恋しくて


ひらひらと粉雪が降ってきた。
蜜柑は空を見上げる。手のひらをかざすと、それは感触すら残さずにふっと姿を消した。
あとに残された水滴に、厚い雲間から差し込む僅かな陽射しが反射し、かすかに光る。

3月にしては珍しいタイプの雪だと、蜜柑は思う。
春が近付くこの時期は、水分を多く含んだ湿った雪が降ることが多かった。髪や衣服に触れると、
すぐに濡れてしまうような重たい雪だ。

・・・優しい雪やなあ。

蜜柑の表情に、自然と笑みが零れた。
ひらりひらりと舞い降りて。
まるで待ちぼうけをくらっている自分を慰めるように。

両の手を口元へもっていき、息を吹きかけた。じんわりと温かさが滲む。
温度が下がらないようにすぐに手を丸めた。
そのとき、ふわりと首元にあたたかな感触。
ほぼ同時に、両腕がまわり、マフラーごと背後から抱きしめられる。

「待たせた・・」
穏やかな赤い眼。詫びるようにやや伏し目がちだ。
「お疲れ・・、ずいぶんとかかったみたいやな」
「ああ、グタグダと時間だけ食ってた。寒かっただろ」
「平気や」
「悪かった」
棗の両腕に一瞬力がこもり、離れていく。それに伴い蜜柑が、棗の方へ体を向ける。
「卒業した翌日に、たいへんや」
労わるような笑みを向けると棗は、少し肩をすくめ、蜜柑の手を取り歩き始める。


昨日、めでたく高校(ここ)を卒業し、もう表向きは何も関係がなくなったはずが。
棗は所属していたバスケ部の様子を見に、翌日にはまた在校生のように足を運んでいる。
3年生の引退後、残された部員たちをうまく纏められない現主将の相談を受け、元主将だった棗が足繁く通っていた。 終わる頃を見計らって待ち合わせをしたのだが、予想外に時間がかかってしまったようだ。

蜜柑は棗に手ひかれながら、ゆっくりと過ぎ行く校舎に目を向ける。
細かな雪の向こう側に見える校舎は、人気がないせいもあり、ひっそりとしていて淋しげに見える。
ふとある窓ガラスに目が止まった。そこは、つい昨日まで自分たちが学んでいた教室。そして棗と机を並べ過ごし、 恋におちた場所。もう、あそこへはいかない。

「どうした?」
校舎をじっと見たままの自分を不思議に思ったのか、棗が振り向きながら訊く。
「なんや、不思議な感じがして。もう、この学校へも教室へも行かないんやね・・」
「淋しいか?」
「ちょっと。アンタとの思い出がたくさんあるし、」
棗の足が止まった。
「まだ、・・終わりじゃねえだろ」
「え?」
棗は少し淋しそうに笑った。
「これからだって、色々と楽しめる」
「うん、・・・勿論や」
蜜柑は、その淋しげな棗の笑いが少々気になりつつも、心の中ではそういう意味じゃないのに、と呟く。
棗と過ごした高校での生活は、楽しくて夢のようだった。学生としてのふたりの時間はもう、来ない。それに対する寂しさなのだ。
勿論、これからはこれからで違う楽しみや幸せが待っているし、それを想像すると、また違った喜びで満たされる。

