扉の向こう側から彼が現れたとき、思わず息をのんだ。
そして何故という言葉よりも早く、全身の血がざわめき始めた。体温が上昇し、頬が熱くなり、瞳は瞬きを忘れ焦点をずらせない。完全に見惚れている。
傍から見たらその様はかなり滑稽だろう。視野に入る親友、沙希の表情も同様に恍惚としているようだ。左右の手を両頬に添え、完全に固まっている。まるで長い間待ち焦がれた王子様が、突如目の前に現れたかのように。
光沢を帯びた美しい黒髪と目鼻立ちがはっきりとした面立ち。上背は一般的な男性より高めだろうか、細めの体躯に黒の燕尾服がよく映えている。その整った顔立ちと洗練された姿形(しけい)は、誰彼なしに一瞬にして心を捉えてしまうほど、端麗な容姿だ。
彼はティーセットが用意されたワゴン押しながら、蜜柑たちが座るテーブルの傍でそれを止めた。そして、
「いらっしゃいませ。木崎さま」
沙希に向かって、丁寧に会釈をした。
彼女が放心したまま、こんにちは、と気の抜けた挨拶をすると、彼は微かだが、上品な笑みを返し、ワゴンの上のティーポットから保温用のカバーを外した。次いで白い指先が柄を握ると、清楚で気品溢れるプシュケに、香しく、透き通った紅褐色のお茶が注ぎ込まれていく。
悩ましげな、ため息が聞こえた。
容姿同様、無駄のない彼の上品なひとつひとつの所作に、沙希が思わず漏らした吐息だ。
彼は蜜柑たちの前にそれぞれ紅茶をサーブし終えると、ゆっくりと一礼し、部屋を後にした。
「ねえ・・・誰?」
沙希がうっとりとした口調で訊いた。
「たぶん・・・、執事?」
「そんなの当たり前じゃない」
「うん・・・・・」
ほんやりと答えた。すると蜜柑の頬に痛みが走った。
「痛っ」
沙希が頬をつまんでいる。
「そうじゃなくて、」 彼女は焦れたように言った。「アンタに付いてた執事って確か、こう、もっと落ち着いた感じの、」
落ち着いた・・?
蜜柑は、はっとし、立ち上がった。
「ちょっと、いきなりどうしたのよ」
「何でいるのか、聞いてくる」
「は?」
蜜柑はドアの方へ急ぎ足で進んだ。ちょっと、蜜柑、と沙希の声が追いかけてきたが、今はそんなことは気にしてはいられない。
あまりの衝撃に一瞬思考が麻痺していた。彼はどうしてここにいるのか。蜜柑はノブに手をかけると、一呼吸おいてからそれを引いた。廊下へ飛び出すと、ワゴンを押しながら進んでいく、形よい背中が見えた。
「棗!」
彼の足がピタリと止まった。そしてそのまま彼は、少しの間、微動だにしなかった。だがやがて姿勢を正すと、ゆっくりと後ろを振り返った。
「なんで・・・?ここに?」
掠れた声で、恐る恐る訊いた。緊張で喉奥が乾き張り付いている。
棗は問いには答えず、真っ直ぐに蜜柑を見ていた。空気が張りつめていく。それは、呼吸をすることすら憚れるような気詰りなものだった。
あの頃とは違う――――。
蜜柑の脳裏に、ふとそんな言葉が過っていく。すると彼の身体が動いた。来た道を引き返し始めた。蜜柑の方に向かって歩いてくる。
間近に迫れば迫るほど、やはりかなりの容姿だ。確かにあの頃とは何もかも違って当たり前だろう。あれから数年の年月が流れている。その間、彼がどう過ごしていたのかわからない。
