『ウチら、遠距離恋愛になるんやね』

卒業も間近に控えたある日、棗の前で何気にこの言葉を呟いたら、彼は興味なさそうに「ああ、そうだな」と言ったきりだった。ついでに「淋しくなるね」と本音を漏らすと、それに対しても「そうだな」の一言で終わった。

その物言いに不満があったわけではない。彼らしいといえば彼らしくて、その大袈裟じゃない態度にかえって安心感を抱いた。
けれどこの時は、離れて暮らすというものがどんなものなのか、全く何もわかっていなかった。わかったつもりでいて、実は何も理解していなかったのだ。



『アンタ、クリスマスはどうするのよ』

雪明りが部屋の中を白く照らしていた。蜜柑は、見慣れた格子状の天井を瞳に映しながら、昼間に蛍に言われたことを何度も反芻していた。学園を卒業して、初めて
迎えるクリスマス。どうするのかとは、棗のところへ行くのかと聞いているのだ。
・・・行きたい。逢いたい。
心の中でそう呟いてみるも、蛍にはこう答えた。

『棗、むっちゃ忙しいみたいで。特に約束とかもしてへんし』

その返答に彼女は不満そうな顔をしていた。少し怒っているようにも見えた。そして、
『約束が必要なの?アンタたちはそんな関係なの?』
と言った。要するに、卒業してから数えるほどしか逢っていない状態を心配しつつ、棗に対して腹立たしさを感じているようだ。そして時折淋しげに表情を曇らせる自分を見ているのが、いたたまれないのだろう。

・・・いつから、こんなに不安に思うようになったんやろ。

じわじわと目の淵が潤み、慌てて瞬きを繰り返す。紛らわすように鼻の近くまで布団を引き上げた。


お互いが違う場所で、新しい生活をスタートさせようと決めたのは、卒業間近のことだった。ギリギリまで迷った挙句、今は長い間心配をかけてきた身内との暮らしを
優先させるということで、納得し合った。 勿論、棗と離れることにひどい寂しさを感じてはいたが、その状態に耐えることが出来ないほど、自分達の関係は不安定なものではなかった。

しかし、いざ離れてみると、今だかつて体験したことがない思いに苛まれた。 初めの頃はまだ良かった。祖父との生活に安心と幸福を感じ、充実した日々を送っていた。これまでの恩返しを精一杯したいという気持ちで溢れていたからだ。 今もそれは変わらない。 反面、棗に逢いたいという想いは、積もっていく一方だった。遠く離れた地に住むということは、そう易々とは逢えないということだ。それを充分理解しているつもりだったが、想像と現実とでは、大きな違いが生まれた。

毎日のように何かかしら連絡を取り合っても、埋まることのない寂しさ。けれど逢いたいという言葉をなかなか口には出せなかった。民間企業に就いた棗は、かなり多忙であることを理解していたから。困らせてはいけないと必死だった。 そして棗も、気軽に呼び寄せることが出来るような状態ではなさそうだった。無論、此処へ赴いて来たことは、一度たりともない。

――― 約束が必要なの?

普通に考えたら必要だ。クリスマスだろうが何だろうが、カレンダーでは平日で仕事がある日だ。
アポなしで行き、迷惑になるようなことだけは避けたい。

でも。

・・・ほんのちょっとだけなら?
会社へ尋ねて、顔を見て、プレゼントを渡すだけなら?

それならば。
何とか大丈夫ではないだろうか?
直ぐに帰れば、迷惑にはならないんじゃないだろうか。

蜜柑は寝返りをうった。
気持ちが上向いていく。

サイドテーブルに目がいく。棗のアリスストーンが淡い光を放ち、ぼんやりとそこだけを明るくしていた。布団から手をだし、触れる。
・・・あたたかい。
蜜柑は、それを握り締め、瞼を閉じた。

自然と顔が綻んでいた。





「う、・・・わあ」

蜜柑は、顎を精一杯上に向けた。ガラス張りの大きな建物。何十階あるのか。
――― ここが、棗の、
会社名を頼りに辿りついたビル。そこは蜜柑の想像を遥かに超えた、超高層ビルだ。
棗がここで仕事をしているのかと思うと不思議な感じがした。学園にいた日々が嘘のようだ。
彼には沢山の企業から入社の話がきていた。初めから待遇が違っていた。
そして学園とは殆ど接点がない、この会社を選んだ。

緊張をほぐすように、深く息を吸い、ビルの中へと歩を進めた。
大きな自動ドアが開く。 目前に広がったのは、外観に見合ったロビーだ。多くの社員や外部の人間が行き交う。何uあるのか想像もつかない。
圧倒されつつ見渡すように目を動かすと、奥にいくつかのソファが並んでいた。そこへ足を向ける。
――― なつめ、どんな顔するんやろ
ここに来ていることを知ったら、彼はかなり驚くだろう。想像すると、少し笑える。
カバンから携帯を取り出し、棗の連絡先の画面をひらく。