「で、結局どうすんだ?」
「ん?」
「家から通うのか?」
「ああ、・・まだ迷ってんねん」
蜜柑は、苦笑いをした。家から通うのかとは、4月から通い始める隣の市の大学へはどう通うのかということを訊かれている。自宅から 公共の交通機関を使うと、片道一時間半はかかる。そこで大学のある土地にアパートを借りるのか、迷っている最中だった。
「一人暮らしは魅力だけど、お金がかかるやろ。かと言って自宅からだと、往復で3時間や。どっちもどっちやなあ、・・迷う」
「あんまり、」
「・・・え?」
「遠くに行くな」
繋いでいた手が引かれた。棗の空いているほうの腕が、蜜柑の背中をやんわりと抱き寄せる。
「・・・・棗?」
蜜柑は上目遣いをするように顔を上げた。
棗は、少し笑っていた。けれどどこか真顔で。
「どないしたん・・?ウチ、遠くになんか、」
言葉を繋げなかった。棗の唇が、それを塞いだから。
冷たくて、・・しなやかな唇。
重なり合った手のひらに力を入れると、それはそっと離れていく。
「・・・ここ、学校の前なんやけど・・、急に・・・・」
戸惑うように言った。棗の表情からは、笑いが消え、また淋しげな色が浮かんでいる。
・・・どうして。今、こんな顔を、
蜜柑は、不思議な感覚をおぼえた。さっきといい、今といい。何故、今更。大学を受験する時、彼自身が通うこの市内の大学とは所詮隣同士だから、たいしたことはないと言っていたはず。
「・・・・行くぞ」
棗はふたたび歩き出した。見慣れた背中にふれた雪が、一瞬で姿を消していく。
訳がわからない。どうしてこんなことを言うのか、あんな顔をするのか、訊かなくちゃと思うのに何故だか言葉にならない。
それよりも、この雰囲気を変えたい、という思いの方が強くなっていって。
「何なん、もう・・!それより春休み、たくさん、遊ぼうな!」
そう突然叫ぶように言うと、棗はくるっと振り返った。いつものいらずらっこのような顔に変わっている。
「そう言えば、卒業したら記念にあのサイクロンに乗るって言ってたな」
「え?!」
ギクリとした。サイクロン、市内にある遊園地の中にある絶叫マシーンのことだ。蜜柑の最も苦手としている乗り物で、その遊園地内で唯一乗っていないものだ。
「そ、そんなこと言うてへん!」
「言った」
「言うてへんって、それより映画観にいきたい!買い物にも行きたい!」
「順番な」
「順番って、もう、絶対あれには乗らへんからな」

いつものじゃれあうような会話。それからは春休みの予定のことで夢中になっていった。大学が始まるまでの間、ほぼカレンダーを埋め尽くしてしまうほどの約束をいれた。親には内緒ということで、ちょっとした一泊旅行まで計画した。考えると楽しみで仕方がなかった。終始しまりのない顔をしていたことはわかっていて。棗は、そんな姿を見て、珍しくずっと笑っていた。
とても幸せそうに。
だからあの時、なぜあんなに淋しそうにしていたかなんて、殆ど気にかけることはなかった。





どうして、気がつかなかったのだろう。
どうして。

学校へ続く道。 彼に似た後姿を見つけては、追いかけ。ひどい悲しみに打ちひしがれる。
何度も、何度も。

おぼつかない足取りで校門の前に立ち、灰色の校舎を見上げた。
潤んだ眼差しの向こう側の景色は、もはや滲みすぎて形すらない。
どうして。
・・・・棗

やっぱり、残酷で、嘘のようだよ・・。

あのたくさんの約束を交わした、数日後。
彼は、まるで粉雪がとけるように、儚く逝ってしまった。
いつものように部の様子を見にいった帰り道。ボールを追いかけ車道に飛び出した子供をかばって。

『遠くに行くな』

馬鹿・・や。
アンタが遠くに行って、・・どうすんねん。

『これからだって、色々と楽しめる』

そうや・・。
たくさん、色んなところに行くって、・・約束したやろ。
遊園地だって、映画だって、旅行だって、 なのに、どうして。

突然あんなに淋しげにして。あんなこと言うて。
何か、予感でもしていたん?
不自然に感じて、あの会話を避けた自分。
何も気がつこうとしなかった。
大丈夫や、どこにも行かへんって、
・・なんで言えなかったんやろ。


いつの間にか、さらさらとした雪が降っていた。
まるで慰めるように、静かに優しく。

どうしたら、ええ?
涙が・・・止まらない。

棗。

・・・・逢いたい。






fin





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