棗は目の前で立ち止まった。蜜柑は、気圧(けお)され、一歩後退した。漂う雰囲気が素人離れしすぎている。表情から感情が読み取れない。無表情のまま、じっと蜜柑を見つめている。
異様な空気に耐えきれず、ふたたび蜜柑が口を開きかけた時、突如彼は胸下に右腕を差し入れ、すっと身を屈めた。
「本日から病床に臥す叔父の代わりに蜜柑お嬢様のお世話をさせていただきます。御用がございましたら、何なりとお申し付け下さい」
蜜柑は面食らった。お世話?
とても信じられない。棗が・・・、あの棗が、自分の目の前で身を低くし、頭を下げ、世話をすると言っている。
「何かの冗談・・・?」
思わず出た言葉に自分自身で納得した。そう、これは何か手違いが起こったのだ。きっと間違いだ。
すると棗が、ため息を漏らした。身を起こすと、ふたたび蜜柑に焦点を合わせた。
「冗談じゃない」
「え?」
「手違いでも冗談でもない。今日からおまえに仕えることになった。あまりにも急で代替が見つからなかったからな」
口調が固い。
「・・・えっと、あの、アンタの叔父さんは、そんなに悪いの?昨日はたいしたことないって、」
「それがそうじゃないからここにオレがいるんだろが。いいか、オレとおまえは立場が違う。だから、そこのところをよく理解して、昔のように、無用なことで気軽に話しかけるな。いいな?」
「・・・はい、」
棗の勢いに押され、蜜柑は機械的に返事をした。どちらが主人かわからない。けれど混乱しすぎた思考は正常に動作しない。
彼はそんな蜜柑を、ただじっと見つめていた。あの頃と変わらない綺麗な瞳が、鼓動を早める。
「・・・失礼します」
棗は、踵を返した。姿勢の良い背中が徐々に遠ざかっていく。
ひどい違和感が、急速に胸の中を覆い尽くした。・・・・違う、こんな会話がしたい訳じゃない。
「ねえ・・・!」
つい叫んだ。
棗の足が止まった。
「元気やったの?なんで・・・、執事に?」
訊かずにはいられなかった。
けれど彼は、後ろを振り返る様子はない。
もう二度と逢えないと思っていた。だが彼は執事という立場で、ふたたび蜜柑の前に現れた。そこにどんな理由が存在するのか、それが知りたかった。ただの偶然なのか、それとも・・、兎にも角にも腑に落ちない。
蜜柑は無意識に右手をやや強く握りしめていた。まるで行き場のない感情を掌(てのひら)の中に集めたかのように。
気を落ち着かせようと意識的に力を解放しようとしたとき、後方から、ふと視線を感じた。振り返ると沙希がドアから少し顔を出し、興味津々でこちらの様子を伺っている。
蜜柑は、複雑な笑みを浮かべた。事情を知らない人間がこのやりとりを見たら、不思議に思い、興味をそそられるだろう。部屋に戻ったら、きっと事情聴取が始まる。だが説明することに抵抗感がある。
棗はあの頃の彼とは、立場も雰囲気も違う。少なくともこの短いやりとりの中で、昔の彼を見出すことが出来なかった。従って、戸惑いだけが取り残され、立ち往生している気分だ。
ふたたび前を向くと、棗は既に廊下の先を進んでいた。背中が徐々に小さくなっていく。それが今のふたりの距離間をあらわしているようで、蜜柑の胸がチクリと痛んだ。

