時は明治。
西洋の文化が発達し、日本の既存文化と融合した新時代。
様々なものに欧米諸国の文明、制度、文化風俗などが導入され、日本国は劇的に変化していった。
だがそんな近代化などどうでもいいとばかりに、思うが侭に生きる華族の美形男子がここにひとり。
家柄、才能、容姿に恵まれ、これまで手に入らないものなど一切なく、それはこの先、将来においても保障されたも同然であった。
ただひとつの存在を除いては。





華恋






「――― 棗、」
聞きなれた声に、靴箱に伸びていた手が止まった。振り返れば、廊下の先から幼馴染の流架が手を軽くあげ、近寄ってくる。
「まっすぐに帰るの?」
「ああ」
「ホントに?」
棗はやや眉根をよせた。
「・・・なんだ?」
流架はほんのりと笑った。「今日も寄って行くんでしょ?あの娘のところに」
棗はそれには答えず、ふたたび靴箱へ手を伸ばし、履物を地面に置いた。
「オレも行くよ」
「別に行くなんて、一言もいってねーだろ。それに何で」
「これ、」 流架は指先をひょい、と目の前に出した。指と指の間には綺麗に畳まれた布が挟まれている。「この間、蛍ちゃんに借りたんだ」
「おま・・、いつの間に」
「違うよ」
流架はクスクスと笑いながら、同じく靴箱へ手を伸ばした。
「そんなんじゃないよ。この間、ちょっと寄ったときにお茶こぼしちゃってさ。そのときに貸してくれたんだよ。だから一緒に」
棗は、内心でため息をついた。
もはや行動パターンなどバレバレであり、すっかり見抜かれている。長い付き合いである彼の目を欺くことは出来ない。つまらない意地など張らずに行くと言ってしまえばいいのだが、わずかな自尊心が邪魔をし、素直になれない。
「わかった・・」

少々の居心地の悪さを抱えながらも棗は、流架と校舎を後にした。すると正門ではいつもの光景が繰り広げられていた。若い娘たちの群れ。彼らの姿を発見すると、どよめくような黄色い声があがった。
棗はうんざりとした顔で立ち止まった。
「流架、」
「はいはい、裏口ね」
流架は心得たとばかりに踵を返した。
「棗さま――――!流架さま――――!」
「お二人とも――!こちらを向いて―――!」
棗はその声を背中で跳ね返した。
「毎度毎度凝りもせずに、よほど暇らしい」
「棗のことは、街中の女の子が狙ってるって話だよ」
「なんだそれは」
「容姿も家柄も申し分なし。ほっとかれるわけがないよ」
「性格はどうでもいいのか」
流架は、あはは、と軽く笑った。
「けど、棗のいいところはわかりにくいから。付き合えばわかることだよ」
「あいつは、わかろうともしねぇけどな」
つい本音が漏れた。何げに隣を見れば、親友は更に可笑しそうにしている。
「笑うな」
「いや、ごめん、別に深い意味はないんだけどさ」
「あいつとオレのことが、そんなに可笑しいか?」
「ううん、その逆・・・嬉しいんだ」
「嬉しい?」
棗は眉根を寄せた。嬉しいとはどういうことか。
流架は微笑んだまま、まっすぐ前を向いていた。金糸の髪が、歩くたびにサラサラを揺れている。手入れがよく行き届いており、綺麗だ。
「棗が女の子に対してこんなに一途になってる姿なんて見たことがないし。それが羨ましくもあり、自分のことのように嬉しくもなる」
棗は目を細めた。
「おまえが嬉しがってどうすんだよ」
流架はこちらを向き、それもそうなんだけど、と言い、肩をすくめた。
「大丈夫だよ、棗」
「?」
「あの子は気付いていないだけだから。棗が好きだってこと」
「気休めはいい」
「気休めなんかじゃないよ。だって、」
流架は何かを言いかけたが、それを押しとどめた。
「・・・・なんだ?」
「ごめん、」 流架は小さくかぶりを振った。「とにかく気休めじゃないから」
棗は、その流架の横顔をじっと見つめた。
気休めじゃない?彼は何を言っているのだろう。
あいつは自分の気持ちに気付かないところか、気にしてもいないだろう。何しろ自分のような人間が一番嫌いだと言っていたのだ。気休めも何もあったものじゃない。
棗はルカが言いかけ呑み込んだ言葉を気にしながらも、心中でひとりごちる。

