは、ホンマにショックやった・・・」
「バカか」
「どうせバカや、そんなのとうにわかってることやないの。それを、わざわざあんな風に人前で、しかもアンタの会社の人の前で言わんかて、」 声が、心もとない。
「・・・蜜柑」
棗は、ひとつ息を吐いた。
「あれは、全部・・ごまかしだ」
「ごまかし・・?」
蜜柑の不思議そうな問いかけに、棗が決まり悪そうな顔をする。あまり言いたくはなさそうだ。
「あの場で、言われるがままにヘラヘラと同意しろと?自慢気にしていろと?」
「・・・・・・・・」
「そんなのはオレには無理だ」
「・・・・・・・・」
無理・・・・、
確かに棗にそんなことは無理だろう。いや、そもそも。冷静に考えれば、言い方の差異はあるにせよ、身内に対してはへりくだった姿勢でいるのが普通というものか。けれど棗の場合、今回のこれは、殆どが照れ隠しのようなもの・・・?
「・・・・・なんて不器用なんや」
「悪かったな、不器用で。だが、それを見抜けないお前もどうかしている。あんなこと本気で思ってるわけねえだろ」
「ホンマに・・・・?」
「あたりまえだ」
その断言に、蜜柑がはにかんだ。
「・・・・うん、・・ごめん」
「わかればいい。・・それに俺は、会社の奴がおまえをどう思うが、そんなことはどうでもいい」
「・・・え?」
棗が、耳元に頬を寄せる。
「おまえの良さは、オレだけがわかってりゃいい・・・・」
吐息が首筋にかかる。冷たい唇がふれた。デコルテラインから綺麗に浮き出た鎖骨へ、撫でるように移動していく。
「・・・・なつめ、」
無抵抗な声で名を呼んだ。彼の頭を抱く。指先が扇情的な動きで背中を這う。ファスナーが、滑らかに下ろされた。するりと落ちるワンピース。
「・・・、棗・・・」
・・今?と、暗闇に馴染んだ潤む瞳で訊ねる。それを見ながら棗は、再び唇を重ねた。啄ばむような軽いキスをしながら、言う。
「夕飯・・食い損ねたからな。・・責任、とれ」

・・・・・責任・・・・

その胸の内のつぶやきは、すぐに消えていった。指先が身体の線にふれるたびに思考が、陶然となっていく。棗の背にまわした腕に力を入れた。強い抱擁の中で彼を感じ、充足感に身を焦がす。

・・・・嬉しくて
棗といられることが、ただ嬉しくて。
これからもきっと、色々なことがあるだろう。
けれど、小さな誤解やすれ違い、困難の中で生まれる愛情すら抱きしめて。
溢れるほどの想いを注ぎ、
幸せになりたいと、・・・・願う。




「こんにちは」
昼下がりの花屋の店先。ふわりと甘い匂いが鼻をくすぐった。
後ろから声をかけられ、眺めていたチューリップから目を離す。
「あ、・・こんにちは」
昨日同様、丁重にお辞儀をする。落ち着いたスーツに身を包んだ女性。彼女もまた昨夜と同じように艶やかな笑みを浮かべている。
「今、ちょっと出先の途中で。お見かけしたから、つい。昨日はお邪魔してごめんなさいね」
頭を下げてくる。
「あ、いえ、そんな」
「でもお会いできて、よかった・・」
「・・・・・・・」
蜜柑が、はにかむように俯く。
「ご一緒させていただいた理由、それはね、昨日のお昼休みに、棗君が誰もいない部屋でメールを打ってる姿を偶然目撃しちゃったからなの。その時の棗君の様子が印象的で。ああ、あれは奥さんへ送るんだってすぐにわかったわ。そうしたら、あなたにひと目お会いしたくなって」

昨日の昼頃―――、確かに棗から、お店の場所を知らせるメールが届いた。けれど内容については用件のみで、特に普段と変わりなかった。一体何が印象的だったというのだろう。


蜜柑が不思議そうな顔をしていると、彼女はまた、はんなりと微笑んだ。
「あの時の棗君ね、今まで一度も見たことのない顔をしていたの。失礼を承知で言わせてもらえば、彼もこんな表情をするんだって、驚いた。だってね、」

さわりと、風が吹いた。

「すごく穏やかな顔をしていたの。雰囲気も柔らかくて、何かあたたかいものにふれてるような、」

そう、まるで春にふれているような・・・・・


店先の花たちが、たおやかに揺れている。それは優しい微笑みに似ていた。

棗・・・・

胸の内で、そっと名前を呼んでみる。

広がる想いが彼のもとへ馳せるように。

・・・・・大好きと。




fin


花音さんの頂いたリクエスト内容、「新婚、切甘、〜」で書かせていただきました(笑)
毎度毎度同じことを言ってますが、リクに沿っているかどうかが物凄く不安(苦笑;)
でもすごくすごく楽しく書かせていただきましたvv
切度は低い感じがしますが、新婚さんネタということで、あらゆるシーンをいれてみました。
うーん甘さだけはふんだんにあるかな(笑)
お待たせしてすみませんでした;;愛は、もうたっくさん込めてあります(そりゃあ、もうw)
花音さん、どうぞ受け取ってやって下さいまし〜vv


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