Prince of water


蝉の鳴き声がうっとうしい。
適度な数の鳴き声ならそうは思わない。何故なら夏という季節を基本的に好んでいるから、時折違った種類の声が互い違いに聞こえてくる程度なら、かえって心地よいと感じる。ああ、夏だ、と自然に気分まで開放的になる。

しかし、こう絶え間なく、それも何匹もいっせいに鳴かれたからには、何かをせっつかれているようで、いささか落ち着かない。いや、そもそもそう思わせるだけのものが、今の蜜柑にないわけではないのだが・・、

「みかーん」
上機嫌な呼び声とともに部屋の扉が勢いよく開いた。蜜柑はベッドに寝転んだ姿勢のまま、緩慢に首を上げる。
「おとーさん、どないしたん?」
父親の泉水が、お、この部屋涼しいなと言いながらベッドに近寄り、端に腰掛けた。
「今日は一日中、学校じゃなかったん?」
「それが意外に早く終わってな、さっき帰ってきたところだ」
「ふうん、で、どないしたん?」
泉水はニコニコと笑いながら、蜜柑の枕の脇においてあったエアコンのリモコンを手に取り、ピッと押す。蜜柑が瞬時に、ああ、と空しい声を発しようとした時、
「蜜柑、プールだ」
超直球な物言いが飛んできた。
思わず、あさっての方向へ目を向ける。すると腕を掴まれ、ひかれた。蜜柑の体が必然的に起き上がる。
「もう、・・・何か学校で言われたん?」
蜜柑が嫌そうに訊いた。
「言われちゃいないけど、出席簿を見てきたんだ。おまえまだ、1回しか入ってないだろ」
「う、ん」
歯切れ悪く頷いた。
「夏休みもあと残り2週間を切ってんだ。あとの4回、今週と来週で入っとけ。もう殆どのやつがノルマ達成してるぞ」くしゃりと、頭を撫でられた。


泉水は、蜜柑が通う中学の教師をしている。今日は、学校再開後の準備のため赴いていた。そこで見て欲しくはなかった我が子の夏休みのプールの出席状況を調べてきたというわけだ。

学校から与えられた夏休みの課題の中に、最低5回はプールに入ること、という全学年共通の宿題がある。
蜜柑は水が苦手だし、そのせいであまり泳ぎが上手ではない。したがってつい及び腰になり、あとの4回を伸ばし伸ばしにしてきた。いっそのこともうこのまま、1回だけでいいとさえ思い始めていたくらいだ。後々の評価に若干響く可能性はあるが、それは水泳以外の体育を得意としている蜜柑にとっては、何ら痛くもかゆくもなかった。それを補っても余りある実績があるからだ。

しかし教師である父親から直(じか)に言われてしまうと、避けようにも避けられない。それに職場の面子というものもあるだろうし、教師の娘がこんな調子では、普通に考えても他の生徒に示しがつかない。


「ま、泳がなくてもいいから。行くだけ行っとけ」
泉水が立ち上がった。窓際に近寄り、がらりと戸を開ける。生ぬるい風とともに、またせっつくような蝉の鳴き声が耳をつんざく。
「今どき、こんなプールの宿題を出すなんて、ウチの学校くらいや」
蜜柑はげんなりしながら言った。
泉水は、あはは、と笑いながら、頑張れと言うと、もう一度蜜柑の頭をくしゃりと撫でた。




午後のプールは誰もいなかった。
父親の言うとおり、ノルマ達成者がほとんどなのだろう。まあ、蜜柑にしてみれば、これはこれで嬉しい限りである。自分の貧相な胸を晒す水着姿や下手な泳ぎを見られずに済むなら、それに越したことはない。授業だけでたくさんだ。

軽くシャワーを浴び、熱いコンクリートを踏みしめ、水際に近寄った。水面は、光が反射しきらきらとして綺麗だ。縁に腰をかけ足を投げ出すと、丁度足首のところまで水がきた。気持ちが良い。いくら水が苦手でも、これだけの暑さの中にいたら、単純に冷たいものが恋しくなる。

―――― 適当に遊んで帰ろう、

ばしゃん、と水の中へ体を入れた。
そのとき、入り口の扉が開いた。
とっさ的に振り返る。

「―――――― 、」

蜜柑の体が一瞬にして固まった。
なんでやー、という声なき叫びとともに。

こちらに近付いて来る男子生徒。それは、今、ここで会う確率を考えたとき、最も低い数値が出るであろう人物。

(本当に、なんで、棗が―――?)