棗の家は諸侯華族で、その中でも類まれなる富豪家系である。生まれたときから何不自由なく育ち、思い通りにならないことなど一切なかった。おかげで性格は自覚がないまま次第に我侭気質となっていったが、 ケチのつけようがない外見と頭脳がそれを余りあるほどカバーし、すべてにおいて順風満帆であった。
だがとうとう、この育ちと性格が災いとなる出来事が起きた。

あれは約三ヶ月前のことだ。
街中の茶屋で働く娘との出会いが棗を変えた。
佐倉蜜柑。今、棗の頭の中は常に彼女のことでいっぱいだ。いわゆる恋をしている。だが彼女は棗のような気侭に振舞う性格が大嫌いだ。

その出会いは最悪だった。流架と新しく開店したという洒落た茶店に入ったときのことだった。狭い店の中は、人で溢れ、すべての席が満席だった。
「これはこれは、日向の坊ちゃま」
30代半ば程とおぼしき枯れ木のように痩せた店主が、腰を低くしながら両手を擦り合わせ近付いてきた。
「満席か」
棗が不機嫌な声で呟くと、店主は冷や汗をかきながら、申し訳ありません、と頭を下げた。
「待つのは嫌いなんだが」
冷淡に言うと、店主の顔色がみるみる青くなった。
「棗、また出直そう」
見かねた流架がやんわりと言った。だがそれに構わず、 追い詰めるように睨み付けた。
すると店主は「すみません」と叫びながら深々と頭を下げ、裏方に向かって 「さ、佐倉さん、ちょっと」と、上擦った声で店員を呼んだ。
程なくして栗色の長い髪をひとつに束ねた、いかにもはつらつとした雰囲気の女が現れた。彼女は棗たちをチラリと見ると、はしばみ色の瞳をくるくると動かしながら、真剣な顔つきで店主から指示を受けていた。 その指示の内容を知るにつれ、彼女はやや顔を顰めていたが、すぐに二つ返事をし、席の確保に努めた。
そう、彼女が蜜柑であった。

「お待たせいたしました。こちらです」
案内されたのは窓際にある一番奥のテーブルだった。一部始終を見ていたが、丁度、帰り支度をしている客がおり、運よく席が空いたようだった。
「メニューです」
それぞれに薄っぺらなメニュー表が手渡され、目を通した。内容的には今ひとつだった。新規開店、外観も内装も洒落た作りだが、目新しいものは何ひとつなかった。定番メニューでおさまっていた。
「話しにならねえな」
棗はメニューをほおり投げた。
「どれもこれも他所と似たり寄ったりで、頼む気がしない」
蜜柑の表情がみるみる曇った。
「棗、」
流架が心配げに棗と彼女を交互に見ながら言った。
棗は大きなため息をついた。
「せっかく来たってのに、無駄足じゃねえか」
「けど、お茶もお菓子もすごく美味しいって評判だし。ね、これなんかどう?」
「どうせ、期待外れだ」
「棗、」
「アンタ、・・・・ええ加減にしてくれへん?」
その蜜柑の言葉に、棗の片眉がすっと上がった。
「来たときから一体なんなんよ、その横柄な態度」
彼女は棗を睨みつけた。
その不穏な空気は忽ち店内に広がった、客がシンと静まりかえった。
「ウチは、お客様が全員神様や、なんて思うてへん」 蜜柑は、バン、とテーブルを叩いた。「どこぞのご子息様だが知らへんけど、店に来たときからグダグダと偉そうに、一体どんな教育受けとるんや。アンタみたいな我侭な客は他のお客様にも迷惑や。ここが気に入らないのなら、とっとと他所へ行ったらええやろ」
啖呵を切った。
「ちょ、ちょっと、佐倉さん!」
声を聞きつけ、店主が慌てて駆けつけてきた。
「なんてことを、大変申し訳ございません、棗坊ちゃま、なんてお詫びを申し上げたらいいか」 オロオロしていた。 「佐倉さん!早く謝りなさい!」
「ウチは間違ったことは言うてへん」
「佐倉さん!」
蜜柑は棗をじっと睨み付けたまま、目を逸らさなかった。凛とした雰囲気を漂わせ、微塵も揺らぐことがない感情が滲み出ていた。すべてにおいて圧倒していた。
「・・・流架」
棗は、彼女の瞳を断ち切り立ち上がった。「帰るぞ」
「う、うん」
店主が、申し訳ありません、と床に額がつきそうな勢いで頭を下げた。声がやや涙まじりになっていた。それは当然のことだった。日向の跡取りを無下に扱った所為が、家の方に伝われば、この店に明日はない。それほど重大な出来事だった。
けれど棗は、それをさせなかった。
案の定、帰宅後、家の者に仔細を聞かれたが、勘違いだと一蹴した。

