今宵、君と見る夢は


悪い夢を見ていた。

棗はトンネルのような暗い空間を、息も絶え絶えになりながら、闇の奥に見える針の穴のような光に向かって走っている。だがどんなに進んでも、その距離が縮むことはなかった。やがて呼吸は強烈な胸の痛みを伴いながら悲鳴を上げ始めた。足がもつれ、冷たい地面に崩れるように倒れこんだ。
漆黒はまるでそんな棗の姿を嘲笑うかのようにますます闇を色濃くし、棗自身のすべてを飲み込もうとしている。それに抗おうと棗は、胸元にあるアリスストーンを探り、必死で握った。
橙に光り輝く、小さな小さな石を。


悪夢は必ずここで終わる。ここ数日間、ずっと同じ夢を見ている。任務中によく見ていた夢だ。すべてが落ち着き、穏やかな日々が訪れたというのに、昔の経験や記憶はそう易々とは静まらなかった。認めたくはないが、これはいわゆる、トラウマというヤツなのだろう。
面倒だ、と思う。何を今更。日常ではこんな暗い過去などかすりもしないというのに、寝ている間にのこのこと現れ、精神を疲労に追いやる。潜在的なものがそうさせるのか、こんなものにいちいち振り回されるのは煩わしくてたまらない。

瞼を開けるのがおっくうだった。うっすらと感じる明るさから、もうとうに朝がきている。近頃は寝つきまでもが悪いせいか、目覚めるのが遅い。今日は土曜だ。たまには寝坊もいいだろう。・・・と思った刹那、ふっとあることが頭の中を過ぎる。次いでタイミング良くドアをノックする音が聞こえてきた。

「棗?」

扉が開き、ひょこっと蜜柑が顔を出す。
「おはよう、まだ寝てた?」
ドアを閉め、パタパタと小走りで近寄ってくる。棗は片肘をつき、体を起こした。何気に時計を見やると、8時半を過ぎていた。
「朝ごはん、はよ、食べに行こ」
蜜柑は声も体も弾ませながら、ベッドの端に、ポンッと腰掛ける。
「朝からテンション高いんだよ」 うんざりしたように言った。
「だって、今日はアンタと遊園地行くんやから、はりきって当然や。もうウチ、嬉しすぎてあんまり眠れなかったんよ。楽しみやなあ。・・・って、棗、もしかして、」
「忘れてねえよ」
思い出したのは、ついさっきだが。
「よかった。さ、はよ、着替えて、」
棗はその勢いに気圧され、だるい体を無理やり動かし、緩慢にベッドから降りた。その様を見て蜜柑は、何なら手伝ってやる?と満面に笑みを湛えて言った。珍しい。棗が思わず、意味ありげな笑みを浮かべると、慌てたように前言撤回、とそっぽを向いた。ほんの冗談のつもりが、一瞬にしてマズイと思ったのだろう。

昨日は、棗の誕生日だった。
クラスメイトたちが大袈裟なパーティという名のもの開き、祝いの席は賑やかなものだった・・・・
いや、正確には騒がしいことこの上なかった。その後、自室へ戻り、蜜柑とふたりでケーキを食べた。プレゼントは何がいいかと聞かれ、欲しいものはない、と答えると、蜜柑はやっぱりそう言うと思ったというような顔をして――― じゃあ、記念に明日どっかに行かへん?どこ行くんだよ?うーん、遊園地とか。ガキのいくところだろうが。だって、ウチらガキやん。
言葉を出せずに苦い顔をしていると蜜柑は、決まりな、と手を叩きおおいに盛り上がった。そして、一度アンタとあのセントラルタウンにある絶叫マシンに乗ってみたかったんよ、とニコニコ笑いながら、大口を開けてケーキを頬張っていた。

(――― ったく、誰の誕生日なんだか、)

棗はパジャマのボタンを外しながら、鼻歌を歌いカーテンを開ける蜜柑の横顔を見つめた。朝陽が彼女の艶やかな髪と白い肌に反射し、輝いている。眩い光は、まるで彼女を待っていたかのように包み込み、やわらかく照らしている。
棗は目を細めた。気持ちも表情も緩んでいくのを感じながら。





「おい、大丈夫なのか?」
蜜柑はのろのろと立ち上がった。
「大丈夫、大丈夫、こんなの、平気や・・」
そう言う蜜柑の顔は、明らかに蒼白だった。座席の取っ手を握り、ふらつく体を支えながら慎重に乗り物から降りた。棗はその腕を支えるように、掴む。
「乗りたいと言ってたのは、勢いだけかよ」
棗はゆっくりと歩く蜜柑に歩調を合わせながら、近くのベンチを目指した。
「大丈夫やって、そんな大袈裟なものやないって。手離してええよ」
蜜柑は、棗が掴んでいた二の腕に手を添え、はずすようなそぶりをした。
「いいから黙って、」
「だから大丈夫やって、ホラ、このとおり、」
蜜柑は、ニコッと笑い、その場で少し跳ねて見せた。

