アイシテル。それが、すべて。


軒先にある風鈴が、ちりりと鳴った。涼しげな風が、部屋を横切るようになびいた。
空は見事な夕の色を湛え、綺麗に敷き詰められた畳を美しく染め上げている。
その部屋の中央に置かれたテーブルに、同じ大きさに切りそろえられたスイカの皿が、コトリと置かれた。
蛍は早速、目の前に置かれたスイカを手に取り、臆面もなくかぶりつく。

「ああ、そんな勢いでかぶりついたら、その綺麗なブラウスに飛び散るやろ」
「大丈夫よ、アンタじゃないんだから、」
「なんやて、って、うわ・・!」

言われた傍らで蜜柑のТシャツには、自らがたった今かぶりついたスイカの汁がついていた。慌てておしぼりを握り、シャツを拭き始める。
蛍は、呆れたような笑いを浮かべていた。
「で、いつまでこっちにおられるん?」
蜜柑がやや拗ねた口調で問うと、蛍はまた大口を開けた。
「・・・、16日」
「16日かあ。するとだいたい一週間くらいはおられるんやな」
蜜柑は、一転して嬉しそうに言った。蛍は卒業後、民間企業の研究所に身を置いた。忙しい合間をぬっては故郷に戻り、蜜柑との関係も相変わらずだ。今日も帰郷早々、実家よりも早くここに立ち寄ったのだ。
「そんなこと訊いたって、アンタは明日からいないんでしょ?」
「まあ、そうなんやけど」
蜜柑は、えへへ、と照れくさそうに微笑んだ。まずい、改めて言われると顔にしまりがなくなる。そう、明日はいよいよ、棗の所へ行くのだ。一緒に住むために。籍は年内に入れる予定だが、とりあえず新居をかまえた。あのクリスマスの日以来、少しずつ準備をしていた。それがとうとう叶う時が来たのだ。
「これでアンタの泣き顔を見ないで済むわね」
蛍がチクリと言った。蜜柑が苦笑いをする。
「そう、言わんといてえな」
「だって、話が進んでからもあまり逢えてなかったみたいだし、」
「棗、相変わらず忙しくてな、けど、時間作って住むところを探してくれたりしてて、」
「アンタは、その新居見に行ったの?」
蜜柑は、かぶりをふった。
「まだや、決まったの、ついこの間やし。明日のお楽しみ」
蛍はスイカを食べる手を止めた。じっと蜜柑を見つめる。
「・・・幸せ?」
ぽつりと訊く。
「蛍・・、」
蜜柑は、緩やかに首を縦に振った。
「うん、・・・」
蛍は、穏やかに笑った。見惚れてしまうほど綺麗に。
「そう、よかったわね」
「・・・・うん」

軒先の風鈴が、またちりりと鳴った。蜜柑はその心地よい音を耳にしながら、ふたたびスイカを口に含む。
蛍には随分心配をかけてきた。だからこうして彼女自身が嬉しそうにしている姿を見ると、本当に嬉しい。
幸せをより実感できる。

「蜜柑、おしぼり」
「へ?」
見れば蛍が、ブラウスの胸元を見ながら手のひらを上に向けている。。
「あーあ、ウチのことばっかり言うてるから、」
蜜柑があはは、と笑いながら、おしぼりに手を伸ばした。
だがその時、テーブルに置かれていた、蜜柑の携帯が鳴った。





白い画面に、規則正しい速さで文字が打ち込まれていく。
条件反射のごとく動く指先は、もはや自分のものではないかのように、ただひたすら懸案事項を羅列していく。
棗はそれを瞳に映しながらも、頭の中ではまったく別のことを考えていた。つい、小一時間前に、上の人間から言われた業務命令。もう何度目かわからないため息が
零れる。
手を止め、目を閉じ指先で眉間をおさえた。疲労が纏わりついて離れない。

パソコンの隣に、カタッと何かが置かれた。うっすらと目を開け、瞳だけを動かせば、カップが置かれていた。ほのかな湯気がゆらめいている。その先を目で追えば、同僚の高崎が隣の座席の縁に寄りかかっていた。
「彼女にはもう話したのか?」
高崎は、自らも持ち合わせたカップを口にしながら訊く。
「まだだ」
棗はカップに手を伸ばした。
「言ったらどうなる?」
「わからない。散々、待たせてるしな」
「去年の、クリスマスの日にロビーで見た彼女は、真っ直ぐにおまえだけを見ていた。どこか不安そうで、頼りなくて、な」
「・・・・・・・・」
棗はコーヒーを口に含んだ。喉元に滲むような熱さを感じながら、あの日の情景が過ぎっていく。
蜜柑は、淋しげに顔を曇らせ、冷えたからだと心を引きずるように現れた。その姿を見たとき、胸が波立ち、感情が折れそうなほど軋んだ。自分と同じように蜜柑もまた、思い通りにならない日々の中で、傷んでいく自分自身をただ見ていることだけしかできなかったのだろう。それをまた、繰り返すことになるのか。