「日向――、」

蜜柑の指が止まった。
直ぐに首だけが動いた。

ビルの出入り口付近、自動ドアを通過した棗が後ろを振り返りながら立っていた。思わず蜜柑の顔に笑みが広がる。
――― なつめ、
濃紺のスーツに身を包んだ彼は、スラリとした身躯が際立ち、目をひいた。同僚らしき男性社員が急ぎ足で同じく自動ドアの向こう側から現れた。書類らしき封筒を差し出す。棗がそれを受け取ると、彼らは会話をし始めた。
初めて見る、棗の会社での姿。
少し胸が、高鳴る。
――― あの会話が終わったら、連絡をいれてみようか、
今まで外へ出かけていたのだろう。ここで彼の姿を発見できたことはラッキーだ。
話が終わると、男性社員はまた来た道を戻っていった。
――― 今なら、
蜜柑が先ほど呼び出していた画面から発信ボタンを押す。だがその指は、反射的にクリアボタンを押していた。
混ざり合うようなヒール音。それはロビーの床に反響し、棗を見つけると高音で忙しないステップへと変わっていった。近づくと嬉しそうに話かけている。 棗は頷きながら、彼女たちの会話を聞いていた。そして腕時計を見る。表情は硬くない。 学園にいた頃とは違う顔。
勿論、会話など聞こえやしない。けれど彼女たちの雰囲気で、どんな話をしているのか大体の推測がついた。今は、丁度お昼時。食事にでも誘っているのだろう。 案の定、棗は軽く頷くと、彼女たちと一緒に出口へ向かった。長大な自動ドアがスムーズに開き、3人の姿はすぐに見えなくなった。

「・・・・・・・・・・・・」

・・・・なつめ

カシャリと、何かが床を叩きつける音が、蜜柑の足元で響いた。
ふと我に返る。
見れば、携帯が落ちていた。直ぐにしゃがみ込み、腕を伸ばす。
だがその時、よどみない手がそれを拾いあげた。
蜜柑がすぐに顔をあげる。
「大丈夫ですか?」
目の前にはラフなシャツに身を包んだ、端正な顔立ちの男性がしゃがみ込んでいた。蜜柑の携帯を差し出す。
「あ、・・すみません、大丈夫です」
蜜柑は、慌てて携帯を受け取ると、立ち上がり軽く会釈をした。男性も首から提げた社員証を揺らしながら、同じように立ち上がる。
軽い笑みを浮かべると、彼も同じように柔らかい笑みを浮かべた。すれ違うように、ゆっくりと立ち去っていく。
――――― なにやっとるんやろ、
携帯を握り締めた。
胸の中心が、微かにざわめき疼く。

この場所に立っていることに、ひどく違和感を感じた。

足が自然と出口へと向かっていた。




別にショックだったわけじゃない。
棗は着実にこの土地での生活に馴染み、学園ではない違う社会での責務を全うしようとしている。 あんな風に誰かとコミュニケーションをとることは何より必要不可欠で、それを彼はきちんと理解している。気ままそうに見えて、やらなければならないことの区別はつけているのだ。 それがあの女子社員とのシーンであり、あれをどうのこうの思う気持ちなどない。

けれど、何故だろう。 逃げるように、ビルを後にした。 あのまま待っていれば、きっと棗に逢うことは出来ただろうし、計画は順調にいったはずだ。 今頃は帰りの新幹線の中で、それなりに幸せ気分に浸っていたかもしれない。

あれから宛てもなく、街の中をウロウロしていた。 そんな自分に呆れている。
ショックではないが、どこか複雑で捨てきれない何かが居座り、駅へ向かう気になれなかった。 これがどんな感情なのか名前などわからないけど、この訳のわからない気持ちを引ずったまま帰ることが出来なかった。

今まで見たこともない顔をしていたから?
初めて違う世界で生きる棗を見たから?

離れて暮らすうちに、もっと知らない彼になり、どんどん遠くなりそうだから?
あの共に過ごした9年の歳月など、薄らいでしまうくらいに。

認めたくないが、どれも当てはまっている気がした。
その変わりゆくすべてが、怖いのかもしれない。
・・・・どうしようもなく。

・・・・寒い。

頬が、感覚がないほど冷たい。 歩道上を擦り抜ける風が、足元から吹き込み、寒さを増長させた。

・・・帰ろう。

すぐそこは駅だ。
このままこうしていても仕方がない。
今帰れば、祖父とケーキぐらいは食べられるだろう。

辺りは、冬独特のぼんやりとした濃い夕暮れに包まれている。
空は、間もなく藍に染まりつつあった。





駅の中も普段より人が多いのか、酷くごった返していた。
それを縫うように歩き、ホームの階段へと向かう。
疲労感が纏わりつき、足取りは重い。


「帰るのか?」


どこからともなく聞こえた声。喧騒の中、耳が聞きなれた低音を拾った。
反射的に首を動かす。
「・・・・・・・・・、」
足が止まった。
「・・・・棗」
声にはならず、口元だけが彼の名を呼んでいた。
背後を歩いていた客が、蜜柑にぶつかりそうになりながら、避けていく。