(・・・何やってんだ)

セントラルタウン内にある、この遊園地に着いてから棗と蜜柑は、殆どの乗り物を制覇していった。始めこそ調子づいていた蜜柑だったが、つい先ほど乗り終えた日本最速を誇るローラーコースターが停止する頃には、目に見えて顔が青ざめていた。おそらくこのコースターに乗る前から調子を悪くしていたのか、思い起こせば確かに少し元気がないように見えた。止めさせるべきだったと後悔が過ぎる。

「無理に跳ねるな」
「心配いらんって、ほら、こんなに」 元気元気と言いながら今度はガッツポーズをしている。

棗はやや顔をしかめ、少しのため息を漏らした。何故、そこまで意地を張る?
背後では、ついさきほどまで乗っていたマシンが動き出す音がしている。間もなく空気を震わす落下音とともに大きな叫び声が聞こえてくるだろう。あの瞬間の蜜柑のひきつった顔が目に浮かぶ。心配をかけまいとしているのはわかるが、今だ紙のように白い顔を目の前にして、やはりそれをやり過ごすわけにはいかない。
「とにかくそこのベンチで休むぞ」
強引に手を握り、ひいた。刹那、棗、という声とともに、ぐい、と腕をひかれた。体が少し引き戻される。
「・・・なんだ?」
往生際の悪い蜜柑にやや不機嫌な声を出すと、彼女の唇がわずかに開き、何かを言いかけていた。それは思い直したように一旦閉じられ、はにかんだような顔つきでふたたび動き出す。
「ごめん、ウチのことは、ホンマにええねん、こんなのどうってことない。それより、・・・」
「?」
棗は怪訝そうな顔をした。
「楽しかった?」
思わず目をまたたいた。何を、
「・・・・ああ、」
「ホンマに?」
蜜柑は、繋いでいた手をぎゅっと握った。
「少しは、・・・嫌なこと、忘れられた?」

一瞬、言葉を失くした。――― こいつ、

蜜柑は戸惑うような表情でほんのりと笑った。棗は、途切れ途切れに聞こえる轟音とともに螺旋状に動き回るコースターを視野から遮るように目を細め、蜜柑を見つめた。
「・・・おまえ、」
「疲れてんのに連れ出して、ごめんな。けどアンタに元気出して欲しくて。何があったかなんて、訊かへんけど・・・少しでも嫌なこと忘れて、楽しんで欲しくて、」
蜜柑は空いている方の手をそっと伸ばし、棗の頬に遠慮がちにふれる。
「あんまり、眠れてないんやろ?ここんとこずっと、顔色良くないし・・」
蜜柑の手が、小刻みに震えながら離れていく。それは所在無げに、軽く握られた。まるで自分の言っていることやしていることに沢山の勇気を振り絞り、それをなんとか締めくくるかのように。
――― ここまで、
「・・・バカ」
「え?」
蜜柑は、つと、目を開いた。
棗は小さく息を吸い込んだ。自嘲気味に笑いながら、それをゆっくりと吐き出す。
・・・・バカだ。いや、この場合の馬鹿は明らかに自分に向けたものだ。まさか気がついていたとは。挙句ここまで思いつめさせ、無理をさせ、心配をかけていたとは。
おまえは、・・・今日が楽しみで眠れなかったわけじゃない。これまで、ずっと、
「あれこれ、気を回しすぎなんだよ」
「けど、」
棗は、蜜柑の肩を抱き寄せた。緩く結ばれたツインテールがふわり、となびく。
「大丈夫だ。心配ない。・・悪かった」
蜜柑は、棗の抱き寄せている方の腕に、手を添えた。
「ホンマに・・・?ホンマに大丈夫?」
「ああ、問題ない。ただ、夢見が悪いだけだ」
「・・・・夢?」
蜜柑は、体を離し、すくうように棗を見つめた。憂いを含んだ黄褐色の瞳は、すぐに何かを察したように切なく揺らめいた。
「なら・・・、」
棗が小首を傾げる。
「今日は、ずっとそばに、・・・アンタが安心して、眠れるように」 効果なんてないかもしれへんけど、・・気恥ずかしそうに言った。
「・・・蜜柑」
棗の口元が、緩んでいく。―――― まさか、こう来るとはな。
蜜柑の肌は徐々に色を取り戻し、頬は薄いピンクに染まっている。いや、これは別物、照れくささからきているものか。
棗は笑いをこらえきれずに、やや顔を逸らし、ふっと吹き出した。
「なに?何で、笑うんや?」
蜜柑は目を剥いた。一世一代の告白を馬鹿にされ、食ってかかるように。
「べつに、」
「だから、なに?」
棗は、ふたたび蜜柑の体を抱き寄せた。血色のよい頬に、唇でふれて。
なかなかいいプレゼントだ。
「楽しみだ」
「ちょ、アンタ、もしかして何か勘違いして、」
「さあな」

今夜は、いい夢が見られそうだ。





fin




Thank you・・・!



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