棗は、あの時のことを今でも毎日のように思い出す。
17年生きてきて、あんな風に正面きって怒鳴られたのは初めてのことだった。衝撃的だった。誰もが彼を前に道をあけ、頭を下げ、ごまをすり、褒めことばを並べる。それが当たり前の扱いだった。
だが蜜柑は全く違っていた。第一印象は、元気だけがとりえの頭が悪そうな女にしか見えなかった。けれどその印象が一変した。身分の差など、そんなことは一切関係なく、他の客と同じように扱い、臆することなく嗜めた。
あの顔も、声も、雰囲気もすべてが真っ直ぐに飛び込んできた。胸の中にとてつもなく大きなものを詰め込まれたように、身動きがとれなくなった。
そして気がつけばいつも、彼女のことばかり考えるようになっていた。あの日の翌日以降、ほぼ毎日店に通い続けている。



「また、来たんですか・・」
蜜柑は棗を見るなり、やれやれといった表情で、いつもと同じセリフを言った。
「オレは客だ。別に毎日来たって構わねえだろうが」
蜜柑はわずかに肩をすくめた。
「乃木様、いらっしゃいませ」 にっこり笑っている。「ではどうぞ、こちらです」
彼女の後に続き、席へと案内される。その態度に以前のような刺刺しさはない。これでも随分と柔らかくなったのだ。
「あ、今日、蛍ちゃん来てる?」
流架の問いかけに蜜柑は、微笑んだまま小さく頷いた。
「呼んできましょうか?」
「奥?」 流架が目線を動かした。
それに対して蜜柑は微笑みを崩すことなくふたたび頷いた。
「じゃあ、ちょっとだけ行って来るね」
流架は言うなり、踵を返した。
「流架には随分と優しいんだな」
棗は席に座りながら言った。
「乃木様は、どこかの誰かさんとは大違いで、我侭じゃありませんし、お優しいですから」
「まだ、あの日のこと根に持ってんのか?」
「いいえ、それより何にしますか?」
「いつもと同じでいい」
「ミルクティーですね」
「口で否定しても、態度はそうじゃねえみてえだな」
「本当です。もう何度も謝っていただきましたから。それにウチもかなり無礼をいたしましたし」
蜜柑は目を合わせず、淡々と答えた。
その態度に棗は焦れた。どれだけ通っても、未だ彼女の心のわだかまりがとれることはないのか。
「そんなにオレが嫌いか?」
「・・・え?」 
突然の問いかけに蜜柑は、つと棗を見た。表情に困惑の色が滲み始める。
「何を急に、」
「どうなんだよ」
「どうって、」 かなり惑っている。「そのようなご質問にお答えすることは出来ません」
「なんでだ」
「アン・・、いえ、日向様はお客様ですから」
「ごまかすな」
「ご、ごまかしてなんて」 動揺している。「だいたいアンタだって」
彼女は口元を手で抑え、言葉を切った。
「なんだ」
「別に何も、」 かぶりを振った。
「言え」
「蜜柑―――、」
突如背後から割って入ってきた声。ふたりで同時に振り返る。
蜜柑の表情が、ぱっと華やだ。
「わあ、いらっしゃいませ!」
棗は眉根を寄せた。
立っていたのは、若い男だった。
「ホンマに来てくれたんですね」
「ああ、約束だからな」
「お忙しいのに、わざわざありがとうございます」
蜜柑は丁寧に頭を下げた。雰囲気がウキウキしている。
棗は、じっと男を見つめた。
誰だ、こいつは。・・・約束?
しかも名前まで呼び捨てにしている。
ほど良く整った面立ちと輪郭沿いに伸びた艶のある長い黒髪。品のいい洋装を身に纏い、朗らかに微笑んでいる。どう見てもどこかの金持ちにしか見えない。
「いい感じの店だな。気に入った」
男は天井を見上げるように、店内へ視線を向けた。
「そうおっしゃっていただけると、ホンマに嬉しいです」
「あ、そうだ。今、・・・ちょっといいか?」 
男は、蜜柑に顔を寄せた。
「この間話したことなんだけどな、例の店、予約してみたんだ」
「ホンマですか?あんなに素敵なところすごいです。むっちゃ楽しみですね」
「だろ?」
二人は密やかなに微笑み合った。
棗の耐性のない神経がビクビクと震えだした。
――― 何なんだこいつは。
いきなり現れて、蜜柑と親密そうに話しやがって。
棗は勢いよく立ち上がった。椅子が大きな音をたて揺れる。
蜜柑と男が、こちらを振り向いた。
棗はそれを視野に入れながら強引に蜜柑の手を握った。男を睨みつけながら、その手を引く。
「ちょっ、なに、」
そのまま出口に向かって歩き出した。後ろで蜜柑が慌てている。男は驚きながらも、一瞬にして何かを悟ったような顔つきになり、目を細めた。棗の素性に気がついたのか、止めることなくそのまま成り行きに任せている。
店内が騒然とした。
「棗?!」
店の奥から流架が飛び出してきた。今井蛍も一緒だ。
だがそんなことはお構いなしに棗は、夕暮れ迫る店の外へと飛び出した。
冗談じゃない。人の目の前で、ふざけんな。
今日まで一度たりともあんな笑顔を向けられたことはない。ましてや会話など楽しげとは程遠い。
言い知れないやり切れなさが胸を覆い尽くしていく。 いたたまれない。

