甘露空間


しとしとと雨が降っている。
激しくはないけれど、それでも傘なしで歩くのはためらわれるぐらいの雨。
棗は空を見上げて、軽く舌打ちをした。
そんなことをしたところで、雨が止むはずもないのだと分かってはいるのだが。

棗が授業をサボって昼寝と決め込んだ時には、確かに晴れていた。
それなのに、いつ雨が降り出したのかこの有様。
幸い大木の下で根を枕に寝ていたため、大して濡れていないのが救いだ――だからこそ、雨が降り出したことに気が付かなかったのだが―……。

雨は降り続く。
時折、新緑の厚い葉の層をすり抜けた雨水が、一滴、二滴と、落ちてくる。
空を見上げれば、暗い灰色の厚い雲。まだしばらく雨は降り続けるだろう。
いつまでもこうして、木の下で雨宿りしているわけにもいかない。
あきらめて寮まで走って帰ろうかと考えたとき。

目の前の茂みがガサリと揺れた。
棗が身構えた次の瞬間、ツインテールを揺らしながら少女が現われた。


「なつめっ?!」
ツインテールの少女――蜜柑は一瞬足を止めそうになったが、それでも木の下へと飛び込んで来た。
大きなはしばみ色の瞳が、驚きに丸く見開かれている。
「あんたも雨宿りしてるん?」
「この状況で他に何があるだ」
「それもそやな」
あははーと笑いながら、蜜柑はツインテールの髪の片方ずつをぎゅっと絞った。
水がぽたりぽたりと落ちていく。
「うっひゃー、びしょぬれやあ」
確かに。
夏の薄い制服は肌に張り付き、やわらかそうな肌を透かして見せている。
蜜柑がスカートの裾を持ち上げてぎゅっと絞ると、水滴が腿を伝って流れ落ちていった。

棗は視線をそらした。
まだ雨は降り続いている。
「急に雨降りだすんやもん。困ったなあ」
制服を絞ったところで状況に大差ないとあきらめたのか、蜜柑は手を止めて――。 

蜜柑はまっすぐ前を見つめた。
降り続けてい雨のせいで遠くは霞み、それでも木々の緑は灰色の世界の中鮮やかに輝いている。
ポツポツと雨が葉に当たる音が聞えている。
その音と雨の降る音に優しく包まれて、まるで世界から二人だけが切り離されているかのようだった。

「雨、止まへんかなあ」
囁くような蜜柑の声に、棗は彼女に視線を戻した。
蜜柑は寒そうに両腕を抱き、身体をちぢこませている。
「くしゅん」と小さなくしゃみ。
このままでは、風邪をひいてしまうのではないかと、心配になる。
それでもつい視線がいってしまうのは、透けて見える二の腕。薄いピンクのキャミソールも透けて見えている。
「……」
冬服だったなら、上着を貸してやれたのに。
身体を温めてやれるし、視線を遮ることもできたはずだ。
けれど、今は無防備な夏服。
雨に濡れただけで、肌に貼りつき身体のラインを浮かび上がらせてしまう。

この状況で雨が上がるまで待つのは、無理そうだった。
蜜柑はきっと風邪をひいてしまうだろうし、棗はいつまでこのままの状況でいられるのか自信がなかった。
腕は蜜柑を抱き寄せようと、動きたがっているのに。

「……走って帰るか」
「え〜?」
蜜柑が不満そうに抗議の声を上げた。
確かに彼女からすれば、雨の中を走ってきて、やっと雨宿りを出来る場所を見つけたのだ。 

「くしゅん」
また小さなくしゃみ。
蜜柑は身震いをした。
確かに寒い。このままだと風邪をひいてしまいそうだ。早く寮に戻って、お風呂にでも入って温まった方が良さそうだ。
「しゃあないか」
蜜柑がうなずくと、棗は「行くぞ」と声を掛け、雨の中へと飛び出す。
その棗の背中を見ながら、蜜柑も走りだした。