・・・蜜柑

静かにカップを置いた。ふたたび、ため息が零れる。
ゆっくりと瞬きをした。数秒、逡巡したあと、思い切るようにすぐ傍にある携帯に手を伸ばした。
高崎が立ち上がった。去り際、棗の肩に、労うように手を置いた。





着信音を聞いて、棗からだとすぐにわかった。
蜜柑は、一瞬蛍の顔を見るも、すぐに携帯を手にとり通話ボタンを押した。
「・・・棗?」
遠慮がちに名を呼んでみた。嬉しさが先立つが、蛍の手前そう浮き立つわけにもいかない。
「蜜柑」
独特の声音。自然と笑みが零れる。
「どないしたん?まだ仕事中やろ?」
「ああ、」
「あ、もしかして、明日が待ちきれなくて電話かけてきた、とか?」
「・・・バーカ」
電話の向こう側でかすかに笑った気配がした。けれど何となく静かだ。いや、勿論、いつも騒がしいわけじゃないが、それでも普段と少し雰囲気が違った。
「蜜柑、」
「ん?」
「実は相談がある。・・急な仕事が入った」
「仕事?うん、いつものことやろ、明日は予定通りマンションに行っとるから、心配せえへんでええよ」
「それが、・・・そうもいかなくなった」
「え・・?」
ドキリとした。
「そうもいかなくなったって、」
棗は少しだけ迷うように押し黙った。その雰囲気に、急激に胸騒ぎがした。
「なつめ・・?」
「さっき、上に言われてな、明後日から上海に行ってくる」
「・・・上、海、?」
携帯を強く握り締める。既に心臓は、徐々に速さを増している。蛍の心配げな顔が視野に入った。・・・こわい、ここから先を訊くのが。
「いつ、戻って、」
「わからない。いくつか大きなプロジェクトを抱えている。本当は別の奴が行くはずだったんだが、こっちで急な仕事が入ってしまってな。長引く可能性は、否定できない」
「・・・・・・・・」
言葉が出なかった。混乱している。長引く?もっと、遠くなる?
「蜜柑、」
「・・・ん」
「悪い、すまないと思っている」
ひどく切ない声。
「ううん・・・・」
「明日、そっちへ行く。だから、そこにいろ」
「・・・・・・・」
返事が出来ない。だめだ、・・もう。何も考えられない。
「み、」
「ごめん、・・・来ないで、」
携帯を持つ手が小刻みに震える。
「蜜柑?」
「ホンマにごめん、」
これ以上は喋れない。
「・・・切るね」
「蜜柑、待て、」
「ごめん、」

携帯を閉じた。それに額を押し付けるように俯いた。いつの間にか蛍が隣に座っている。
涙を見せないように、ぐっと堪えた。自分の尋常じゃない様子に彼女はもう、何もかも悟っているだろう。 けれどこれ以上ひどい姿は見せられない。こんなに動揺しているのに、そんな所だけ冷静に考えているのがおかしかった。

