act


体が小刻みに揺れた。
これは間違いなく震えだ。蜜柑はその震えを止めようと左右の手で、両の二の腕を抑えた。けれどこの状態を引き起こした原因を思うとますます恐怖に苛まれ、体の揺れが増した。

あかん。クラクラする。
恐ろしくて倒れそうや。なんであんなこと言うてしまったやろ。

そのとき、左肩を強く叩かれた。驚きのあまり喉奥から、ひっと声が漏れだし、心臓がドクドクと音たてた。
蜜柑は油切れを起こしたからくり人形のようにギシギシと音がしそうなほど、ぎこちなく首を回し、後ろを振り向いた。
「・・・・・蛍、」
蛍が立っていた。眉間には、かすかに皺が浮かんでいる。
「なにこんな廊下の隅でねずみみたいに縮まってんのよ。貧乏くさい」
蜜柑は、猛烈な安堵に包まれた。じわりと涙が浮かんだ。ほたるぅ!と勢いよく彼女に抱きつく。
「なんなのよ」
「ほたる、どうしょう、ウチ大変なこと言うてしまって」
「は?」
蛍は蜜柑を引き離した。
蜜柑は潤んだ瞳を向ける。
「さっきな、付き合ってくれって言われて」
「へえ、それは奇特な人間がいたものね」
「そうなんや、奇特な人が、あああ、もう、そうじゃなくて」
蜜柑はふたたび蛍に縋りついた。鬱陶しそうに身をよじる彼女を他所に、震えの原因であった恐怖の出来事を語り始める。

それはつい先ほど、昼食が終わり、ホッと一息ついた時の出来事だった。突如、隣のクラスの市川という男子生徒に裏庭に呼び出され、告白されたのだ。
蜜柑は、その告白をきっぱりと断った。市川の存在を知ってはいたが、殆ど話したことなどなかったし、面立ちはそこそこ美形だが、女癖の悪さで有名で、好意が生まれる対象ではなかった。
けれど市川は食い下がった。ずっと前から好きだったと、オレと付き合って損はない、幸せにするからとしつこく言い寄って来た。蜜柑は何度も断ったが、それでも諦めきれず執拗に迫る彼を前に、
「ウチはな、彼氏がおるんや!」と叫んでしまった。
はっとした。一瞬にして後悔に見舞われた。まずい、なんてことを口走ってしまったのか、彼氏のかの字も存在しないというのに、額には吹き出すように冷や汗が滲んだ。あまりのしつこさに、勢い余って口から出まかせを言ってしまった。当の市川と言えば一瞬驚いた顔をするも、次には失笑していた。そして当然の如く、誰?と問い質してきた。

「で?誰って言ったのよ」
蛍はふっと息を吐き出した。
蜜柑は、口をへの字に曲げた。いけない、また震えてきた。
「誰?」
「・・・が、・・・・、」
蛍はもう一度声高に「誰?」と訊いた。
「日向、棗」
「・・・・・・・・・・・」
沈黙。
さすがの蛍も驚きを隠せないようだ。だが、
「よりによって、アンタってホントにバカね」
心底呆れたように言った。
蜜柑は先ほど同様、ほたるぅ!と泣きつく。
「どうしたらええ?ウチ、ホンマに大変なこと言うてしまった。殺される・・・」
「確かに、日向棗の名を出せばという気持ちもわからなくはないけど、市川は、なんて?」
「本当かどうか日向に確かめるって・・・」
蛍は小さくかぶりを振った。最悪、と呟く。
「こうなったら先回りして、本人に言うしかないんじゃない?」
「な、そんなのムリ!絶対ムリ!一回も話したことないし!」
「無理って、アンタが無理なこと言ったんじゃない」
「しゃーないやん、市川はしつこいし、そんなとき偶然、日向棗が目に入ったんやし」
「言い訳はどうでもいいけど、まあ、アンタが言う前に既に伝わってるかもね」
「そ、そそんな恐ろしいこと言わんといて!」
蜜柑は叫ぶように言った。同時にひどい自己嫌悪に陥る。本当になんであんなことを口走ってしまったのか。
「・・・あら、もしかしてお出ましかしら」
蜜柑は、つと蛍の顔を見た。目線がやや後方を向いている。その先を追った。
「!」
蛍に縋りつく腕に力が入った。
廊下の先から、日向棗が歩いてくる。
「相当早いわね。怒り心頭?」
「・・・・・・・、」
もはや声にならない。
その表情は、超がつくほど不機嫌そのものだった。

冷や汗が吹き出た。
体全体が硬直していく。意識が飛んでしまいそうだった。
日向棗の表情はそれほどに恐ろしかった。目を細め、睨み付けるようにこちらを見ている。顔だけはやたら整っているだけに、ますます凄みを増していた。

ああああ、もう、ウチのバカバカバカ!ホンマになんで日向棗の名前なんて言うてしまったん!?