部屋にたどり着くと、棗は一息ついた。
窓の外では、まだ雨が降り続いている。やはり雨の中を走って帰ってきて、正解だったのだろう。
「うっひゃあ、またびしょぬれやあ」
情けない顔で、蜜柑が部屋の入り口に突っ立っていた。
蜜柑の肌を、またポタポタと水が流れ落ちていく。
棗は眉をしかめた。
「てめー、なんで俺の部屋についてきた」
訊ねると、蜜柑はきょとん、とした顔をして首を傾げた。
「? ホンマや。なんでやろ。棗の背中見て走ってたからかなあ。あはは」
乾いた声で笑う蜜柑に、棗はため息をついた。

本当は、寮から部屋へと向かう時点で気が付いていた。
何で俺の部屋に向かってるんだ? と。
それでも、その場でそれを指摘するのは、なぜかもったいな…いや、気が進まなかった。
棗の目の前の蜜柑の顔からは、いつの間にか笑いが消え、じっと棗を見ていた。
濡れた髪から顎を伝い、首筋へ流れ落ちてく雫。
はしばみ色の瞳が、そこに常には感じられない何かを浮かべている。
何かを言おうとして、少し空いたままの唇。
棗は息を飲んだ。
自分がこうして蜜柑に感じる気持ちを、こいつも感じてくれているのだろうか。

「……」
棗が蜜柑の方へ手を伸ばそうとした瞬間、金縛りが解けたかのように蜜柑が身体を翻した。
「ごめん。ウチ、部屋に帰るな」
ドアノブに伸ばされた蜜柑の手を、棗は掴んだ。
「待てよ。そのままだと風邪引く」


ドキリとした。
「・・・え?」
蜜柑は、ゆっくりと振り返った。紅い瞳が、まっすぐに見つめている。その瞳に宿る熱情を感じて、蜜柑の鼓動が一気に早くなった。
「シャワー、浴びていけよ」
「・・・・、けど、」
「このまま帰して、風邪なんてひかれたら寝覚め悪いんだよ」
棗は掴んでいた蜜柑の手をそのまま引いた。部屋に備え付けてある浴室へと向かう。
体の内側で湧き上がるような熱を感じる。それはじわじわと蜜柑を覆い尽くしていた。
肌は雨に濡れて、かなり温度が下がっているというのに。

ただ、棗の背中を追ってここに来た。彼に問い質されても、そうとしか答えようがなかった。けれど、本当にそれだけだったのだろうか。
同じように濡れた姿で佇む棗の姿を見ていた時、正直、自分でも理解しがたい行動をとってしまったと思った。
肌に張り付いたシャツと水分を含んだ前髪から見つめる赤い瞳。そこから頬へ滴り落ちる、雫。
そのひとつひとつが尋常じゃない色気を放っていた。胸が騒いだ。そして本当に、どうしてここへ来てしまったのだろうと、自分自身に問いかけた。
何かを・・・期待、して?
静かな動揺が広がった。戻らなきゃ、と思考が漠然と答えを導き出した。けれどこの部屋へ向かわせた潜在的な意思が言うことをきかない。
それを発するために開いた唇から言葉が出なかった。恐らく棗は、そこから何かを感じ取っている。
そして棗もまた、
「着替え、」
浴室のドアの前で止まる。
「・・え?」
「適当に、用意しておく」
「うん、・・・ありがと、」
扉が開いた。格調高いホテルを思わせるようなユニットバス。
「タオルも適当に使っていい」
繋がれていた手が離れた。それに一抹の寂しさを感じてふと瞳を動かすと、棗は長い前髪をかきあげていた。床に水滴がポタリと落ちる。
「あんたの方が、びしょ濡れなんちゃう?先に入ったほうが、」
「一緒に、入るか?」
「へ?」
棗が口角を上げ、悪戯っぽく微笑む。その様はますます妖艶だ。
「な、何を言うて、」
「冗談だ、さっさと先に浴びろ」
背中を軽く押され、中へ入る。
ゆるりと扉が閉まった。
蜜柑は胸に手を置き、ゆっくりと深呼吸をした。
ダメだ、と思う。この状況、とても平静ではいられない。扉の向こう側には棗がいて、今からシャワーを浴びるなんて。
何だかこれから・・・、って、なんちゅうことを想像してんねん!
蜜柑は勢いよくかぶりを振った。
そしてブラウスのボタンに慌てて手をかけた。



