涼しげな風が、すうっと通り抜けた。
その心地よさに目を細めると、前を歩く蜜柑の髪がふわりとなびいていた。すんなりとした手で帽子を押さえ、こちらを振り向く。
アイスクリームを口に含みながら、顔を綻ばせている。小麦色の肌が、夏の眩いばかりの陽に反射し、つややかに輝いた。

「で、満足したのか?」
棗はちょっと呆れ顔で訊いた。
「もちろんや。大満足や。棗ももっと食べればよかったのに」
「一つで充分だ。おまえのペースに付き合ってなんかいられるかよ」

蜜柑は、だって美味しいんだもん、と言いながら前を向いた。その後姿は上機嫌な子供そのものだ。
今日は元々、夏休みの宿題をやる予定だった。とは言っても、ほとんどは蜜柑の勉強をみてやるようなものだったが。それでも冷房の効いた心地よい室内で過ごせるなら、それも苦には感じなかった。このじりじりとした太陽が照りつける炎天下にいるよりは、ずっとマシだと思えたからだ。
ところが朝一番でやって来た蜜柑の第一声は、アイスクリームが食べたいというものだった。暑さでバテ気味なので、セントラルタウンにある行きつけのアイスクリーム屋の何とかというのが食べたいというのだ。

面倒に感じた。わざわざそんなところへ出向いてまで食べるようなものかと。だが蜜柑は滅多にわがままを言わない。あれがしたいとか、こうして欲しいとか、そんなことはあまり口に出したことがない。その蜜柑が今にも半べそをかかんばかりに、行きたいと訴えるのだ。もともと押しに強い方ではないことを自覚している身をしては、しぶしぶ了解するしかなかった。


「ああ・・!」
突如、前からの悲鳴のような声。
見れば、細い紐だけのむき出しの肩が浮き上がるように固まっている。次いで目線を下に落とせば、アイスクリームが無残にも地面に転がっていた。
「落としてしもうた・・・」
蜜柑の力ない声とともに、肩からストン、と力が抜けた。
棗はやれやれと、傍に寄る。
「もう、食べられへんやろか。もったいない」
コーンに3分の1ほど残っているアイスクリーム。蜜柑は、屈みそれを取ろうと腕を伸ばす。
「バカ、やめろ」
二の腕を掴んだ。だが、かなりの違和感。・・・熱い。それも半端じゃないくらい。
「おまえ、」
「・・ふえ?」
蜜柑は目をまたたいた。よく見ると、白眼が充血している。
「体が熱いじゃねえか」
「熱い?けど、これだけの暑さなんやから、熱くもなるやろ」
「そうじゃねえよ」
首に手の甲をあてた。蜜柑がひゃ、と声をあげる。やはり熱い。そして胸はやや早い動きで上下している。これは、
「風邪の方の熱だ。自分の体だろ、変だと思わなかったのか」
「ま、あ・・」
蜜柑は曖昧(あいまい)に頷いた。そして自分の手を額に持っていく。
「そう、やろか、熱いやろか、」
「おまえの手で触っても無駄だ。大丈夫か?」
「う、ん」
蜜柑は突然のことに、疎い顔をしている。今まで上機嫌にアイスクリームを食べていたのに、それが手元になくなった途端、災いが転じたかのような展開に戸惑っているのか。

蜜柑は首をかしげ、視線を地面に向けた。無残に溶け出したアイスクリームを見ている。地図状に広がり始めていた。よほど残念なのか。・・・・待て、アイス?

