リビングの扉を開けると、ふわりとした温風に混じり煮汁の香りが漂ってきた。
棗は静かにドアを閉め、ソファの前を横切りキッチンの方へ進んだ。ダイニングテーブルの上には簡易コンロと大きめの鍋が用意されていた。
しかし、蜜柑の姿がない。

土鍋の蓋の小さな穴から、微かに湯気が出ている。ほんの少し前まで仕度をしていたのか、椅子の背にはエプロンが掛けられていた。
(―――― 足りないものでも買いに出かけたか)
上着を脱ぎながら、まったくタイミングが悪いと頭の中でぼやきかけた時、クスッとかすかな笑い声が聞こえた。咄嗟に振り返ると、
「――― 棗!」
嬉しそうに顔いっぱいに笑った蜜柑が、棗がつい先ほど入ってきたドアの方から駆けてきた。そのまま勢いよく飛びこんでくる。
「み、―――」
かん、と名を呼ぼうとしたが、それは吸い込んだ息の中へ消えた。体が蜜柑のその抱きつく勢いを止められずにバランスを崩したからだ。
傾いでいく身に無抵抗なまま、足を2.3歩後退させ、そのままふたりでなだれ込むように床に倒れた。
ゴツン、と鈍い音が後頭部を貫く。
「うわっ――――、なつめ!大丈夫?」
すぐさま蜜柑が叫ぶように言った。棗は衝撃でかすむ目を何度か瞬きし、彼女に焦点を合わせる。
「ごめん、どないしよう、頭、平気?」
オロオロしながら、こちらへ手を伸ばしてきた。その手を掬う(すくう)ような動きで、すっと握った。
「どこに隠れてた?」
不満そうに言うと、蜜柑はややモジモジしながら少し上体を起こした。
「ドアの脇の壁・・・すぐに気がつくと思ってたんやけど、・・ごめん、」
つい、はしゃいで。
蜜柑は決まり悪そうにポツポツと言葉を切りながら言った。俯く顔のそばから長い髪がさらさらと零れ落ち、全体が小さくなっていく。
しかられた子供のように所在なげだ。飛び込む寸前のあのこぼれんばかりの笑顔とはあまりに違いすぎる。
・・・やれやれ。
棗は握っている手をそのままに、空いている方の手のひらを床につき、勢いよく体を起こした。蜜柑もその動きに合わせるように身を後退させた。
棗はその背中を支える。
「で?」
「・・・え?」
蜜柑がおそるおそると言った感じで棗を見た。
「・・・ただいま」
少し笑いながらそう言えば。蜜柑は一瞬目を瞠ったが、雪解けを迎えた春のように、すぐにふわっと笑った。
「おかえりっ」
弾むような声。棗の背に両腕を回し、胸に頬を押し付けた。その頭を抱き、棗も頬を寄せる。
「たったの4日空いただけだろ、大袈裟な」
「それが長く感じるんよ・・、なかなか慣れへん。今までずっと一緒やったから・・」
それとも、こういうの苦手?と蜜柑は胸元から顔を離し、上目遣いした。
「棗は、淋しくないん・・?」
棗はやや目を細め、蜜柑を見据えた。何を、
「・・・バカ」
「・・・・え?」
全く。・・・この姉はしようがない。そんなことをいちいち訊くとは。
愛おしくて、ただ愛おしくて。本当は一時たりとも離れたくはないというのに。
それでもどこかで自重しなければ歯止めがきかない。だからこうして離れているくらいが丁度いいと考えているということは、以前にも話して聞かせたはず。
「棗?」
蜜柑の表情が不安そうに翳る(かげる)。それがじれったいほどにいじらしい。
やはりこの複雑な心情を理解するのは、無理なのだろう。

棗は顔を傾け、蜜柑の下唇をやわらかく含み口付けた。すぐに唇を離し、触れるか触れないかの間合いでささやく。
「・・・自分でなに訊いてるか、わかってんのか?」
蜜柑の瞳が艶やかに揺れた。
手を、やや強く握り締める。
「こんなに急いで帰って来るのは、なんでだと思う?」
「それは・・・、」
言葉を塞ぐようにまたキスをした。噛み付かんばかりに強く、けれど限りなく甘美に。
陶然とする思考の中で喉元の柔肌に指を滑らせると、蜜柑の手が戸惑うように棗の頬に触れた。吐息を弾ませながら、そっと唇をはなす。
「そばにいないと、・・不安か?」
蜜柑は穏やかに息を吸い込み呼吸を落ち着かせると、俯き加減でゆっくりとかぶりを振る。
「・・大丈夫や、アンタの気持ち、・・わかっとるから」
「ホントか?」少し笑いながら訊いた。
蜜柑は、顔を上げる。
「ホンマや」
ただ、ウチがあんたを好きすぎて・・・・、声が消えそうなほど小さくなる。
棗は握っていた蜜柑の手を、自分の胸に押し当てた。蜜柑はその手と棗の顔を不思議そうな眼差しで交互に見つめる。
「ここは、一生おまえのもんだ」
蜜柑が乾いた瞳を潤すように何度か瞬きした。
「誰にもやらない。あの日、・・約束したろ?」

(―――― おまえの全部を預けろよ)

「なつめ・・・、」
蜜柑の顔が泣き出しそうに歪んだ。だがすぐに微笑みに変わる。
「うん・・、うん・・・・ありがと」
ふたたび体を抱き寄せた。
緩やかに瞼を閉じる。

そう、いつだって心の深いところで繋がっている。
そこには、おまえしかいない。

「棗、」
「・・・?」
「もうすぐ、お母さんが帰ってくる・・・」
腕の中で身じろぎする柔らかい身体。
「あと少し、・・・」


これからも、ずっと。




fin



Thank you !!


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