棗は、ホームの上がり口脇の壁に寄りかかりながら、蜜柑を見ていた。
少し不機嫌そうにも見える。
彼は壁から背中を離すと、こちらに近寄ってきた。

「なんで、・・・」
驚きのあまり目を見開いていると、棗は蜜柑の手をとり、そのままホームの階段を上りはじめた。
繋がれた棗の掌が、冷たい。
まさか、ずっと、―――、

上りきると、棗はすぐにこちらを振り向いた。黒いコートが揺れる。
先ほどよりも強く手を握り締め、紅の瞳が、すうっと細められた。
彼はやはり、少し怒っているようだ。

「棗、・・ウチ、」
「もう帰ったかと思った。なんで携帯にでないんだよ」
蜜柑は言葉に詰まる。そういえば、昼以来一度も覗いていない。着信もマナーモードのままだ。
「・・・ごめん、せやけど何で?来てるって、・・わかったん?」
「会社のヤツが、言ってた」
「会社のひと?」
「おまえ、携帯落としただろ」
蜜柑の脳裏に、あの情景がフラッシュバックする。
「あのひと、会社の人だったん?」
棗が頷く。
「せやけどウチが棗に逢いに来たって、どうして、」
「自分がわかりやすい人間だってこと、まだ理解してねえのか?しっかり見られてたってことだ」
蜜柑に恥ずかしさが込み上げる。そんなに食い入るように、棗を見ていただろうか。
そうなると、あの後すぐに話を聞いたとして。
まさか、やっぱりそれから、
「棗、・・もしかしてずっと待ってて、くれたん・・?」
「・・・・・・・・・・・・」
棗はそれには答えなかった。代わりにわずかに感じられた怒気は消え、瞳には安堵の色が浮かんでいく。
「ごめん、」 
顔を俯かせる。
「オレも、・・おまえのところに行くつもりだった」
「・・・え?」
顔をあげた。
棗の空いているほうの手が、そっと頬に触れる。そのまま流れるように動き、指の背が一筋の髪を撫でていく。
「・・・冷たいな」
「・・・・・・・・・・・」
その仕草は、ひどく優しくて。・・・壊れてしまいそうだと感じた。
「・・・棗、」
「いつも待たせて、悪い」
棗の双眸が切なく揺らいだ。
「・・・・・・・・・・・、」
蜜柑が首を左右に振る。声がうまく出てこない。喉元が苦しくて、涙が出そうだ。
すると棗は、蜜柑の背中に腕をまわした。片手で抱き寄せる。
ふわりと顔を耳元に近づけた。
「オレはもう、・・・限界かもしれない」
「――――、」
届いた声は、あまりに心もとなくて。
鼓動が静かに波打つ。
「だから今日、どんなに遅くなってもおまえのところへ行くつもりだった。おまえに逢いに、そして、」
なつめは背中にまわした腕を緩めた。顔を戻し、蜜柑を見つめる。
「おまえの、じいさんに逢いに」
「・・・・・・・・・・・、」
・・・・なつめ、
蜜柑の唇が小さく動いた。
「それって、……」
「・・・・・・・・・・・・」
棗はかすかな笑みを浮かべた。そして迷いなく、しっかりと頷いた。

夜の空気は冷やされ、漏れだす息はかすかに白い。それをぼんやりと視野入れながら、頬に温かいものが流れていくのを感じていた。

棗も、ずっと辛い思いを ――――。

繋いだ手から体温が伝わり、温もりを交し合う。それは、あの頃と、学園にいた頃と同じだ。
何も変わってはいない。

「泣き虫」
棗は笑みを残したまま、再び蜜柑を抱き寄せた。
「せやかて、・・こんなことになるなんて、」
彼のコートを握りしめる。
「蜜柑、――――、」

・・・・愛してる

「うん・・・・」

今日という日も、届いた声のトーンも、言葉も。この場所も。何もかも。

一生忘れることはないだろう。

・・・ウチも、
愛してる。・・・誰よりも。


「・・・棗」
「?」
「ここがどこだか、・・・わかってる?」
「ホームだろ」
「ウチ、顔あげられへん」
「・・・・・・・・・・・、」
棗の楽しげな雰囲気が伝わってくる。
「じゃあ、この体勢のまま車内まで連れていくか」
「それも・・・いやや」
「じゃあ、あきらめるしかねーだろ」
「・・・・・・・・・・・・」

・・・あきらめる。
蜜柑は内心で微笑んだ。
こんなに幸せなら、

今日だけは、それもいいかもしれない。




fin


アキさまから、「卒業後の甘甘な二人」をリクエスト頂き、遠距離恋愛をテーマに書かせていただきました・・! 久野なりに彼らのその後を想像した結果(笑)、こんな展開もありえるのでは?と思い、離れ離れになることにより ごく当たり前に感じていくだろう気持ちを引き出してみました(笑) 最後はしっかりプロポーズをしていた棗クン、おわかりいただけたでしょうか(えへへw) 沢山の愛を込め、精一杯書かせていただきましたvvお待たせして申し訳ありませんでした(平謝;;)
この作品は、アキさまのみお持ち帰り可能です。

inserted by FC2 system