現地に到着してから食べたアイスクリームの数は3つを下らない。その他にも冷たい飲み物を何度も口にしていた。途中心配になり、腹を壊すぞ、と忠告を入れたが、大丈夫の一点張りだった。今にして思えば、朝から多少なりとも熱があり、冷たいものを欲していたに違いない。だから普段言わないような、あんなわがままを。

「棗?」
考えを巡らせていた自身の指先を、蜜柑がぎゅっと握る。外気温よりも高い熱がじわりと染みこむ様に伝わった。あちらにいる間中、何度か手を繋いだが、これほどの熱は感じなかった。そのせいで、気が付くのが遅れたか。
「そんなに心配な顔せえへんでも大丈夫やよ?ウチはそんなにヤワやないから」
ほんのり笑った。瞼が重そうだ。
「行くぞ」
握られた手をそのまま引いた。寮まであと少し。とは言ってもこの熱ではあまり早足でも進めない。

さわさわと風が吹きはじめ、頭上の深緑が、サァと軽い音をたて揺れた。
隣で、気持ちええな、と小声で呟いている。
―――それだけ熱があればな、
棗は懸念を含んだ瞳で、ちらりと蜜柑を見た。





「佐倉さん、こんな熱でよく出かけてられましたなあ」
寮母のロボットが目尻を下げながら、体温計を見つめた。
「38度8分もありまっせ」
蜜柑は鼻まで布団と引き上げ、おずおずと寮母を見た。そんなに上がっていたなんて、正直、予想外だ。
「他に具合の悪いところはないだすか?」
「体が少し、痛いかも」
「夏風邪は厄介でっせ。長引く場合が多いんじゃから」
寮母は体温計をしまい、蜜柑が被っていた布団を一枚剥いだ。
「こんなに布団被っとったら、熱の逃げ場所がないっす。今から薬をもらって来るで、大人しく寝てるっすよ」
寮母は、向かい側にいる棗に、よろしく頼むっす、と声をかけると、ゆさゆさと体を揺らしながら出て行った。
棗は机の椅子とひくと、ベッドに寄せて座る。
「心配かけて、ごめんな」
棗は蜜柑の額に手を置いた。少し冷たくて気持ちいい。快適な部屋に戻り、より熱を感じているせいだろうか。
「棗の手、気持ちええな。暑いのに、何でそんなに冷たいん?」
「優しいからに決まってんだろ」
「は、・・・ぶっ」
すぐに吹き出した。
「や、優しいって、何なんそれ、」
「昔から、手の冷たいやつは、心が優しいって言われてんだよ」
「ふ、可笑しい。アンタが言うと可笑しい」
棗はやや心外そうな顔をした。それがまた笑いを誘った。
蜜柑は、口元に笑いを浮かべながら、ゆるりと瞼を閉じた。
「・・・せっかく楽しかったのになあ」
淋しいな。
これが最後の締めでは、何となく後味が悪いような。朝からちょっと喉が渇いていたのも、アイスが食べたくなったのも熱のせいだったのだろうか。それがこんな風になるなんて、想像もついていなかった。やっぱり鈍いんかな。

さわりと空気が動いた。かすかな風が頬を掠めていく。うっすらと瞼を開けると、棗が窓を開けていた。ああ、・・エアコンは風邪によくないから。

「・・・なつめ」
ありがとう、と言おうとしたが、うまく言葉にならない。すうっと意識が遠のいていく。
ゆっくり休め、という声が、微かに聞こえた。




ひぐらしの鳴き声で、目が覚めた。
あれからどのくらい眠ったのか、部屋の中は薄暗くなり始めている。
心地よい風が、撫でるように通り抜けた。
ふと横を見ると、棗が椅子に座り、腕を組みながら、顔を俯かせ眠っている。ベッドサイドにあるテーブルの上には、読みかけの本が置かれていた。
ずっと、・・ここに?
薬を飲ませてくれたことまでは何となく憶えている。けれどもう、帰ってしまっているだろうと思っていた。だが眠っている間中、様子を見てくれていたようだ。枕元にあるタオルは、眠る前にはなかったものだ。小まめに汗をふきとってくれていたのだ。
棗も疲れているはずなのだ。朝から散々、付き合わせてしまったし、その上心配のかけ通しだ。同じ部屋にいれば、風邪をもらう可能性だってあるというのに。