棗 ――― 幼き頃からの腐れ縁的な存在かつ天敵。
顔を合わせればいつも憎まれ口をたたき、小学生の時は喧嘩ばかりしていた。だが中学へ入学してからは、殆ど言葉を交わしていない。3年間一度も同じクラスになったことはなかったし、何よりすべてにおいて秀でていた彼は、次第に貴公子的に扱われ、どんどん遠い存在へと変わっていった。
したがって、もともと特別な接点などひとつもない蜜柑とは、会話すらしなくなった。いや正確には、そういう機会がなくなった。それは散々いじられてきた蜜柑にとって、ありがたいことではあったのだが。

「・・やっぱりいたのか、ブス」
棗の呟きに、蜜柑の固まった体がヒクリと反応した。
――― ヤッパリイタノカ、ブス?
思わず水の中で握りこぶしを作った。棗はフェンスにタオルをかけ、こちらを見もせずにスタスタとシャワーの方へ歩いていく。
「い、いちゃ、悪いかー!」
どもりながら叫ぶように言い、背中を向けた。ああ、もうよりによって。けれどここに彼がいるということは、まだノルマをクリア出来ていないのだろうか。いや、とにかく、こんな近くに長居は無用だ。なるべく棗とは離れて泳ぎたい。きっと向こうだってそう思っている。
「おい、」
「なんや」
蜜柑は顔をしかめながら、振り返った。棗はシャワーで体を濡らしながら、蜜柑を見ていた。栓を止めると、こちらへ向かってくる。
(――――― 、)
その姿に、息を呑んだ。逆光を浴び、引き締まった体。ほど良く焼けた肌は、健康的で目が惹き付けられた。彼が濡れた長い前髪をかきあげると、整った顔が露わになった。

(棗って、こんなんだったっけ?)

「なに、見惚れてんだよ」
「・・、は?な、な――んにも、」
声が裏返った。イントネーションも変。棗が小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。
「相変わらずのバカだな」
「なんやて?」
棗は水の中へ体をいれた。こちらに近寄ってくる。
「ガキの頃と変ってねえのは、体だけじゃねえってわけだ」
棗の目線が胸元へ移動した。蜜柑は、はっとする。
「どこ見てんじゃ、このっ」
思いっきり、水をかけた。そして再び背中を向け、歩き出す。一体何だというのか。心も体も成長したはずなのに、ほぼ3年ぶりに交わした会話も雰囲気も小学生の時と変わりないまま。失望というか、残念というか、って、ウチは何を期待して、――― 
「おい、」
「来んといて」
蜜柑は懸命に水底を歩き、前へ進んだ。だが、すぐに追いつかれ、ぐいっと二の腕を掴まれる。
「なに、」
「泳ぎ、教えてやる」
蜜柑は目を剥いた。
「泳ぎって・・・、唐突に何言うてんのや。別に教えてもらわんでも、」
「おまえの親父に頼まれたんだよ」
「お父さん?・・なんで?」 まさか。
棗は、ふう、と息を吐く。
「知るか、んなこと。午前中にたまたま用事があってここに来てたら、頼まれたんだよ。ま、確かに、おまえ泳ぎ下手くそだからな。親心じゃねーの?」
「そんなこと、急に言われたかて、」
蜜柑は困惑した。泉水は何を考えているのか。それにどうして棗なのか。偶然にしても親心にしても、衝撃が大きすぎる。
確かに、・・・水泳部で数々の実績を残している棗に教えてもらえれば少しは上達するかもしれない。けれど、こんな下手な泳ぎを見られるなんて嫌だし、や、下手なのは知っているようだが、それでも、こんなこと。

大人びた棗。中学へ入ってからどんどん変っていった。対して今だに子供っぽくて成長していない自分。実はこの3年、ずっとずっと心の隅で気にかかってはいたけれど、あまりにも対極にいすぎて、もう別世界のひとだと思っていた。だから今、突如こんな展開になっても戸惑うだけだ。