「で、どういう関係?なんか訳ありっぽいけど」
部屋に戻り、席に着くや否や、やはり沙希は開口一番にこう言った。
「どういう関係に見えた?」
「うーん、・・・幼馴染とか?とにかく結構近い感じの関係」
蜜柑は冷めかかった紅茶を一口啜った。思わず目を見張る。口内に芳醇な味が広がった。こんなに美味しい紅茶は初めてだ。
「ちょっと、どうなのよ」
蜜柑は、もう一口紅茶を啜ると、ゆっくりと沙希の方を見た。
「元カレ」
「モトカレ?・・・・えっ――――!元カレ?!」
沙希の身体が、大きく仰け反った。
「ななななんで、元カレが?」
「さあ、・・・・それが解れば・・・」
蜜柑は少し首を傾げ、カップを静かにソーサーの上に置いた。そうそれが解れば、あれこれ考えずに済むのだが。

付き合っていたのは4年前、蜜柑が高校生の時だ。棗の叔父である蜜柑の現執事の紹介で、彼女の家庭教師を引き受けたのがきっかけだった。棗は3歳年上で、当時大学生だったが、彼が二十歳の誕生日を迎えたすぐのち、長期留学を理由に突如別れを告げられた。
無論、納得がいかなかった。遠く離れた場所に行くという理由だけで、別れなければならないなんて、到底受け入れられないと思った。
けれど彼の意志を変えられるほどの自信も材料もなかった。ただでさえ蜜柑たちの恋は、困難を極めていた。資産家の娘が元家庭教師、一大学生と付き合うなど立場的に許されるわけもなく、好きというだけではどうにも無力で仕方がなかった。
けれど棗のことを忘れた日は、一日たりともなかった。あんなに誰かを好きになったのは、初めてだった。

今も彼に恋をしている。









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「棗!」
蜜柑の声を聞いた途端、棗の中の昔の記憶が一気に蘇り、溢れそうになった。懐かしいソプラノ。ワゴンを握る両手に自然と力が入った。それを押しとどめるように静かに瞼を閉じ、気を落ち着かせた。
そうでなければ、何をしてしまうかわからない。彼女の目の前に立った途端、手を伸ばし、強く抱きしめてしまいかねない。もう二度と離したくなくなるだろう。

先程の蜜柑の反応は、まるで信じ難いものを見ているような様子だった。部屋に入り、棗に気が付くや否や、直ぐさま身体を硬直させ、視線を逸らさずにじっと彼を見つめていた。それを視野に入れつつ、向けられたその眼差しを避けるように部屋を後にした。
もう、動揺しない自信があった。それだけの時間を費やし、揺るぎない覚悟で再び蜜柑の前に姿を現したのだ。
けれど蓋を開けたらこの様だ。彼女から注がれた視線、声ひとつで感情が波打っている。あの日、叔父の彰人に蜜柑の将来のことを聞かされ、これ以上、一緒にいてはいけないと決めて別れたあの日から、結局は何ひとつ変わっていないということなのか。

互いの為に別れた。あの時は、それが正しい道だと信じていた。けれどそれは全くの逆効果だった。離ればなれになったことで、余計に彼女への想いが募っていった。それは予想を遥かに超える辛さだった。だから、決めたのだ。手が届かないのなら、執事になり、一生傍にいようと。
それは近いうちに必ず訪れるであろう、他の男に添い遂げる彼女の姿を見続けなければならないという、茨の道であった。それでも構わないと思った。離れているくらいなら、傍にいて蜜柑を感じられない生活を送るくらいなら、茨の中で傷だらけになったほうがずっとマシだと思えた。