あの時、あの裏庭で市川に彼氏は誰かと訊かれた時、当然のことながら言葉に詰まった。ついでに困り果てた様子が表情にでていたのだろう、市川は嘘をつき、引っ込みがつかなくなった子供を前にしたような、大人びた笑みを浮かべた。
その余裕を含んだ笑みは、蜜柑の感情を逆撫でした。
このままこいつの思い通りになんかなるものか、そんな強烈な思いが押し寄せ、ぎっ、と市川を睨み付けた。
だがこのままでは、どうにもならない、焦りで汗が滲んだ手のひらをぎゅっと握り締めたとき、市川が背にしていた南校舎の廊下を歩く、日向棗の姿が目に入った。咄嗟のことだった。通常では到底考えられないことだった。だが蜜柑は、わらをも縋る思いで、彼の名を口走っていた。

日向棗は、やや離れた位置で、ゆっくりと立ち止まった。表情は変わらない。
「なに?」
蛍は首だけをやや後方に捻り、いつもと変わらない平坦な口調で言った。蜜柑はつと目を瞠る。そしてまた、いつもと変わらない蛍の顔をマジマジと見つめた。何故こんなに普通に話しかけられるのか、・・・そうか、そうなのだ、彼らは生徒会役員なのだ。ふたりはいつもそこで顔を合わせている。いや、顔を合わせているどころか、副会長の蛍は会長の棗をいつも何かしらサポートしているに違いなかった。動揺のあまり、大事な相関関係がすっかり抜け落ちていた。
「てめえにひっついてるブスが、佐倉蜜柑か」
ギクリとした。心臓がドクンと大きく波打った。
やはりだ。予想通りだ。早速市川に訊かれたのだ。もう終わりだ。
「そうだけど、それが何?」
蛍は血の気が引いていく蜜柑を他所に、落ち着き払った所作で、縋りつく蜜柑の腕をやんわりと振りほどき棗と向き合った。あくまで惚ける(とぼける)つもりだ。蜜柑はその様子を凝視することが出来ず、視線を彷徨わせた。棗の方を見てしまったら、目が合いそうで恐ろしかった。
「この子がどうかした?」
ふたたびの問いかけにも棗は黙ったままだった。何故何も言わないのか、あまりの腹立たしさに言葉も出ないのか、蜜柑が恐る恐る彼らの方に目を向けようとしたそのときだった。突如、グラリと視界が歪んだ。
な、――・・・こんなときに、
目が霞んだ。何度かまばたきを繰り返したが無駄だった。足元がふわふわと揺れる。蛍の背中に手を添えた。みかん?と呼ぶ、彼女の微かな声。
意識が、徐々に遠退いていく。体が緩やかに傾いで(かしいで)いった。
もはや自分の意思ではどうにもならなかった。

消毒の匂いが鼻を突いた。
徐々に瞼を開くと、白い天井が目に入った。顔を横に向けると、隣にはもうひとつベッドがあり、その向こう側の窓際では午後の陽を浴びたカーテンが風に煽られ、ゆらゆらと揺れている。
蜜柑は、大きくため息をついた。同時にあの最中に倒れ、ここ、保健室に運ばれたのだと認識した。
・・・・何やってんのやろ。
やっぱりウチは大バカや・・。
もともとの貧血症が災いし、急激な緊張感に見舞われると、時々意識を失うことが過去にもあった。
今回は原因が原因だけにひどく情けない気がしてならない。棗はますます腹立たしかっただろう。問い質した矢先に肝心の張本人が突然倒れてしまったのだから。