棗はまっすぐに蜜柑を見ている。綺麗な目が、まるで心を探るように見ている。
―――― だめ、
ひどい動揺だけが広がっていく。心臓がバクバクと動いている。何故ここまで気持ちが揺らめくのか、自分でもわからない。
「ごめん、やっぱり、ええから」
掴まれていた二の腕に手を添え、振り払った。
「お父さんの言ったことは気にせんといて、」
底面を蹴るように、ぐいぐいと歩き出した。
「待てよ、」
「ホンマに放っといて、構わんで、」
逃げるように前へ進んだ。だがそのとき、踏みしめた足の裏が滑った。すぐさま前のめりになり、水面が一気に顔に近付いてくる。まずい。
声など発する暇などなかった。蜜柑、と棗が叫んだ刹那、口の中に大量の水が入り込んできた。体がどんどん沈んでいく。
(・・・・苦しい、)
水の中でむやみやたらに腕を振り回していると、お腹にぐっと、力を感じた。腕、――― 棗の腕が、抱き込むように回っている。そのまま抱えられるように、水面に顔を出した。
「う、」
ゲホゲホと、咳が飛び出す。
棗は蜜柑の体の向きを変えて彼の体にしがみつかせると、背中を何度か軽く叩いた。
「おいっ、大丈夫か?」
「だい、じょうぶや・・・離し、て、」
咳をしながら訴える。苦しくても、この体勢はさすがにまずいと認識してしまう。完全に棗に抱きついている。
「黙ってろ、喋るな」
「・・・だって、」
「黙ってろっつてんだろ」
「・・・・・・・・・・」

生ぬるい風がサァ、と吹き抜けた。水面に小さくさざ波がたち、ゆらゆらと揺れている。
蜜柑は、それをぼんやりと見ながら深呼吸を繰り返し、徐々に息を整えた。棗はゆっくり背中をさすってくれている。その手は、・・・とても優しい。

(何やっとるんやろ・・)

恥ずかしすぎて、話にならない。
気分は最低最悪だ。慌てて逃げ出して、こんな浅いプールで溺れそうになるとは。これでは棗に馬鹿にされても仕方がない。
棗の首に回していた両腕から力を抜いた。思っていた以上に、力が篭っていた。すると背中をさすっていた棗の手が止まる。
「・・・落ち着いたか?」
耳元で、棗の低い声が響く。
蜜柑はコクリ、と頷いた。
「・・ったく、おまえの馬鹿さ加減にはつくづく呆れる」
「・・・・・・・」
反論なんて出来ない。この場から、一刻も早くいなくなりたい。
「迷惑かけてごめん、・・もう、今日は、帰るから」
蜜柑は、傍から見たら抱き合っているようにしか見えない、この耐え難い体勢を解こうと棗の肩に手のひらを置いた。だがそのとき、棗の両腕にぐっと力が入る。
「・・っ、棗?」
驚く蜜柑を他所に、棗は蜜柑の頬に顔を寄せた。
「な、・・棗、あの、」
「もう・・・オレから、逃げるな」
「・・・・え?」
「ガキの頃から、おまえはずっとそうだった。そして今も、」
――― ・・・、逃げるって、
「いつもいつも、肝心なところでいなくなりやがって、」
「――――― 、」

木々のざわめきと共に、ふたたび風が吹いた。一枚の葉がひらりひらりと舞い降り、目の前の水面に落ちた。ごくわずかな波紋が生じる。
蜜柑の心中は、この波紋とは比べ物にならないほど、大きな輪が幾重にも広がっていった。思いかげない棗の言葉に、頭も感情もうまく働かない。