背中に優しい感触がした。蛍が、撫でるようにさすってくれていた。





その晩は、月夜だった。

「・・・寝た?」
月明かりで照らされた部屋の中央に床がふたつ。隣には蛍が寝ている。
「まだや、・・・眠られへん」
蜜柑は、ぼんやりと天井を見つめながら答える。あれから蛍は、家に帰ることなくずっとここにいてくれている。事情を話した時の彼女は、蜜柑と同じように悲痛な顔をし、ただ黙って傍にいてくれていた。
「もうこれ以上、待つ自信がなくなった、・・とか?」
「そうや、ないんやけど・・こんなに逢うことも一緒に過ごすことも叶わんようになると、さすがにどうしようもなく不安になってしもうて。もしかしたら、もうこのままって」
シンとした室内に、蛍の少しのため息が響いた。こちら側に体を向ける気配がする。
「どうして、明日来ないでって言ったの?」
蜜柑も蛍の方へ体を向けた。
「ひどいこと、言うてしまうような気がして」
「ひどいことって?」
「・・・仕事とウチと、・・どっちが大事とか」
蛍がふっと笑った。蜜柑が顔をしかめる。
「どうせ、ありきたりな我侭や、・・・わかっとるんやけど」
「あの人は、大丈夫よ、蜜柑」
落ち着いた声音。蜜柑は、思わず目を瞠る。棗のことでこんなに穏やかな声を出したことがあっただろうか。
「どんなに離れていたってアンタを手放したりなんかしない。今回は、棗君もかなりのダメージを受けていると思う。漸く一緒にいられると思った矢先の出来事だもの。どうアンタに話そうか、かなり悩んだはずよ」
「蛍・・・、」
「そしてアンタの反応に更に深くダメージを負ったはず。もしかしたら、会社をやめちゃうかもしれないわね」
「まさか、そんな大袈裟な、」
蜜柑は、タオルケットを握り締める。まさか、そんなこと、・・だが、ふとあの言葉が心中を過ぎっていく。

―――― オレはもう、限界かもしれない

冷たい手。切なく揺らいだ・・双眸(そうぼう)。
あの時の棗は、ひどく淋しそうで、届いた声も心許なくて、壊れてしまいそうだった。
そして棗も同じ想いをしていると、身に染みて思ったはず。さっきも、電話口から聞こえた声は、苦しげで辛そうだった。
それなのに。不安に苛まれ完全に冷静さを失い、あんなひどい切り方を。

・・・最悪や。

「蛍、・・どないしよう。ウチ、自分のことばかりで、」
蜜柑は、下唇を噛んだ。
「あれから、メールもなし?」
蜜柑は小さく頷いた。あれ以来、電話はおろかメールすらない。
「棗君がどう出るか、わからないけど。明日こちらに来るつもりだったなら、お休みなんじゃないかしら。・・・行くしかないんじゃない?」
「・・・うん」
棗は、今頃――――、考えただけでも心が割れそうなほどに痛む。ひとりで、たったひとりで、何もかも抱え込んでいる。こんなこと、蛍に言われるまで考えつかないなんて、・・大馬鹿だ。
「棗・・・、ごめん、」
独り言のように呟いた。いつのまにか目尻が濡れ、一筋の涙が鼻筋を横切る。
蛍が身を寄せてきた。そして、蜜柑の背中を軽く抱き込むと、大丈夫よ、と静かに言った。





首にじっとりと汗が滲んでいた。
蜜柑は、うっすらと瞼を開けた。カーテン越しに朝日が射しこみ、室内を容赦なく照り付けている。
横向きにしていた体を捻り、枕越しに時計を見やる。7時半を過ぎていた。 ―――― まずい、もう、こんな時間、
慌てて、体を起こす。
なかなか寝付けずにいた。空も白み始め、もうこのまま眠らなくてもいいと思っていたのに。
(――― 蛍、)
首を回し、隣に目をやった。刹那、息が止まった。

「よう」

思わず体が固まる。
――― 棗、
「なんだ、その幽霊でも見ているような顔は」
なんで、
「・・幽霊」
「バカ。寝言は、寝ながら言え」
驚きすぎて、まともな言葉が出てこない。
何故、いつ、ここに?
蛍の寝ていた布団が、綺麗に畳まれている。棗は、その布団に寄りかかるように、足を投げ出し座っていた。
しかもワイシャツにスラックスという姿。傍には、上着とネクタイが、無造作に脱ぎ置かれている。

