Botan / 前編


常闇に浮かぶ柔肌は、夕顔の白い花のように淡い光を放っていた。
その滑らかさに目を奪われながら、紅唇を親指でなぞると、華奢な腕が蔓のように首に回る。
蜜柑、と愛おしさを隠すことなく名を呼ぶと、彼女は儚げな笑みを浮かべ、ゆるりと瞼を閉じた。

すべてが溶け合い、深淵へと落ちていく。
だが、恐怖はなかった。
これほどまでに愛した女は、―――他にはいない。






「なんで、オレが行かなきゃなんねえんだよ」
一日の中で最も気温が高い時間帯。蝉の鳴き声も一層激しさを増していた。
そのうだるような暑さの中、棗は戸口に寄りかかりながら、履物に足を入れる親友、流架の顔をうんざりとしながら見つめる。
「ごめん、ごめん。一緒に行く予定だった助手の子が、風邪をこじらせてね。今回は荷物が多くて、困ってたんだ。偶然とはいえ、棗が来てくれて助かったよ」
「オレは助かってない」
「まあ、そう言わないで。今日は、時間が空いてるんでしょ」 
若き医者は、美形の相好を崩すことなく、はんなりと微笑んだ。いつもは多少、慎み深い話し方をするこの医者も、真に切羽詰まっているのか、今日はどこか強引だ。確かに治療に使用するものなのか、荷物が多い。そして棗自身の予定が、急を要していないのも事実だった。
「どこまで行くんだ?」
棗が溜め息まじりに、問う。
「本所柳島の別邸」 
流架が門へ向かって歩き出した。その後に続く。
「どこぞの爺が、患ってんのか?」
棗の背中越しの問いかけに、流架が僅かにかぶりを振る。「旗本の娘さんだよ」
「・・・・・・・・」
「とても快活そうな雰囲気のお嬢さんなんだけどね・・・・・、笑った顔も夏の陽みたいで」 
声音が、大人しくなる。その娘が、病に伏しているというのだ。どれほどの状態か聞くつもりはないが、芳しくないだろうことは、今の様子から察することが出来る。
「惚れないでよ」
「・・・・は?」 何を言い出すのか。
「あんなにいい娘は、なかなかいない」
「だったら連れて行くな」
「冗談だよ、」 目元が和んでいる。「棗は、そういうことに不自由していないのは知ってるから」
「・・・なんだそれは」
「お付きの子も聡明で、なかなかの美人なんだ。ふたりの会話を聞いていると、とても主従関係とは思えないくらい可笑しいんだ」
「・・・・・・・・・・・・・・」

流架は道すがら、ずっと娘達のことを話していた。これから赴く場所へ、友人を気構えのない状態にでもしてくれようとしているのだろうか。棗もそのまま黙って聞いていた。こめかみから汗が、一筋流れ落ちる。
(――― 惚れないでよ)
先ほどの言葉が、すっと棗の頭を過ぎる。・・・馬鹿馬鹿しい。例え冗談だとしてもだ。流架が何故突然そんなことを言い出したのかは定かではないが、正直、箸にも棒にもひっかからないほど他愛もない話なのだ。しがない浪人者と武家の娘が惚れ合うなどと、そういう考えをもつこと事態お門違いである。身分の差は歴然たるもので、どう足掻いても結ばれようがないからだ。

(・・・・・・・笑った顔も夏の陽みたいで)

ふと、妹の顔を思い出す。
あれもよく笑う女なのだ。
年の頃は、
・・・同じくらいだろうか。

生ぬるい風が、棗の顔をすり抜けていった。艶のある髪が、サラリと揺れる。

・・・・考えても仕方がない。



屋敷の中は、ほどよい風が吹き抜け、酷暑を和らげていた。その長い廊下を、棗たちはしずしずと進んでいく。
案内人は、先ほど噂をしていた蛍という名の女中だ。別邸に到着するや否や、すぐに部屋の方へと導かれていった。間際、蛍は見慣れぬ同行者にややきつい視線を送って来たが、流架が理由を説明すると、複雑な表情を浮かべつつも、棗に丁寧な挨拶をしてきた。整った容貌に、怜悧な雰囲気。頭を下げながらも、どこか相手を値踏みしているような様子に、棗は内心で嘆息していた。この手の女は、苦手以外の何者でもなかった。

