教室の出入り口にふと瞳を動かすと、代わり映えのない見慣れた白シャツが目に入った。
喧騒が渦巻く室内に担任の野田が眠そうな顔で入ってくる。皆の視線が動いたが、すぐに静まることはない。

だが次の瞬間。

フッと音が消えた。
そしてすぐに湧き上がる、女子生徒のどよめくような嬌声。

野田の後ろ。
男子生徒がひとり。
明らかに空気が変った。
モデルを思わせるようなスラリとした体躯、雰囲気。それに見合った端正な面立ち。
散々見慣れたはずの紺のブレザーが、違うものに見える。
彼が正面を向き、切れ長の瞳を向けると、一斉に猛烈な数のハートが飛び交った。
隣の席に座る学年一の美貌の持ち主、真里菜にいたっては、あまりのときめきに逆に声が出ないのか、口元を手で覆い、完全に見惚れている。

この女子生徒の心臓を一瞬にして鷲づかみにした人物。
そのひとは、

「日向 棗君です。東京の高校から編入されて来ました。みなさん、色々教えてあげて下さいね」

―――― 日向 棗

「先生!」 突如、真里菜が立ち上がる。まるでビックリ箱のしかけのようだ。
「お任せ下さい。その役目は私が」
野田が糸のような目を和ませ、あははと緩い笑みを浮かべる。
「そうですね、適役かもしれませんね。丁度、真里菜さんの後ろの席が空いていますし」
すると真里菜が、握りこぶしを作り小さくガッツポーズをしている。
「じゃあ、日向君、彼女の後ろの席へ」
棗は軽く頷くと、こちらへ向かってくる。皆の視線が彼の動きを追う。蜜柑も同じように追っていると、やがてすぐ傍までやってきた。
ふと目が合う。すると彼は、微かな笑みを浮かべた。
「・・・・・・」
だが蜜柑は、憮然とした顔つきで、すぐに視軸をずらす。
小さなため息が漏れた。

――― 席、近すぎるって。


『ええか、学校では、ウチとアンタは全然知り合いでもなんでもあらへん。せやから絶対に、ぜったいに気安くせえへんでな』

それがあいつ、棗と交わした約束。
そう彼とウチは、一つ屋根の下に住んでいる。




話は10日前に遡る。

春の朝は、やわらかくなりつつ陽に助けられ、比較的目覚めが良い。
その日も蜜柑は、いつものように明るい陽射しが瞼の裏に差し込み、目覚まし時計が鳴る前に意識が浮上した。けれどあまりの心地よさにすぐに起きてしまうのが惜しくて、あと5分、とばかりに、軽く布団を引き上げながら寝返りを打った。
すると顔の表面に何かが触れた。フワフワとしていて、くすぐったい。そしてそれは規則正しく、そう、まるで呼吸をしているようなリズムで、・・・呼吸?
少しずつ瞼をあげた。
目の前には、・・・男の・・・子?人?・・・寝顔が綺麗で、・・・・って、なに?
大きく目を見開いた。
「―――― 、、、」
鼻があたりそうなほど、かなりの至近距離。見慣れぬ男がはっきりと瞳に映った。
――― 誰?!
そう認識した瞬間、男の腕がゆるりと動き、蜜柑の身体に回った。
「!」
声にならない悲鳴が上がる刹那、何かが唇を掠めた。そして、
「・・・起きたのか?」
と男は瞼を閉じたまま、吐息交じりに、わずかに唇を動かした。
「―――――――」
放心状態。頭の中はまっしろ。
だがその時、目覚まし時計がけたたましい音を立てた。ビクリと身体が反応する。
「う、わああああぁぁぁぁ」
腕と足が同時に動き、男をベッドから突き落とす。
ドサリと鈍い音がした。
蜜柑は、距離をとるように壁側へと身をへばりつかせる。ガクガクと身体が震えた。
「・・・・、痛っ」
ベッドの下で男が、緩慢な動きで身体を起こした。打ち付けた側頭部を押さえ、長い前髪の隙間から目を細めるようにしてこちらを見る。
「・・・オマエ、誰?」
その横柄な言い方は、蜜柑の怒髪天をついた。
「だ、誰って、アンタこそ誰や、この痴漢!どこの家の布団で眠っとんじゃ!」
震えながら手元にあった枕を投げた。男が寝起きとは思えない機敏な動きで、サッと身をかわす。
「あんなに顔近付けて、ひとの唇にまで、ってぇ、」
そこまで言って、はっとする。そうだ、唇を掠めたのはこいつの唇で、あれはキス。
蜜柑の顔から、血の気が引く。
「ああああんた、なんちゅうことを、」
すると男は、喉を鳴らしながら笑った。
「何が可笑しいんや!」
「たかがキスの一つや二つ。大袈裟だつーの」
「大袈裟なわけないやろ、何でこんなわけ分からん痴漢男にキスされなきゃならんねん」
「バカか、おまえは」
「なんやて」
蜜柑が目を剥いた。
男は、ふんと鼻で笑う。
「あんなもん、キスのうちに入んねーよ。それに痴漢すんなら、もっといい女のところに入るに決まってんだろ」 体を起こし、立ち上がる。「こんな胸のないガキんところに誰がはいるかよ」
その物言いに蜜柑の奥歯が、ギリリと鳴った。
「よくも、」
男は蜜柑を呆れたように見下ろした。そして何を思ったのか、再びベッドに上がりこんだ。スプリングがギシリと鳴る。そして反射的に仰け反る蜜柑をよそに、ジリジリと身体を寄せた。
「な、なに?」
「・・・・・・・」
整った容貌が、またかなりの至近距離で止まった。鮮やかな美しい紅の双眸が、じっと蜜柑を見据える。腹立たしさをよそに、首筋の方からじわじわと紅潮していくのがわかった。すると男は口の端を上げ、意地悪く微笑み、耳元に顔を寄せた。
「真っ平らもいいとこなんだよ」
スルリと胸を撫でる。
「ハナシになんないね」