「・・蛍は、」
「さっき、帰った」
「何か、言うて、」
「別に。ただ、お疲れって、一言だけだ」
棗は言いながら、傍に近寄ってくる。
蜜柑は動揺を抑えられず、思わずほんの少し体を仰け反らせた。すると棗は忽ち顔をしかめた。
「なんで逃げる」
「そっちこそなんで?ここにおるん?その格好、」
「毎度毎度、代わり映えしねえ質問だな。昨日の最終でこっちに来てたんだよ」
「最終?」
驚く蜜柑を他所に、棗は更に体を近づけた。目の前には、いつもの端正な面立ち。けれどまだ顔はしかめたまま。
「なら、昨日の夜、連絡くれれば、」
「あんな切り方しておいてか?」
「、」
言葉に詰まる。そして同時に納得もする。ああ、棗は・・・やはり傷ついて、どうしようもなく傷ついて・・・だから、直ぐにここへ、
「ごめん・・・」
神妙に謝った。棗はしかめた顔を変えることなくじっと蜜柑を見つめていた。だが、ふ、と力を抜くように表情を緩めた。その表情は一転して、とても淋しげだ。・・・この顔。
見覚えがあった。そう、あの、クリスマスの日の時と同じだ。
「棗・・・、」
棗は、蜜柑の頬にそっと手を添えた。まるで何かを確かめるように。そしてその手を肩から二の腕へと緩やかに滑らせると、蜜柑の胸に頭を近付け、頬をよせた。
「な、つめ?」
棗は蜜柑の背中に、両腕を回した。この体勢・・・、抱きしめられているというより、寧ろ抱きついている感じだ。子供が母親に甘えるように。見下ろせば、黒髪の隙間から垣間見える瞼は、静かに閉じられている。
蜜柑は、棗の背中に両手を回し、優しく抱きしめた。
「嫌に、・・・なったか?」
今にも泣き出しそうな、子供のような声。その声に目頭が一気に熱くなった。
「まさか・・・そんなこと、」 声が震える。
棗は、ゆっくりとひとつ大きく呼吸をする。
「・・・すまないと、思っている。けどこれからも、こんなことの繰り返しだ。その度に、身も心も削がれるような想いをすることになる」
「・・・うん」
「耐えられるか?」
「うん」 蜜柑は、頷いた。「昨日は、アンタの気持ち考えんと、あんなに動揺してしもうて、・・・ホンマに、呆れるくらい情けなくて、・・許してな」
「自分を、責めなくていい。おまえは悪くない」
「・・・ご、めん、」
頬に雫が落ちた。棗は、自分だけを責めている。その気持ちが痛いほど伝わる。
「だけど、」
棗は、胸から頬を離した。そしてやや見上げるように蜜柑を見ると、そのままほんの少し首を伸ばし、寝着の襟元の隙間から見える鎖骨に唇を落とした。
「オレが、耐えられそうにない」
棗は、悲しげに、微かに笑った。吐息が、肌を撫でていく。
「どうしたらいい?」
「・・・棗」

(―――― もしかしたら、会社を、)

蜜柑は、棗の頭部に手を添え、自らの肩に押し付けた。更に強く抱きしめる。
思えば、棗をこんな風に自分から抱きしめたことがあっただろうか。いつも受身で、安堵が尽きない抱擁を与えてくれていたのは、彼だ。けれど今は、・・・こうせずにはいられない。抱きしめずにはいられない。
棗は、誰よりも自分を愛してくれている。それが、わかるから。そして、自分自身もまた棗を、
「大丈夫や、」
凛とした声を出した。
「どこにいたって、押しかけて傍におるから。上海だって、何だって。アンタが嫌な顔をするくらい、ずっと傍に、」
棗が、微かに微笑んでいるような気配がする。
「・・・期待するぞ」
「勿論や。何があっても離れへん」
「・・・蜜柑、」
「?」
棗は、肩にのせていた顔を上げると、蜜柑と目線を合わせた。安堵が滲んだ赤い瞳。小さく開きかけた唇。何を言おうとしてくれているのか、すぐにわかった。だから、
微笑んで、先に、

・・・愛してる

て、言った。

誰よりも。

棗は、一瞬目を瞠った。けれどすぐに、いつものようにいたずらっぽく笑った。
その表情に、しまった、という想いが過ぎったが既に遅かった。唇や頬には、優しいキスが降り注いでいた。

そう。それは、まるで、

アイシテル、って言っているみたいに。





fin


長々と大変お疲れ様でした・・!
最後のキリ番を踏んで下さった、なつのちゃんからのリクエスト内容が、久野自身が書きたいと思っているお話を、との大変ありがたいリクを戴き、「エンレン」の続編を書かせていただきました(笑) このふたりの恋愛は一筋縄では幸せになれないような展開ですが、様々な困難の中でも、お互いをより必要とし絆を深めていけたら素敵だな、と思いながらお話を考えました。途中、筆者自ら感じ入りながら書いていたのですが、久しぶりの切甘ほの系にすごーく幸せ気分で一杯でした・・!
そしてそして(笑)こんな棗クンはいかがでしょうか?(ドキドキ)棗が蜜柑ちゃんにここまで甘えるシーンは書いたことがなかったような・・ww彼もたまにはこうした一面を見せてもいいのでは?と思っていたりします(笑)これから増殖傾向発令・・(爆)

なつのーww、素敵なリクエストありがとうございました・・!そして大変大変お待たせして申し訳ありませんでした(涙)

[09年 8月 24日 kaoru ]

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