障子が開け放たれたある部屋の前で、蛍の足が止まった。棗たちも、その手前で待つ。中の様子は見えない。
「蜜柑、先生がお見えになったわよ」
「流架先生?!」
部屋の中から、明るい声が聞こえた。蛍はこちらに軽く頭を下げて、二人をいざなった。
中へと足を進める。棗は、あまり目立たないように流架の半身後ろに位置していた。
「やあ、調子はどう?」 流架が声をかけながら、床の傍に座った。棗も、少し後ろで同じように腰を下ろす。蜜柑と呼ばれた娘の姿は、流架の影になり微妙に見えない。
「顔色がいいね」
「はい、ここ2〜3日はいつもより体調が良くて。食欲もあるし、あんまり元気すぎて、蛍に怒られてばかりおるんよ」
「いくら調子がいいからって、言うことも聞かないで表に出ようとするからよ。あれほど先生が、無理はいけないっておっしゃってるのに」
「せやかて、・・・退屈なんだもん」
「だからアンタはバカなのよ。これでまた、ぶり返したらどうするつもり?元も子もないじゃない」

このやりとりに、流架が肩を揺らして笑っていた。同時に棗も、密かに目を丸くする。流架が話していた、可笑しいやりとりとは、このことだったのだ。このふたりの会話は、一体何なのか。これではどちらが主人か、わからない。

「そうだね、調子がいいのは歓迎すべきことだけど、やっぱり表に出るのは、まだ早いかな」
流架が優しく言う。
「・・・ごめんなさい、」 蜜柑がしおらしく謝った。先ほどの明るさとは、対照的だ。
「縁側に出て、少しずつ体を慣らしてからにしようか」
「縁側、・・・・ええんですか?」
流架が首を立てに振る。「具合のいい日なら、」
「ホンマに?」嬉々とした声だ。「嬉しい。ほたる、」 
「よかったわね」
「・・・・・・・・・・・」
「・・・・蜜柑?」
「あの、先生・・・、」 
蜜柑が首を傾げるように、流架の斜め後方を見やる。棗のことを訊いているのだ。すると流架は、ああ、と小さく頷き、すぐさま体をずらした。
「紹介が遅れて、ごめんね。こちらは日向 棗。幼い頃からの友人で、今日は助手の子の代わりに来てもらってるんだ。棗、」
流架が挨拶をするように、促した。それにしたがって棗は、伏し目がちにしていた顔を上げた。
蜜柑と目が合う。だが、
「・・・・・・・・・・・・・、」
互いの顔を見交わした刹那、胸の内奥を突くような感覚に襲われる。
―――― 何だ、
娘もまた、大きく目を見開き、棗を見つめている。

透き通るような白皙の頬と、鳶色の瞳。
薄桃色を湛えた唇は、わずかに震えている。
肌掛けの上にそっと置かれた両手。そこから伸びるほっそりとした手首。
緩く編んだ長い髪がしなやかに胸にかかり、繊細で弱弱しい体つきが際立つ。

これは、・・・・いかにも頼りない。
棗の心音が、静かに早鐘を打っている。息をひとつ呑んだ。
意思とは関係なく、体中がざわつき始めている。

「蜜柑、」
蛍が、名を呼ぶ。
「・・・・・え?」
蜜柑は、何かから引き戻されたように我に返ると、直ぐに棗から目を逸らした。傍から見てもわかるほどに、頬が紅潮している。
「・・・・どうかしたの?」 蛍が思慮深い目で見ている。
「ううん、なんでも、あらへんよ。」 首を横にふる。「あの・・・よろしくな、」 
蜜柑がたどたどしく挨拶をする。棗も、目線も曖昧に軽く頭を下げた。すると、隣にいる親友の顔が視野に入る。こちらを見ていた。やや目を動かせば、困惑気味の表情が浮かんでいる。
―――― 気付いたか、
流架はそのまま力なく微笑むと、蜜柑の方へ顔を戻した。
「それじゃあ、ちょっと見せてくれるかな、」
流架は、蜜柑の手首をやわらかく握ると、脈をとり始めた。

棗はその間、気を落ち着かせることに集中していた。この心を鷲掴みされたような衝撃と、ざわつきから何とか抜け出さなくてはならない。周りに気付かれぬように、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。
こんなことは本当に、・・・洒落にもならない。