『優しいからに決まってんだろ』

ふと思い出し、笑みが零れた。
ホンマに・・・優しい。
風邪をひいてしまったことは悔しいが、普段では見られない、こういった棗の思い遣りを感じることが出来るのは幸せだな、と思う。

蜜柑は、ゆっくりと起き上がった。体はまだ熱いが、昼ほどではない。
だるさもかなり軽減している。
サイドテーブル上の時計に目をやった。6時を過ぎている。間もなく夕食の時間だ。棗を起こさなくては。
「な、」
つめ、と呼ぶはずだった声が喉奥に消えた。すぐそばで見る、棗の寝顔。思わず息を呑んだ。こんなに間近で見るのは久しぶりだ。夕闇に浮き上がる頬のラインはシャープで、それでいて閉じられた瞼と唇は、上品で穏やかだ。見惚れてしまうほどに。

無意識に体をのり出していた。自分でもちょっと驚いている。頬に少し触れるだけのキスならええよね、と自らに言い訳しながら、顔を近付けていく。風邪をうつすといけないから、息は止めて。

あとほんの、数センチ。目を・・閉じた。

刹那、廊下でバタバタと足音が聞こえた。
体がビクっと反応し、咄嗟的に身を引いた。だがすぐに背中に力強い両腕が回り、引き戻される。
「・・・・、棗、・・・えと、」
「バカ、モタモタしてるからだ」
「き、気付いてたん?」
その問いに棗は、少しのため息で返した。
「・・・・、」
――― どないしよう、・・恥ずかしい。
蜜柑が、心中で冷や汗をかいていると、棗が少し体を離した。
「熱、だいぶいいな」
「・・・・うん、あの、色々と迷惑かけてごめんな」
俯き加減で、礼を言った。なつめが、ふっと笑う。
「続き、」
「・・・え?」
顔を上げた。赤い双眸が、蜜柑の瞳をすっと射抜いた。
たじろいだ。先ほどの勢いはどこへやら。こう意識されると、何だかやりにくい。
「こんなに接近してたら、風邪、うつすかも」
「今更だろ」
・・・だよね。
逡巡すること数秒。
少し顔を傾けて、・・・頬に触れるだけの軽いキス。これだけでもう、いっぱいいっぱい。
蜜柑は自分から、体を離した。頭がクラクラする。そのままゆっくりと枕に頭を押し付けた。
離れ際、棗に優しく握られた手は、そのままに。
「また、熱が上がりそうや・・・」
「寝込みを襲おうとするからだ」
「な、そんなんじゃ」
「まあ、おまえにしては、上出来だな。風邪をひいてるってのが余計だけどな」
棗は、意味深な笑みを浮かべながら、空いている方の手でベッドに頬杖をつく。
蜜柑は、居心地悪そうに目を逸らした。
もう、・・かなわない。ほんの出来心なのに。
「また、」
「・・・?」
手をぎゅっと握られる。
「あのアイスクリーム屋に連れて行ってやるから、治るまで、辛抱しろよ」
「・・・棗、」
蜜柑は目を見開いた。あんなに嫌がっていたのに。
「・・ええの?」
棗は、ああ、と言いながら、小さく頷いた。
「だから、いい子にしてろ」

子供に言い聞かせるような言い方。
蜜柑は思わずクスリと笑った。


ひぐらしが、鳴いている。
心地よい風が、また通り抜けた。

治ったら、何のアイスを食べよう。

棗の限りない優しさを感じながら。
そっと手を握り返した。






fin


聡猫さんへお誕生日プレゼントとして贈らせていただきましたv風邪引き話という美味しいシチュをいただき、またもやかいがいしく?看病する棗を テーマに書かせていただきました(笑)すっごく楽しかったです。ありがとうございました・・!あ、タカハシさん(笑)特別出演でした(いつかご登場いただきたいと思っていましたv)
改めまして、聡猫さん、お誕生日おめでとうございました・・!そして遅くなってしまい申し訳ありませんでした;;

[08年 08月 01日] kaoru

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