「な、日向、頼む。このとおり」

忙しなく動かしていた棗の利き手の親指がとまった。画面に打ち込んだ、「外野がうるさい。また後で」というそっけない文章を送信し終えると、
ふと目線を上げた。眼前で祈るように手を合わせる学校切っての女たらし霧島は、 もうかれこれ15分ほど同じ言葉を繰り返し、粘りに粘っている。
棗はうんざりしながら小さくかぶりを振り、携帯を閉じると、机の上に鷹揚(おうよう)に肘をのせ、手の甲で頬杖をついた。

「何度頼んでも無駄だ。いい加減、あきらめろ」
棗は半ば呆れた冷たい声で言い放つと、霧島は、つと顔を上げた。壮絶な美形が今にも泣きだしそうに歪んでいる。なんて顔してんだ。
「どうしてもダメか?今日の合コンはよりどりみどりで 、かなりレベルが高いらしいぞ?」
声までもが情けない。そんな様、てめえの彼女が見たら何て思うんだ?
「ダメだ。と言うより、興味がない」
切り捨てるように言い、立ち上がった。携帯を上着のポケットにしまい鞄を手に取る。
すると声とも息ともつかぬ盛大な音が教室中に響き渡った。思わず眉を潜める。
「やばい、マジでやばい。今日、おまえを連れて行かなかったらどうなるかわかったもんじゃない。きっと捨てられる」
棗の短い眉の片方が、くいっと上がった。
「くだらねえ、そんなことでバッサリいく女、さっさと見限れ」
「それが出来りゃ、」
苦労はない、と今度は頭を抱えている。
気の毒な奴。けれど、同情の余地などない。おまえは彼女に溺れすぎるあまり、頭が上がらねえんだから。
棗はその姿を目の端におさめて、今度こそ出口に足を向けた。だが、なあ、日向、という先ほどとは違う、思いのほか落ち着きはらった霧島の声にピタリとつま先が止まった。振り返ると霧島は、切れ長の目をすっと細めて、ごく真面目な表情で棗を見ていた。寸間、内側で気圧されそうになったが、何とか持ちこたえた。こいつのこの手の顔、・・厄介だ。 緻密に計算されたかのような寸分の狂いがない整った顔が一層際立ち、何度目の当たりにしても、思わず息をのんでしまいそうになる。霧島がこんな顔つきをする時は大抵、腑に落ちないことを問い質すときだ。

「おまえ、やっぱ好きな女いるんだろ?」
霧島は腕を組み、探るように視線を絡ませた。
・・・やはり。
「それが?」
「それが、じゃない。いつもはぐらかしやがって。決まった女がいるから興味がないんだろ?じゃなきゃこんなオイシイ誘いを断るわけがない」
棗はふっと微かな笑みを浮かべた。それを無視するかのように背中を向ける。
「おい、日向、」
追いすがる声を振り切り、教室を後にした。あんな質問、答える義理はない。

ポケットから再び携帯を取り出し、時刻を確認する。間のなく4時だ。この分だと、家に着くのは6時頃か。
メールの入力画面を呼び出す。先ほどのそっけない返信に蜜柑は拗ねているだろうか。
少しの謝罪と到着時間を打ち込み、送信ボタンを押した。液晶には廊下の窓越しに見える、光を帯びたやや厚い雲が映し出されている。瞳を向けると外は、さらさらと粉雪が降り始めていた。
またこの季節が・・やってきた。

あの冬から―――― 4年。
月日は流れ、棗は、あの時の蜜柑の歳になっていた。そして身辺の具合も変った。
棗は今、あの家には住んでいない。春から通い始めたこの高校の寮に入り、週末、金曜の夜になると自宅へ戻るという生活を送っている。
わざわざこんな暮らしを選んだことに、深い意味はない。進学に有利な高校を選択するにあたって学区外にある、この学校の実績を重視したにすぎなかった。しかし自宅から通うにはかなり遠く、不便でならなかった。 結果、家を離れることになった。そしてそれは蜜柑からも離れなければならないということで、これについて彼女は随分と泣き、淋しがった。時間の経過と共にどんなに状況が変化していっても、棗と蜜柑の関係は変らず、いやあの時以上になっていたからだ。

勿論、棗自身も離れて暮らすことに辛さを感じていた。だが親密になればなるほど慎重に行動しなくてはならず、平日というクッションを挟み、週末に帰るぐらいの間があった方が丁度よいと、思っていたことも事実だった。 大人の女に成長し、ますます色香を漂わせはじめた蜜柑とひとつ屋根の下で暮らす日々は、密やかな間柄には酷なものだった。ちなみにこの想いを蜜柑に話して聞かせたら、あまり納得がいかない様子だった。 女は理屈でものを考えることが出来ない生き物らしい。
(――― ま、あいつにそれを理解しろってのも無理な話だが)
何しろ自分のそういう部分に気がつかないのが、蜜柑だからだ。


手のひらの中で、ブルッと携帯が震えた。蜜柑だ。
画面を開くと、件名と本文の最初にハートの絵文字が並んでいた。次いで「さっきはどないしたん?大丈夫?」と「今夜は鍋だから!気をつけて帰って来てな。・・・早く逢いたい」という言葉が続き、最後はまたくりくりと左右に動くハートの絵文字で締めくくられていた。

棗の口元に、少しの笑みが滲んだ。
「なるべく早く帰る」と返信すると、家路を急いだ。





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