棗は静かに瞼を開くと、姿勢をただし、ゆっくりと振り返った。真っ直ぐに彼女を見つめる。
「なんで・・?ここに?」
蜜柑は掠れた声で、当然の疑問を口にした。悲愴が、胸を焦がす。
ここで何もかも台無しにするわけにはいかない。私欲に走ったら最後、今までの努力も信念も水の泡だ。そして何よりもう二度と蜜柑の傍にはいられなくなる。それだけは絶対に避けなければならない。
重たい空気が流れていた。蜜柑はこれがどんな類のものなのか推し量ることに苦労しているだろう。
――― あの頃とはもう、何もかも違う
自らに言い聞かせ、静かに深呼吸をすると、棗は蜜柑の元へと歩を進めた。
徐々に迫る蜜柑の姿に目を細める。栗色のロングヘアと幼さが抜けた顔つき。元々細身だった身体はそれに大人のしなやかさが加わり、着用している薄オレンジ色のワンピースが柔らかな雰囲気を際立たせている。これでは世間の男は放ってはおかないだろう。4年という歳月は、ここまでひとを成長させるほどの年数なのだ。
蜜柑の目の前で止まった。彼女は一歩後退した。明らかに緊張しているのが見て取れた。何かを言い出される前に、緩やかに身を屈めた。
「本日から病床に臥す叔父の代わりに蜜柑お嬢様のお世話をさせていただきます。御用がございましたら、何なりとお申し付け下さい」
「・・・・・・・、」
蜜柑はすぐに言葉が出てこないようだ。完全に面食らっている。目の前で起きていることが信じられないでいるのだ。当然だ。こんな展開、誰も想像出来ない。
「何かの・・冗談?」
予想通りの反応。内心で苦笑い。けれど敢えて呆れた素振りでため息を漏らすと、身を起こし、ふたたび蜜柑に焦点を合わせた。
「冗談じゃない」
「え?」
「手違いでも冗談でもない。今日からおまえに仕えることになった。あまりにも急で代替が見つからなかったからな」
「・・・えっと、アンタの叔父さんはそんなに悪いの?昨日はたいしたことないって、」
「それがそうじゃないからここにオレがいるんだろが。いいか、オレとおまえは立場が違う。だから、そこのところをよく理解して、昔のように、無用なことで気軽に話しかけるな。いいな?」
「・・・・はい、」
蜜柑は棗の勢いに押され、惰性で返事をした。全身で戸惑っているのが伝わってくる。彼女はこんな会話など、望んではいないだろう。
突如目の前に執事として現れた元恋人。何よりもまず理由が訊きたいはずだ。別れてから数年。何故執事となり、彼女の前に再び姿を現したのか。その間、どんな心境の変化があったのか。
―――すまない・・・
蜜柑を見つめ、心中で詫びた。一度鎮まった動揺が、水面に広がる波紋のように、また静かに広がっていく。こうなることは目に見えていたはずだ。これが自ら選んだ結果なのだ。
「・・・失礼します」
背を向けた。来た道を引き返す。これ以上の会話は望まない。いや、少なくとも今は出来ない。
だがしかし、
「ねえ・・・!」
弾かれたように発せられた蜜柑の声に、足が止まった。
「元気やったの?なんで・・・、執事に?」
蜜柑は、一番訊きたかったことを漸く口に出した。このひどい違和感に耐えられなくなったのだろう。
けれど後ろは振り返らなかった。
今ここで、もう一度振り返ってしまったら、どうなるかわからない。
心臓が小刻みに震えていた。喉奥が、何かを詰め込まれたように苦しい。
再び瞼を閉じ、押し流されてしまいそうな理性に歯止めをかけた。両手を強く握りしめた。
初めて知った。
自分の神経がこれほどまでに脆弱だったとは。これは蜜柑に限ってのことなのか。
―――このまま、どこかへ
すっと瞼を開き、後ろを振り返った。

蜜柑は、ドアから顔を出している友人の方を向いていた。
棗は瞬時に前を向いた。
――― 何を、
中を見つめ、何度か瞬きをした。まるで白昼夢から覚めたかのように。
そして喉奥に詰め込まれたものを解放するかのように、深く息を吸い込み、ゆっくりとそれを吐き出した。
・・・・バカなことを。
小さくかぶりを振り、自嘲気味に薄く笑った。
ギリギリの状態だった。
あのまま成すがままの感情に流されていたら、恐らくすべては台無しになっていただろう。
棗は視線を長い廊下の先へと据え、歩み出した。蜜柑との距離が、徐々に開いていく。

もう二度と振り返ることはない。自分を見失うことなど許されない。それが時に、ひどく残酷思えても。
前だけを向き、歩いていくと決めたのだ。

蜜柑を誰よりも深く愛しているからこそ。





<赤い糸の途中で / それは永遠のはじまり fin>



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