「あんなにムキになって走らなくてもいいだろうが、」


目の前に屈みこんだ棗が、膝の傷にガーゼをあてた。蜜柑は痛みで滲む涙をぐっとこらえ、悔しげに棗を見据えた。

「アンタが逃げたからやろ」
「だからと言って、あんな何もないところで普通、転ぶか?」

今度は棗がじっと蜜柑を見据える。その表情は、呆れを含みながらもかなりの心配顔だ。それを見ていたら、こらえていた涙がとうとうホロリと零れ落ちた。

「・・・どうせウチが、そそっかしいんや。ただアンタに、・・クッキー食べて欲しかっただけやのに」

すると棗は決まり悪そうに眉根を寄せ、口を真一文字に結んだ。彼が逃げたことが原因の一つであることはもはや明らかで、自分の行動を悔いているのだろう。
彼はふっと息を吐き、一瞬すまなそうな顔をすると、擦り剥けた頬に手を伸ばした。そして指先でそっと涙に触れる。

「・・・悪かった」

その指先も声も、ひどく優しくて。
またホロリと雫が落ちた。




本日最後の授業は、家庭科だった。
テーマは「食べるひとを思う」という内容で、あるお菓子研究家の話が紹介された。小さな洋菓子店を開いているそのひとは、食べる人のことを思い、手間でもひとつひとつ家庭の分量で手作りするのが基本であるという。そこでそのテーマをもとに早速お菓子作りに取り組むことになった。メニューはクッキーとマドレーヌ。生徒たちは、それぞれに大切なひとを想いながら楽しそうに菓子作りに励んでいた。
そして蜜柑もまた、この授業をふけて、どこかで寝ているだろう棗を想いながら丁寧に作業をこなしていった。こういうおやつ系のものは、普段は作ったためしがない。
せいぜいバレンタインでチョコレートを作るくらいなのだ。だからあまり自信はなかったが、あの滅多に表情を変えない彼の口から美味しいという言葉を聞いてみたくて、懸命に頑張った。

するとその思いは、嬉しいほど出来栄えに反映された。マドレーヌもクッキーも、ほどよい色に焼きあがっており、洋菓子店さながらの仕上がりに皆が羨望の眼差しを向けるほどだった。味も上々で、普段から辛口評価の蛍やパーマにいたっては口に含んだ途端に目をまるくしていた。

このことに蜜柑の気持ちが弾んだのは言うまでもない。早速彼女は授業を終えるとお菓子片手に棗を探し回った。そして寮へ向かう道すがら見つけたのだ。トレードマークがごとくポケットに手を入れ、黒髪をサラサラと揺らしながら歩くその背中を。蜜柑の顔に笑顔が広がった。

棗、と名を呼ぶのと同時に手を振りながら追いかけた。すると棗は立ち止まりこちらを振り返った。けれどすぐさま前を向き走り出した。蜜柑のこめかみがヒクリと反応した。まただ、と思った。そう、彼は時折わざとこういう行動とっては、蜜柑の反応をおもしろがったりするのだ。

蜜柑は、コラ、待たんかい、と叫びながら、ムキになって追いかけた。今日は目的があるだけに、何としても捕まえなくてはならなかった。だからいつもよりスピードが出ていたことにも気がつかなかったのだろう、もうすぐで棗に追いつく、と気持ちが緩んだ瞬間だった。つま先が地面にひっかかり、勢いよく前方につっこんだのだった。

負傷箇所、多数。両膝、顔、腕など、みるも無残に擦りむいていた。痛みと自分のそそっかしさ、そして逃げた棗への悔しさやらで、わけのわからない感情が渦巻いていた。けれど棗が血相を変えて医務室へ運んでくれたことは、変に嬉しい気がしていた。