診立てが終わると、蛍が待っていたかのように流架に声をかけた。蜜柑の父親、つまり佐倉家当主が呼んでいるのだという。
「棗、すまない。少し待っててくれるかい?」
「・・・・ああ、」
頷きをともに返事をすると、流架は立ち上がり、蛍の背中を追うように部屋を後にした。
漸く気が落ち着いたというのに、まさか二人きりにされてしまうとは。この場は何とか凌がなくてはならない。棗は居住まいを正した。何気に蜜柑の様子を伺うと、こちらを見ていた。
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
目が離せなかった。何故なら娘は、何かを言いたげにしていたからだ。しかしその交し合うような目線のやりとりに耐えられなくなったのか、やや顔を俯かせた。肌掛けをぎゅっと掴んでいる。
「・・・・・・・・・・」
気詰まりだった。だが棗の中で、また何かがざわめき始める。それは急速な勢いで、広がっていく。この目の前にいる娘を、蜜柑を、今すぐ手折ってしまいたいという衝動に駆られていた。
―――― 何を、思っているんだ、
自分で自分が理解出来なかった。こんなことは初めてだ。自制するのが難しいほどの強い想い。
しかしそれは何も自分に限ったことではないという、確信めいた感情が一因になっていることにも所以していた。蜜柑もまた同じように、棗自身を求めている。それはあの時の様子で、解かってしまったのだ。そして今さっき向けられたもの言わぬ双眸からも。

膝に置かれた手に汗が滲んだ。表では、ひぐらしが鳴き始めている。その音を聞きながら、理性を掻き集めた。打ち消されていく劣情の代わりに、言葉を口にする。

「縁側に、・・・出てみるか?」

蜜柑が、顔を上げた。そしてゆるりと、首をひとつ縦に動かした。頬が赤く染まっている。
傍に近付き、体を支えるように蜜柑の背中へ腕を回すと、それを頼りに少しづつ立ち上がった。
「大丈夫か?」
「・・・・うん、」
ゆっくりと歩みだす。おぼつかない足取り。支える腕に力を入れ、不安定にならないように体を抱いた。蜜柑も戸惑うことなく、棗の胸に手を添え、畳の上を進んでいく。

縁側は日影になり、心地よい風が流れていた。棗はそこへ、蜜柑を座らせる。
「・・・・気持ちええなあ」
蜜柑が、ほのかに微笑む。そして棗にもたれかかった。
「こんなん、久しぶりや」
「表は、」 
「・・・・え?」
蜜柑がもたれたまま、棗の顔の方へ首を動かした。
「暑くて、こんなに心地良くはないぞ」 
「そうやろな」 目が和んだ。「せやけど、・・・それでもええ。早く、表へ出たい」
「・・・・・・・・・・・・」
「この夏の陽射しを目いっぱい浴びたい。自由に、どこかに行ってみたい」
「・・・もうすぐ、叶う」
蜜柑は、再び微笑んだ。「そうなるとええな」 どこか淋しげだ。
「・・・・・・・・・・・・・」
胸が痛んだ。
流架たちの前では気丈に振舞っていただけに、そこに潜んでいた不安を垣間見たようで、いたたまれなかった。
「なあ、」
蜜柑は、庭の方へ顔を向ける。
「また、・・・・来てくれはる?」
「・・・・・・・・・・」
「ウチはまた、・・・・・アンタに逢いたい」
蜜柑は、棗の胸に頬を寄せた。その細い体を、棗はきつく抱きしめようとしたが、寸でのところで思い留まる。

ひと目で惹かれ合ってしまった。このまま時が止まればいいとさえ思っている。だが、どうなるわけでもないのだ。どうしようもないのだ。互いの立ち居地は、余りにも違いすぎる。
しかしもう、この感情を無には出来なかった。それもまた変えようのない事実だった。

返事をしてやれなかった。
答えの代わりに、襟の合わせにそっと置かれた蜜柑の白い手を、慈しむように握った。

ひぐらしが方々で、鳴いている。

それはこの場所を後にしても、耳から離れることはなかった。





「なんだって?」
棗は目を剥き、流架がたった今、言い放った言葉を問い質す。
「もう一度、」
「あの娘は、・・・・もう」
早朝に尋ねてきた友人は、戸口に立ち尽くし、悲しげに目を伏せた。
別邸を訪れた日から、10日が経っていた。
「いつだ?」
「・・・昨晩、容態が急変して、知らせが来て駆けつけた時には、もう、」
「・・・・・・・・・・、」

棗は目を閉じ、顔を逸らす。拳を固く握り締め、背中を向けた。

・・・・死んだ、だと・・・?

体中が、大きな音を立てて軋んでいく。
・・・・こんなことを、信じろと?
容赦なく叩きつけられた現実。
崩壊していく感情は、やがて激しい痛みを伴い、行き場を失くしていった。


(また、・・・・来てくれはる?)

こんなことなら、・・・

(ウチは、・・・・アンタに逢いたい)

いっそのこと、あの時・・・・、



棗の頬に、一筋の水滴が痕を残す。

蜜柑の微笑みが、淡雪のように消えていった。




刹那的に恋におちたふたり。後編は、蜜柑が恋しい棗に逢いに来ます。そう、あの姿で(苦笑)


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