その後、自分がどんな行動をとったのか憶えていない。あまりのショックで、その部分がすっぽりと記憶から抜け落ちてしまっていた。したがって、あの男が誰なのか、
どこから来たのかなんて、本人に訊く余裕すら生まれなかった。


そして気がつけば、パジャマ姿のまま朝食の席。
目の前では母親の柚香が、心底可笑しそうな顔でお茶を啜っている。

「何がおかしいんや」 トーストをガツガツとかじる。
「だって、血相変えて下りてくるから何かと思えば、まさか棗君がアンタの布団に、」 涙目になっている。
「親なら少しは心配したらええやろ」
「ああ、そうね。でもアンタの驚きよう、見たかったわ」
どういう親や。
「到着したのが深夜だったから、そのまま寝てもらったの。案内もせずに2階へ行ってもらったから、部屋を間違えたのね。今は、ちゃんと自室で眠っているのかしら?」
「知らんよ、そんなの。あいつ、誰やねん?」 漸く訊けた。
「あれ、話してたわよね?遠縁の子が、この春休みに家に来るって」
蜜柑が記憶を辿る。そう言えばそんなことを言っていたような、
「それって、小学生とか小さい子じゃなかったん?」
「違うわよ。ああ、でも年がいくつとか話してなかったかもしれないわね」
柚香が少し遠くを見るような目をした。彼女も記憶が曖昧なのだろう。
「なんであんな大学生受け入れたん?いくらでも一人暮らし出来るやろ」
「大学生じゃないって。アンタと同じ、高2」
「う、」
驚きのあまり、蜜柑の喉にトーストのかけらが詰まった。胸を軽き叩き、苦しさをこらえる。あの大人びた雰囲気、手癖の悪さはとても同い年とは思えない。
「・・・冗談やろ・・」
「ちなみに同じ高校に編入するから」
「なんやて?!」 勢いよく立ち上がる。反動で椅子が倒れ、床に反響した。
「編入って、春休みだけいるんやないんか?何で、」
「蜜柑、」
柚香がやや真剣な表情をする。
「・・・何?」
「追々話すけど、彼が此処に来たのは、複雑な事情があるからなの。たったひとりの妹さんも、別の家で暮らしている。だから、優しくしてあげて。自分の家にいるみたいに、居心地よくしてあげたいから」
「・・・・・、」
柚香の切実な物言いに、それ以上何も言えなくなった。
複雑な事情。どんな事情なのか、しかし穏やかではないものが背景にあることぐらいは察することが出来た。少なくとも、何一つ不自由がない、蜜柑のような暮らしを送ってきたわけじゃないということを。