「血ぃ止まんねえな」

棗が膝にあてていたガーゼをとると、眉を潜めた。特に右膝がひどかった。
「まだ、ひどく痛むか?」
「・・・・・・へ?」
「痛みは?」
「あ、・・えっと」
蜜柑は普段とは違った角のない、柔らかな声音で問う棗にやや照れくささを感じ、返答にもたついた。ごまかすようにちょっと目を逸らし、二の腕をさする。確かにエアコンが効きすぎていて寒い。
「・・・まだ、じんじん痛むけどな、気分も落ち着いてきたし。大丈夫や」
「・・ったく、こんな時に限って校医不在かよ」
棗は、ここちょっと抑えてろよ、と言いながら膝にあてたガーゼから手を離した。立ち上がりベッドの方へ向う。そして薄い毛布を手に取り、舞い戻ってきた。すぐに目の前でそれは広がり、ふわりとした風圧と共に蜜柑の身体を包み込んだ。
「あ、ありがと・・、」 たどたどしく礼を言った。
「・・・・・・・・」
棗は包み込んだ毛布の前を両手で掴んだまま、じっと蜜柑を見つめた。瞳には愁いが滲んでいる。
「病院に行くか?」
思わぬ問いかけに、蜜柑が慌ててかぶりをふる。病院なんて大袈裟すぎる。
「大丈夫やから、」
「・・・・・・・・」
「こんな傷、そんな、」
心配せえへんでも・・・、という言葉は喉奥に消えた。何故なら目の前の棗はあまりに心配顔で、今までこんな顔を見たことがなくて、それを口に出すことが躊躇われた。
「ホンマに、・・・大丈夫やから」
「・・・・・・・・」
棗は複雑な顔をしながらも、毛布から両手を放した。近くの棚へ目を移すとそこを開け、消毒液と脱脂綿、ガーゼ、絆創膏などを取り出した。それを医療器具が入ったカートの上にガサガサとのせる。再び屈みこんだ。
膝のガーゼをそっと剥がす。血がかなり付着している。自分で見ても、うっ、と思うほどだ。
一方棗は、顔色一つ変えない。
「アンタ、こんなに血見ても平気なん?」
棗が少し首を傾げた。
「や、男の人って、血が苦手って何かの雑誌に書いてあったから」
「葵が怪我した時よく手当てしてた。慣れてる。しみるぞ」
そう言って彼は、傷の下に脱脂綿を当てると、消毒液を躊躇なく降りかけた。途端に蜜柑が顔をしかめた。しみるなんてレベルじゃないほどに、ひどい痛みが走った。
思わず毛布の縁(へり)をぎゅっと掴む。
「膝から下もところどころ傷がある。ここも消毒した方がいいな。靴下、脱がせるぞ」
「え、・・え?!」
蜜柑が驚きの声をあげ、足を引っ込める仕草をする。いくらなんでも棗に靴下を脱がしてもらうなんて、
「何だよ」
「ええって、自分で脱ぐって、そこまでせえへんでもええって、っ、あいたたた」
ゴネているうちに痛みが走った。毛布がずるりと肩から滑り落ちそうになる。それを棗が腕を伸ばし、抑えた。
「いいからおまえは、大人しくしてろ」
「せやけど、」
「四の五の言うな」
そう言うや否や棗は靴を脱がすと、片手でかがとを押さえた。
―――― ああ、もう・・・、
ゆっくりとソックスが下ろされた。棗の親指がくるぶしに触れる。
胸の鼓動が静かに波打つ。毛布で覆われた皮膚は温度が上昇し、ほのかに熱を帯びていく。
誰が、想像するだろう。
彼のこんな姿を・・・。
傷の手当をしてくれるだけでも破格な気がするのに・・・こんなことは、あまりにも、
「・・・過保護、すぎへん?」 小さな声で言った。
「・・・・・・・・・・」 棗がソックスを靴に詰める。
「なんやかんやと世話を焼いてくれて、その、」
「・・・・・・・・・・」 傷口に消毒液をかける。
「自分のせいや、思うてるから?それとも、」
ウチや、から・・?
「・・・・・・・・・」
棗がわずかに目線をあげ、蜜柑を見つめた。その間にも膝の傷にガーゼが貼られ、サージカルテープがその上を十字形に横断していく。
「・・・・両方だ。けど多分、どんな状況でも」
テープの端を切る。棗の手がとまった。今度は蜜柑だけに焦点を合わせる。
「・・・・・・」
真っ直ぐに向けられた揺るぎない瞳に