「ちょっ、どこまで行くんや」
棗は店を出た後も、手を引いたまま、どんどん先へ進んだ。すれ違う街人が彼らを目で追いかけた。
かなり目立っていることは承知の上だ。何しろ顔だけは無駄に知れ渡っており、どこにいても監視されているようなものなのだ。家へ帰ればまた、やかましく問い質されるに違いない。
だが今はそんなことに構ってなどいられない。とにかく二人だけになりたい、そんな思いがとめどなく溢れ、どうしようもないのだ。
「なあ!聞いとるの!」
棗は人目を避け、狭い路地に入ると、徐々に歩を緩めた。
「あいつ、・・・・誰なんだよ」
「・・・え?」
「あの男は、おまえの何だ?」
「あの男って、さっきの?」
「ああ、」 
後ろを振り返った。棗の不穏な雰囲気を感じ取り、蜜柑の表情にまた、困惑の色が滲み始めた。
「おまえの好きなヤツか?」
「か、関係ないやろ」
「好きな奴なのかと訊いている」
「・・・ちゃう、けど」 目を逸らした。
「オレを見ろ」
「もうなんなんよ!さっきから!こんなところまで強引に連れ出して、挙句にあれこれ聞き出して、一体何考えとるんや?!」
棗は内心で舌打ちをした。じれったくて仕方がない。
「アンタって、ほっんとに、」
「好きだからだ」
「っ・・・・・・・」
蜜柑の表情が止まった。
「おまえが」
棗は握ったままになっていた手を引き寄せ、蜜柑の背中を抱き寄せた。
「わかれよ。いい加減に」
「・・・・・なに、・・・言うとるん?」
蜜柑は放心したように、ぼんやりと言った。
「おまえが好きだ。だから誰にも渡したくない」
「自分で、何言うてるか、」
「わかってる。オレは本気だ。だがおまえがオレを嫌ってるなら、今すぐこの腕の中から逃げ出せ」
棗は腕の力を緩めた。

夕暮れは、闇に沈み始めていた。
行き交う人々がふと立ち止まり、薄暗くなった路地で身を寄せ合うふたりの姿をじっと眺めていく。
どれくらいの時間が経ったのか。
恐らくほんの数十秒だろう。だがとてつもなく長く感じられた。
腕の中にはまだ、蜜柑がいる。
微動だにせず、懸命に何かを考えている。
この小さな手も、柔らかそうな髪も体も、声もすべてを手に入れたいと思うことは、やはり強欲なのだろうか。
「蜜柑・・・」
愛おしげに名を呼ぶと、蜜柑の唇から切なげなため息が漏れた。
「ウチは、・・・やっぱりアンタが嫌い・・・嫌いや」
「・・・・・・・・・」
棗の背中に細腕が回り、指先が触れる。
言葉とは裏腹なその指先は、縋り付くようにぎゅっと力が込められた。






fin



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