常に不機嫌で、威圧的で一部の人間以外誰も寄せ付けず、放たれるオーラは常人ではない、極めて特異なものだった。良く言えば大人びていて、悪く言えば捻くれている。とても同い年とは思えなかった。それが棗の印象だ。彼を取り囲む、実際の環境がその特異さを作り上げたとも言われている。
棗の父親は医者であり、市内で大病院を経営している。一人息子の彼は後を継ぐべく厳しく育てられた故にその反動が外へと向けられているのでは、というのが専らの噂だ。泣く子も黙る日向棗と密やかに囁かれ、校内では怖れの存在として認識されていた。
そんな彼の名を勝手に出してしまったのだから、絶対に許されるものではない。やはりどんなに非難されても、正直に事の次第を説明し、誠意をもって詫びを入れなくてはならない。最悪に憂鬱なことだが、これ以上逃げるわけにもいかない。

チャイムが鳴った。のろのろと体を起こした。具合は悪くない。
スカートのポケットから携帯を取り出し、時刻を確認した。5時間目が終了したのだ。校医に挨拶し、教室へ向かった。
するとその教室の前には市川がいた。彼は直ぐに蜜柑に気が付いた。嫌悪が顔に出てしまいそうだったが、彼にもまた真実を話し、今度こそきっぱりと断らなくてはならない。
「大丈夫?倒れたんだって?」
市川が寄ってきた。その表情は心配しているというより、まるで珍しいものを見ているような顔つきだった。
「たいしたことないんや。大丈夫や」
「今日の帰り送って行くよ。心配だし」
「そんなええよ、別に、」
「なに?遠慮してんの?」
「遠慮とか、そんなんやなくて、」
市川はニヤリと笑った。
「あれ、嘘だろ?日向のこと」
「それは・・・、」
「訊いたよ。アイツに。付き合ってるかどうか。鼻で笑ってた。なあ、」
市川は更に蜜柑に近付いた。両肩に手を置く。
「下手な嘘つくなよ。焦らしてないで、素直にオレと付き合えば?」
「ちょっ・・、離して、」
鳥肌が立った。
「またそうやって焦らす気?」
気持ちが悪い。吐きそうだ。
だがそのときだった。市川の体が突如後ろに仰け反った。一瞬にして、廊下の隅に飛んでいく。
何が起きたのか理解出来なかった。ただ目に映っているのは、体を床にしたたかに打ちつけ、苦痛に呻く市川の姿と、
「てめえ・・・、何してやがる」
恐ろしいほどに凄み、威嚇し、傍に立つ日向棗の姿。
「・・日向、なんで、」
「人のモノに手を出したら、どうなるかわかってんだろうな」
棗は市川に近付き、胸倉を掴んだ。市川の顔が恐怖に慄く。
「ま、待て、・・き、聞いたとき、馬鹿馬鹿しいって、感じだっただろ、・・だから、」
「黙れ。てめえの質問に答える義理なんてねぇんだよ」
「そんな・・、嘘だろ・・・・」
「信じられねえなら、」
棗は市川に顔を近付けた。
「あいつの体にあるホクロの位置、全部教えてやろうか?」
冷酷で、蔑むような物言い。市川の体が震え始めた。目には涙が浮かんでいる。
「す、すみません、でした・・・・」
「・・・・・・・・・・」
棗は突き飛ばすように、胸倉から手を離した。

蜜柑はもはや放心状態だった。
余りの衝撃で体のすべての機能が停止していた。考えることは勿論、呼吸も瞬きも、そして言葉さえも失っていた。
「大丈夫か?」
傍で聞こえた声に体がビクリ、と反応した。その方向へゆっくりと顔を向ける。
棗がじっと見ていた。迷惑そうに微かに眉を潜めていたが、そこに怒りはなかった。
「はい・・・・」
ぼんやりと返事をした。なかなか正気に戻れない。
すると棗はひとつ息を吐き、蜜柑の手をとった。指を絡めると、そのまま引いて歩き出す。
―――― えっ
訳がわからなかった。
今、この状態をどう解釈すればいいのか、全くわからない。蜜柑の脆弱な思考で考えるには無理があるのだ。展開がひどく現実離れしすぎている。
けれど、その中で唯一感じられる彼の意外な一面。

繋がれた手は、蜜柑を気遣うように思いのほか優しく握られ、揺れる黒髪と白いシャツに覆われた形良い背中に、いつもの刺々しさは微塵もなかった。





Thank you !!




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