「おまえ、中学(ここ)に入ってから、ずっと避けてただろ」
「それは、ちゃう、」 思わず、反論が飛び出した。「アンタこそ、ウチのことなんて・・目もくれなかったやろ」
「・・・・・・・・・・・・」
棗は腕の力をといた。蜜柑と向き合うように、焦点を合わせる。
蜜柑の胸が、きゅっと締め付けられた。何故なら、
「なんて顔、・・・してんねん」
物憂げな瞳、口元は何かを耐えるように、きつく閉じられていて。こんな棗は、初めてだ。
「目もくれなかった・・じゃない。オレはずっと、おまえを見ていた」
蜜柑の目が大きく、開かれた。
「なに、言うて、」
「けどおまえは、一度だって目を合わせようともしなかった。この3年、ずっとオレを見ようとはしなかった」
「棗、・・・」
声が震えた。気持ちがついていかない。どうしていいかわからない。棗の言っていることが理解出来ないのではないけれど、こんなことが。 蜜柑はたまらなくなり、俯いた。
「ウチかて、・・別に好きでそうしていたわけや、ない。けどアンタは、ウチとは違いすぎて、どんどん遠くなっていって、・・・だから、もう、」
「・・・好きだ」
「―――――、」
――― 今、
ゆっくりと、顔をあげた。
「ガキの頃からずっと。そう言ったら、・・・信じるか?」
言葉を、失った。
代わりに、堰を切ったように涙があふれた。
「・・・泣くな」 
「だって、・・・・だって、」
信じられない。
「蜜柑」
棗のすんなりとした指先が、蜜柑の頬にそっとふれ、なぞるようにおりていく。長年、手放してきた大切なものを扱うかのように。
「傍にいろよ」

蜜柑の脳裏に幼い頃からの記憶が蘇り、走馬灯のように駆け巡っていく。いつもいつも、ちょっかいをかけてきていた。髪をひっぱられたり、スカートをめくられパンツの柄をバカにされたことは数え切れないし、些細なことで、からかわれたりすることもしばしばだった。あの頃は、それが嫌われているせいだと思って疑わなかった。
けれど、すべては好意の裏返しだった・・?
少しの悔しさが込み上げてきた。あれが、好きの意思表示だなんて、・・・あんまりだ。

「・・・ウチは、アンタなんか、嫌いや」
蜜柑は、幼稚園児さながらに目を潤ませながら、拗ねたように言った。
すると棗は、ふっと笑った。
「どうしたら、それを撤回できるんだ?」
蜜柑は、口を真一文字に結び、上目遣いをしながら棗を軽く睨んだ。
だが、心の隅でとどめてきた気持ちに嘘はつけず。力を抜くように、表情を緩めた。
「意地悪、・・・しないなら」

棗は、また小さく笑った。 そして、約束する、と囁くと、深い色を湛えた紅を和ませ、顔を近づけた。反射的に目を閉じると、唇にしんなりとした感触が重なった。それは、何度も何度も優しく交わり。まるで今まで抱えてきた秘めたる想いを、解放するかのように。





「おとーさん!」

家中に蜜柑の声が響き渡った。玄関で慌しく靴を脱ぐとバタバタと廊下を駆け抜け、ぜいぜいと息を切らしながらリビングに入っていく。
「おー、おかえり」
泉水はソファに座りながら、まったりとカキ氷を食べていた。前髪をゴムで結び、まるでそこいらにいる、やんちゃな小学生のような顔で、ニカっと微笑んだ。
「なんだ、そんなに慌てて」
「おとーさん、午前中、棗にあったん?」
いきなりの質問に、泉水は目をぱちくりさせる。
「棗?・・ああ、日向?まあ、会ったと言えば会ったな。それがなんだ?」
蜜柑は、火照った頬に両手をあて、泉水をじっと見つめた。
「泳ぎ、・・教えてくれるよう頼んだりした?」
「泳ぎ?いや、んなこと、頼んでないぞ」
泉水は大量のカキ氷がのったスプーンを口にいれた。
頼んでない?
蜜柑の眉根が寄った。どういうこと?
そんな蜜柑を見ながら泉水は、舌をぺろっと出し、緑色とまた笑って見せた。
「だってオレが職員室で仕事していたら、あいつコピーとりにちょこっと来ただけだし。話なんてしてないし」
「・・・・・・・・」
蜜柑は二の句が継げなかった。では、あの口実は、
「ん?あいつ、」
泉水の表情が、すっと曇った。
「午後のプールにいたのか?もしかして、泳ぎを教えるとか何とか理由つけて、」
「ちゃ、ちゃう、ちゃう、話をしただけや。そんなことにはなってへん」
蜜柑は、フルフルと懸命に頭を振った。

先ほどの棗の告白に、今だ動揺がおさまらず。持て余し気味の感情をぶつけるように、つい泉水に問い質してしまったが。危うく墓穴を掘るところだった。

蜜柑は、内心で長い長いため息をついた。
まだ、ドキドキがとまらない。






fin



Thank you !!


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