『蜜柑』と呼ぶ先輩の声が好きだった。
振り向くと必ず目を和ませ、穏やかな笑みを浮かべていた。その笑みにいつも癒され、時には勘違いすらしてしまう程だった。もしかしたら自分は、先輩の周りにいる女の子の中で一歩進んだ位置にいるのではないかと。

思い込みとは時に残酷だと蜜柑は思う。後から振り返ると、自分の浅はかな行動や想いすら軽蔑の対象だ。どうしてもっと不思議に思わなかったのだろう。冷静に考えれば、きちんと辿り着けた答えだったのに。



今日もいつもと変わりない日になるはずだった。


「蛍〜、学校に来てまでかに味噌の缶詰食べなくてもええんちゃう?」
昼食の和やかなひととき。蜜柑は隣で臆面もなくかに味噌を食べようとする蛍に呆れた目をむけた。蛍はそれに構わず、缶詰の蓋をぱかっと開けた。
「これはデザートのなのよ。食後の締めにはこれがないと話にならないわ」
「デザートって、」 どういう感覚や。
「おいしいわよ」
「・・・・・・・・・・・」
「それはそうとアンタ、櫻野先輩に渡すマフラーは仕上がったの?」 かに味噌をスプーンで掬い、口に運ぶ。
「うん、まあ、一応」 つい顔が綻ぶ。
「そう、」
「ん?どないしたん?」
蜜柑が不思議そうに尋ねた。その返事。ちょっとだけひっかかった。
「別に、なんでもないわ。競争率激しそうね」


蛍の情報によるとかなりの数の女の子が彼にチョコレートを渡そうとしているという話だった。けれどそんなことは既に予想済みで、驚くべきことでも何でもなかった。抜群の容姿と柔らかな物腰、そして頼れる存在であるという非の打ち所がない性格は、女子ならず男子からも慕われ、誰しもが惹かれた。蜜柑も類に漏れず、同じ部であるという背景もプラスされ、彼のことをどんどん好きになっていった。

幸せだった。特別な関係ではなくても、毎日のように顔を合わせ何気ない会話をする日々が。けれど徐々にその想いは変化の兆しを見せた。そしてある時、はっきりとこう思うようになったのだ。ずっと隣にいられたらどんなにいいだろうと。

当然そこで考えるのが恋人はいるのか、ということだ。雰囲気的に女性の気配は感じられなかった。だからと言って本人に訊く勇気があるわけではなく、彼に近い友人たちにそれとなく訊ねてみたところ「恐らくいないだろう」というのが大方の答えだった。受験が疎かにならないよう、そういうことには気を遣っているだろうと。
それ以上詮索するつもりはなかった。自分の感も周りの言葉も信用に足りるものだと思っていたから。何も疑わずにいたのだ。だからこのバレンタインで、思い切ってチョコレートではない本格的なものをプレゼントし、気持ちを伝えようと思ったのだ。
今すぐに実らなくても、いつかきっと、そんな決意にも似た想いが蜜柑の中に着々と芽生えていた。


だが。
その想いが崩れたのは、夕方のことだった。学校帰り、不在の親の代わりに夕食の買い物へ向かう途中でそれは起きた。
今にして思えば蛍は、――― 薄々わかっていたのかもしれない。

空を見上げれば、暗く厚い雲から細かい雪が絶え間なくふりそそいでいた。吐く息の白さにやや身震いしながら、棗のことが脳裏を掠め、急ぎ足で目的地を目指していた時だった。
街中にある品揃えのよい、スーパー。当然いつもは寄り道しない場所。その手前の大型アーケード内で見慣れた後姿を見つけた。彼だ。十メートルほど先を歩いていた。そうだ、彼はいつも街中を通って帰ると言っていた。ここを通るのか。なんてラッキーなのだ。一瞬にして顔が綻んだ。だが、――― それはすぐに消えた。

隣を並んで歩く女性、・・・某高指定のオーバーを着用していた。時折目を合わせ、親しげに話をしている。そしてすぐにある一点に瞳が動いた。指先を絡ませるように繋がれた・・・手。

足が止まった。後ろを歩いていたサラリーマンが肩口にぶつかった。顔をしかめている様子を視野に入れながら、どうして、という想いが体中を駆け巡った。彼に特別なひとが・・?

ショックだった。テレビドラマのような展開。他人事のように感じていたことが自分に降りかかるなんて。けれどそれは案外、非現実的なことではないのかもしれない。ドラマティックで心が躍るようなシーンはどこか現実離れしているが、こういった衝撃的な出来事に劇的なものはない。静かに忍び寄るようにその時は訪れるのだ。きっと。

茫然自失に陥った。大切にしてきた想いがこの湿った雪のように重さを増して圧し掛かってきた。そんな自分をよそに彼らの姿は徐々に人並みに紛れ、小さくなっていった。


そこから家に帰るまでは断片的にしか憶えていない。買い物をした記憶はあるが、何を買ったのかわからなかった。後で夕食を作ろうと袋の中身を見たとき、意外なほどきちんとしたものを買っていたことには驚いたが。

外から家の明かりが見えた時、ひどくホッとした。棗が、帰って来ている、誰もいない家には帰りたくなかった。けれど棗が心配そうな顔で出迎えた時は胸に切ない痛みが走った。

本当は彼に縋りつき、泣き出したかった。自分を好いてくれているこの大人びた弟に。慰めてほしかった。
なんて、酷な。・・・酷、本当に酷なことなのだろうか。
自分はただ慰めて欲しいという理由だけで棗に縋りつきたかったのだろうか。

濡れた髪を拭いてくれた優しい手。そのひとつひとつの所作から棗の想いが感じられて、いたたまれなくなった。彼は気が付いているだろう。自分の身に何かが起きたことを。だから、いっそのことこのまま、強く抱きしめてくれないだろうかと願った。傷ついた心を癒すように、何もかも忘れさせてくれるくらい。

どうかしていると思った。いくら混乱しているとはいえ、こんなことを願うなんて。けれどこの理解しがたい身勝手な感情に翻弄されつつ、彼にそうして欲しいと願っていたことも紛れもない事実だった。自分の中の棗の存在は、決して小さくはなかった。だから。
縋りつきそうになる自分をなんとか抑えた。手を離してくれるよう頼んだ。あのまま棗がそれを拒んだら、きっと成すがままに身を委ねていた。後先など考えずに。


それなのに今自分は、自ら彼の温もりを求めここに来てしまった。
冷たい部屋で冷たい布団で体を抱き、背中を丸めて目を閉じたとき、あの夕方の情景が瞼の裏に広がった。胸がぎゅっと苦しくなり、また涙が溢れた。夕食の時はうまく隠せたのに、ひとりきりになると切なさが込み上げてきた。

わからなかった。何故こんなことをしているのかわからない。けれどただひとつ確かなこと。棗のあの温かくて優しい手が忘れられなかった。もう一度触れてほしいと願った。棗は、ひどく戸惑っているだろう。

ゆるして、と心の中で何度も呟いた。身勝手な姉の行動をゆるして欲しいと。
そう乞えば乞うほど、涙が止まらなかった。


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