―――― おまえだからだ

そう、・・・言われた気がして、
曖昧に目を逸らし、毛布を少し引き上げ、頬の半分を隠す。薄い紅が広がる様を見せたくはない。

この胸に広がる場違いなほどの喜び。彼は彼で悔やんでいて、責任を感じている。傷の痛みも引かないし、自分のそそっかしさにも嫌気がさす。けれど幸せに感じてしまうのは、自分が特別扱いされているということと、こんなことは滅多に彼の口から聞くことはないからだ。
「で、」
「へ?」毛布に半分埋もれながら、目をぱちくりさせる。
「腕の怪我は?」
「ああ、えっと」
蜜柑が左肩の毛布を下ろし、腕を見せる。内側の柔らかい部分をこすりつけたように擦りむいていた。やや血が滲んでいたが、乾ききっている。棗がまたちょっと気の毒そうな顔をした。
「もう、いちいちそんな顔せえへんでええって、」 あはは、と気遣うように笑う。
「菓子のために、割に合わねえな」
棗がため息を漏らす。
それを聞いて蜜柑が、あ、と声を漏らす。ポケットに手を入れ、ガサガサとクッキーとマドレーヌが入った袋を取り出す。
「そうや、これや、これを食べてもらわな、ホンマに本末転倒や」
「それ、か」
棗が落胆したように呟く。その物言いに蜜柑の目がやや三角になる。
「それかって、みんなにも大好評だったんよ。割りに合わんかどうか、」
最後まで言い終わらないうちに棗がすっと手を差し出した。
「わかった。よこせよ」
「・・・・・・、」
「どうした?」
「ホンマにちゃんと、わかっとる?ウチが、・・どんだけの想いで、」 少し俯いた。袋をぎゅっと握る。
「・・・・・・・」
すると頭がぐいっと引き寄せられた。肩に顔を押し付けられる。
「わかってるに決まってんだろ。バカなこと訊くな」
「・・・・・・・」

放課後の静かな医務室の一角。
蜜柑は小さく頷きながら、ゆるりと両腕を棗の首に回した。
ふわりと笑みを浮かべて。



「ホラ、早く、口開いてや」

クッキーを持った手を、棗の目の前に出す。すると棗は、盛大に嫌な顔をした。
「てめえ、意趣返しか?」眉間に皺が一本増えた。
「そうとも言えるかもしれへんな」蜜柑がクスリと笑う。「まあ、アンタがあんまり罪悪感たっぷりの顔するから、ここは言うことをきいてもらって、おあいこにするだけや」
「・・・・・・・・」
「ホラ、あーん、してや」
「・・・・・・・・」

棗はブスっとした顔で、小さく口を開いた。
そこへクッキーをそっと差し入れる。
指先にわずかな負荷が伝わった。

そのとき一瞬にして変った棗の表情を、蜜柑はずっと忘れないだろうと思った。





fin


胡蝶さんから「蜜柑がドジって怪我をして、それをかいがいしく棗がお世話をしてくれるお話、過保護設定」というリクエストをいただき、かなりニヤニヤしながらシチュを考えさせていただきました(笑)実際、棗がお世話をしてくれたらどんな感じだろう?と想像しながら書かせていただいたのですが、案外とかいがいしくしてくれるのでは?や、こうであって欲しいという願望を含めつつ、すっかり久野好みの展開に仕上がってしまいました(すみません;)そんな中で、蜜柑ちゃんのドキドキ感が伝わるといいなあ、と思っていたりしますvv
胡蝶さん、素敵なリクエストありがとうございました・・!終始、萌えまくりながら書かせていただきましたvvすごくすごく楽しかったです!

この作品は胡蝶さまのみお持ち帰り可能ですv                      

[09年 05月 30日 kaoru]

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