何もかもが夢であるなら、間違いなくラクであっただろう。

「棗、今日、ちょっと寄っていかない?」
通路を挟んで隣の座席。親友のルカが、帰りの支度をしながらこちらを見ている。
「この前話してたソフト買ってもらったんだ。早速やってみようかと思うんだけど、一緒にやらない?何か予定ある?」
「・・・いや、」
「じゃあ、おいでよ」
「ああ、」

――― 年相応の会話。
これが普通だ。
だが今の自分が考えていることのギャップに苦い笑いが込み上げる。
いつだっただろうか、10日くらい前だっただろうか、ルカと巷で話題のゲームについて話をしていたことがあった。特別関心があるというわけでもなかったが、こうして誘われるということは、興味を持っていると思われていたのだろうか。

―――頭の中は、蜜柑のことで、

他にやるべきことも、考えるべきこともあるはずで、この誘いもその一つだ。しかし、今一ノリが悪いのは、やはり自分の中の全て、心も体も、彼女のことで占められているからだ。
表に目立った変化が現れない性質のおかげで、恋に翻弄されているなどと、周りは想像もついていない。

「久しぶりだね、うちの来るの」
ルカが嬉しそうに言う。
「そうだな」
「最後に来たのいつだっけ?春ぐらいだっけ?なんか棗のお姉さんが、校庭から一生懸命手を振っていたのは記憶にあるんだけど、」
「・・・・・、」
校庭。そうだ、ルカの家は蜜柑が通う高校のそばだ。あの時は確か、彼女の体育の授業中に通りかかったのだ。こちらの姿を発見するや、教師の目を盗んで大きく手を振っていた。

「棗のお姉さんって、人懐っこそうで、優しそうだよね」
「・・気のせいだ」 立ち上がる。
「家では何かとぎゃぎゃー喚くし、口うるせえし。母親がふたりいるようなもんだ」
「へえ、そうは見えないけど」
ルカも同じく立ち上がり、ふたりで教室の出口へ向かう。

心にもないことを。
だが、素直にそうだとは言えない。16のくせに、甘えん坊で可愛いくて、弟には過保護なくらい優しいなどと、・・・そんなことを口に出そうものなら、隠してきたものが一気に表へと溢れて出てしまいそうだ。
だから、
「今日もいたりして」
そう冗談っぽくいうルカに、わざと嫌そうに答えるのだ。
「勘弁しろよ」

本当はいて欲しい。どこでだって逢いたいと思っている。
家だけじゃ足りない。いつも一緒に、と。
そんなどこか焦りにも似た感情が湧き上がるようになったのは、やはりあの言葉を聞いてからだ。

――― 好きな人、おるんよ

誰なんだ、その男は。
聞いたところでわかるはずもないが。
あいつがどんな奴を好んだのか・・・どうしようもなく気になった。



ルカの家は、学校から歩いて約15分。自身の家とは反対方向だ。
その道の途中に、広い校庭を擁した蜜柑の通う高校がある。

ルカがしきりにクラスの女の話をしている。積極的すぎて対処が難しいと、困った笑みを浮かべながら。実際それは間違いではなく、今も振り切るのに苦労した。自分も例外ではない。

「ねえ、棗は好きな子いないの?」
ルカの突然の質問に、ドキリとした。
「・・んだよ、唐突に、」
「だってすごいじゃん、棗のこと好きな女の子の数。誰かいいなって思ってる子とかいないの?」
「いねえよ」
「あのいつも来てる3組の子は?あの子、すごく可愛いし、結構 仲良さそうに話ししてるよね?」
「ああ、・・別に」 興味ない。
「そうなんだ、違うのかあ」

それを聞きながら、複雑な気分に陥る。そうであったならきっと、恋というものをもっと違う認識で捉えていたかもしれない。今の、こんな苦しいほどの我慢など知らず、もっと違う何かを感じていたかもしれないと。

「さすがに今日は、お姉さんはいないか」
蜜柑の高校のフェンスの前にさしかかる。
「でも今日は早帰りなんだね」
やや遠くに見える校舎の昇降口からひっきりなしに生徒が出てくる。
思い出した。今日は教師の研修会があり、全生徒が早帰りだと 今朝、出かける間際に話していた。
校門の前を通り過ぎる。チラリと中へ視線を走らせたが、 やはり蜜柑の姿はない。

「あの子たち、可愛い」
「え〜どれどれ」
「ほんとだ、どこの子だろ」

密やかな嬌声が聞こえたが、それを無視して歩く速度を早める。隣を歩くルカも、心得たとばかりに歩調を合わせた。だが、

「――― 棗!」

その聞きなれた声に足が止まる。振り返った。
「あ、やっぱり、棗や」
蜜柑が校門から出てきた。人並みをぬうように駆け寄ってくる。
死角に入り見えなかったのだろうか、全く気がつかなかった。
「なんや、なんでこんなところにおるん?」
嬉しそうに言いながら、隣のルカの顔を見る。彼は少し赤くなり、小さな声で挨拶をする。
「友達のところ?」
「・・ああ、」
長い髪を揺らしながら、そうなんやと言い、笑顔を見せる。ごくわずかに顔が綻ぶのを自覚していた。これほどの偶然が重なることも珍しい。逢えたことは素直に嬉しいと思った。・・・しかし、その嬉しさも一瞬にして霧散していく。
「蜜柑」
近寄って来る、男。
蜜柑が振り向き、先ほど以上の笑顔を見せる。
「先輩、」

――― こいつ、

「行けるのか?・・・っ、誰?弟君?」
蜜柑に顔を寄せ、訊いている。
「うん、そう」
蜜柑が頬を染め、恥ずかしそうに頷く。
「へえ、かっこいいね、・・よろしく」
男は、嫌味なほど上品に微笑んだ。

間違いない。

蜜柑が好きな男は。――― こいつだ。

こんな、・・・

心臓の音がやけに響く。
ドクドクと重い鼓動が、体中で振動している。
それは紛れもなく、激しい敵対心の現れだった。



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