これからどうするつもりなのか。
棗は乾いたシャツに首を通すと、ため息をついた。
蜜柑は理解しているだろうか。彼女に向けられる感情の破格さと厄介さを。
あの時、蜜柑が帰ると言わなければ、確実に抱き寄せていた。あの常ならぬ雰囲気と、何かを言いかけた唇。何もかもが理性を超えるには充分だった。
帰したくなかった。だから引き止めた。あのまま蜜柑を部屋に帰すつもりなど。
シャワーの音が、微かに聞こえる。
肌にはりついたブラウスと、キャミソールが目に浮かぶ。体の線が浮かび上がり、あれだけで彼女の体つきが容易に想像できた。
もう初等部の頃のような、幼いラインではない。

水音が止まった。そろそろ着替えを持っていってやらなければ。
だがその時、浴室から小さな悲鳴が聞こえた。
「?」
扉に近付き、ノックをする。
「蜜柑?」
「・・・ごめん、大丈夫」
くぐもった声が聞こえた。
「間違って、水出してしもうた」
棗が眉を潜める。・・ったく、そそかっしい。
「着替え、置いておくからな。開けるぞ、」
「うん・・・、」
扉を開けた。シャンプーとボディソープが混じりあった淡い匂いの湯気がふわりと漂った。腕を伸ばし、洗面台の上に着替えを置く。
「ありがと、・・」
バスタブを隠すように引かれているカーテンの向こう側からのか細い声。脱ぎ置かれた制服が目に入り、情欲が駆け抜けた。避けるように視線を逸らし、浴室を後にする。
ふたたびシャワーを出す音が聞こえた。

扉に寄りかかり、ぼんやりと空(くう)を見つめる。
もう、このまま蜜柑を何事もなく帰す自信は、どこにも残っていない。



どうしよう、どうしよう。
蜜柑はモタついた手つきで濡れた体をタオルで拭きながら、心の中で何度も同じ言葉を繰り返す。どうしようとは、この後棗とどうなるのだろうということだ。
鈍い蜜柑でも察知してしまうほど、棗との間に流れる空気はいつもと違う。あの、引き止められた時の棗の目、―――シャワーを浴びながら何度も頭の中を過ぎった。
あれは普段向けられている眼差しとは全く違っていた。自分を、女として見ている目。
棗が用意した薄手のスウェットに袖を通す。・・・・棗の匂い。
手を止め、頬をよせた。
とても安心できる、匂い。
触れられるのが、嫌なわけでも怖いわけでもない、・・・・むしろ、
ええい、もう考えても仕方がない。
出たとこ勝負や。
蜜柑は急いで首を通し、勢いよく扉を開けた。