その時はしぶしぶだったが、それを受け入れるしかないと思った。多少の我慢もしようと。優しくできるよう、努力してみようじゃないかと。事情持ちなら、仕方がない。
けれど棗の態度がその想いを崩壊させた。蜜柑の顔を見れば、小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、これみよがしに胸ナシと呟く。あの時のことが思い出されては、
沸々とはらわたが煮えくり返った。
その反面、あの度アップで見つめられた顔や声がフラッシュバックしては、心拍数が異常なほど上昇した。無駄に容姿が端麗なだけに、その衝撃も半端ない。それに、
『・・・起きたのか?』
と囁いた、あの言葉・・・キス。
今でも、額に汗が滲むほどに動揺してしまう。
あれは確実に誰かと間違えていた。決して許せるものではないと言うのに。

掻き乱された、何もかもが。
平和な生活が一変し、家でも学校でも、気持ちをうまくコントロール出来ない。
せめて学校だけでも違っていたらよかったのに、と思わずにはいられなかった。
それはこの夕暮れの帰り道でも、ひしひしと実感してしまう。


「なんで、後ろを歩くん?」

前を向いたまま、2〜3メートル後方に問いかける。
「同じ家に帰るんだ。仕方ねーだろ」
「だったら、少し時間をずらすとか何とか気を遣ったらどうなん。学校の門でてから、ずっとこんな感じや。これじゃ、バレるのも時間の問題やろ」
「気にしすぎだ。それにバレても別に問題はない。学校には言ってある」
「そんなんやなくて、」
もどかしさを露わにした口調で、蜜柑の足が止まる。後ろの足も止まった。
「ウチが落ち着かへんねん。あの教室の女の子たちの様子、わかっとるやろ。アンタと一緒に住んどるなんてわかったら、大変なことになる。いい迷惑や」
「妬いてんのか?」
「バカ言うんやない」
勢いよく振り返った。
「、」 
だが言葉を失う。
淡い夕陽を背にした、棗の表情(かお)。
「・・・・・・・、」
それは、これまで一度も目にしたことがない穏やかさで、
「・・・・・・・・」
普段の彼からは想像も出来ないほどの優美さに、
呼吸すら奪われ、・・・見惚れた。
「・・・・蜜柑」
棗が、傍まで歩を進める。
言葉が出でこない。目が離せない。自分は今、どんな顔をしているのだろう。胸が壊れそうなほどに苦しい。
「あの朝のこと、」
―――なんで、
「まだ、怒ってるのか?」
「ア、・・タ、なんか、・・・」 喉奥から声を搾り出す。「アンタなんか・・・、最初からむっちゃ最悪で、セクハラだし、ひとを小バカにする嫌な奴で、口も利きたくないし、
顔も見たくないし、これからもそれは変らなくて、」
棗の指先が、頬のラインに触れる。
「なのに、なんで、」
前髪が、さらりと鼻先を撫でていく。
「・・・・・・・」
・・・こんなに、

ドキドキ・・・するん?

たそがれが、ふたりの輪郭を淡くふちどる。
重なり合った柔らかな感触は、気が遠くなるほどに甘美で、胸が切なく高鳴った。
心の奥を締め付けていた想いが弾けるように解放され、満たされていくのがわかる。

―――― ウチは、・・・どうなってしまうん?

この溢れるほど熱い感情の名は、誰もが良く知っているもの。



キミが好きでたまらない。

この棗のとめどない想いを蜜柑が知るのは、もう少し先のお話。




fin


凪紗さんから、「学生パラレル、ほのぼの雰囲気」のリクエストをいただき、久々の新作パラレルにはしゃいでいた久野でございます(笑)
日記の方に詳しく語らせていただきますが、こちらの作品は以前から温めていたお話で、続きが書ける終わり方にしてあります(謎だらけですしね笑)この度チャンスをいただき、書かせていただいて、すごく楽しく、そして嬉しくて仕方がありませんでした(感涙;;)ですが、ほのぼのしているかどうか怪しく;;ケンカップル全開ですが(苦笑)いつものごとく愛はたっくさん込められておりますvv
凪紗さん、素敵なリクエストありがとうございました・・・!感謝、感謝です!

この作品は、凪紗さまのみお持ち帰り可能ですv

[09年 05月 15日 kaoru]

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