棗はソファの縁に座り、窓の外を見ていた。こちらを振り返る。
「お先に、ありがとうな、おかげで、」
言い終わらないうちにくしゃみが出る。次いで背筋がブルっと震える。
「・・んだよ、ちゃんと熱いの浴びてきたのか?」
棗が怪訝そうに訊く。
「もちろ、」
またくしゅりと、出る。ああ、もう、あの水シャワーのせいや。
「そんなんじゃ、外にいた時と変わりねえだろうが」
棗が立ち上がり、こちらに近寄ってくる。
蜜柑の背筋に緊張が走った。
「なつめ、あの、シャワーは?」
紛らわすように訊いた。
棗は蜜柑の顔を見ながら、目の前に立つ。
「ほぼ乾いた。後でいい。それより、」 蜜柑の髪の毛先を掬いあげる。「髪が生乾きだ。乾かしてねえのか?」
「う、・・ん、まあ、いつもこんな感じやから、大丈夫や、」
蜜柑は、あははとぎこちなく笑った。ロボットのような作り笑い。
あかん。
やっぱり自分は、出たとこ勝負は無理かもしれへん。
体の前で、両の手の指を絡ませ、モジモジと動かした。落ち着かない。
なのに追い討ちをかけるような沈黙。
シンとした室内。聞こえるのは、今だシトシトと振り続ける雨音だけ。
棗は、じっと蜜柑を見据えていた。気がつけば、あの眼差しで。
どうしよう。
曖昧に目を逸らす。緊張しすぎて、体が強張ってきた。
「あ、あめ、いつまで降ってんやろな、・・・」
間をもたせようとしたセリフも、語尾が小さくなり消えていく。
「蜜柑・・・」
棗は、蜜柑の背中にある浴室の扉に手をついた。体がビクリと動く。
「目、逸らすなよ」
艶のある声。胸が切なく高鳴った。
「・・・・・・・・、」
蜜柑はゆっくりと焦点を合わせた。するとほぼ同時に、やや首を傾げた棗の顔が迫ってきた。思わず目を閉じる。
けれど予想していた感触はなく、吐息が肌をくすぐる。少しずつ瞼を開けると、間近に迫る棗の顔。唇がふれる寸前で止まっている。
「・・・怖いか?」
気遣うような声音。
戸惑いを、感じ取ってくれている。
蜜柑は、首をごく小さく左右に動かした。
「怖くないよ、棗なら・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・」
唇に、柔らかな感触が重なった。
優しく愛撫するような口付け。蜜柑の手が棗のシャツを探り、ぎゅっと握った。やがて訪れた甘い感覚に身を委ねながら、陶然となっていく。何も考えられない。
扉に置かれていた棗の手が離れ、両腕で蜜柑の体を抱き寄せた。包み込むように抱きしめると、戯れるように軽いキスをしながら唇が離れていく。
蜜柑は恥ずかしさから目を伏せた。
「体、・・冷めてえ」
前髪に棗の額が、コツと触れる。
「水、浴びてしまったしな・・」
「これじゃ、シャワー浴びた意味ねえだろ」
蜜柑は目を上げた。赤い瞳がやや心配そうに揺らめいている。次いで目線が唇に動いた。つい先ほどまで触れ合っていた形よい唇。
顔全体がぼうっと熱くなる。やっぱり、恥ずかしい。
「・・・けど、棗の体はあったかいし、・・平気や」
棗は、ふっと笑った。その表情の和やかさに目を奪われる。
「やっぱり、一緒に入るべきだったな」
「へ?」
「ちゃんとあたためてやれたぞ?何もかもな」
棗は楽しそうに微笑んだ。それは悪魔のよう、いやこの場合は狼で。
「また一緒に入りなおすか?」
「な、何言うてんねん、もう」
体中が熱くなってきた。もう体は冷たいどころか、汗が滲んできそうだ。
「・・・嫌か?」
また唇が迫ってきた。どうしてこんな時に、ずるい。
「嫌って・・・」
目を閉じた。棗は、ホンマにずるい・・。
けれどキスを感じたのは、頬だった。棗の髪が肌に触れ、くすぐったい。
「バカ、本気にすんな・・・」
耳元で穏やかに囁かれ。
棗は蜜柑の髪に、愛おしいげに頬を寄せた。



しとしとと雨が降っている。
優しい雨音を聴きながら。
ふたりだけの時間は、ゆっくりと過ぎていく。



END



素晴らしい企画に参加することが出来て、本当に幸せでした(感涙)さわらさんを初め、他の委員さんの素敵なお話にトキメキが止まらなくて、こんなに楽しくていいんだろうかと終始顔が綻んでおりましたvv(周りから見たら、すっかり怪しいひと・・っていつものことか笑)
まさしくなつみかんばんざーい!状態(笑)委員の皆さん、読んで下さった皆さん、本当にありがとうございました。そして企画下さったさわらさんに心より感謝申し上げます(深々)

[ 09年 09月 26日 kaoru ]

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