聖バレンティヌスの意地悪


自室の前。
ダイニングルーム。
下足入れ。
そして、
教室の机の上・・。

甘ったるい匂い。思わず眉間に皴を寄せる。大きなため息が吐き出された。
これをどうしろと?
考えたくなかった。傍で「さすが棗さんっすねえ」なんて至極真面目に羨ましがっている奴がいたので、「全部持ってけ」と呟き、箱ごと押し付ける。

どこへ行っても必ず置いてある、ダンボールに入ったチョコレートの山。毎年のことながら、うんざりする。ローマで殉教したテルニーの主教聖バレンティヌスの記念日。異教の祭りと結びついて女が男に愛を告白する日とされるようになった日。そこまではいい。
だが、この極東の島国で何故ここまで盛大になるのか。製菓業界の策略にまんまとのせられ、想いを告げるチャンスを与えられた女たちは、この日のために身も心も注ぎ必死となる。心情が理解できないわけではないが、過剰なほどのアプローチは、冷めた感覚以外何も生まなかった。恋人がいるという事実を知ってもなお攻勢の手を緩めない 女たちの実態にはある意味、感服という言葉が似合っているのかもしれない。

今日が早く終わればいい。
硬い椅子に背中を押し付けながら、がらんとした教室内を見渡す。
けれどこの場所も安全ではない。外では自身の名を呼ぶ声が、ひっきりなしに聞こえてくる。
灯台元暮らしを読んで、案外と順調にここへ辿り着いたが、見つかるのも時間の問題だろう。
早めに隠れるか。
天井を見上げる。誰も知らない、唯一の隠れ家。

身軽な動作で天井裏へと移動した。天板を閉める刹那、傾いだ首にかかったネックレスが襟の隙間から顔を出した。暗がりで薄っすら光る、蜜柑の石。
そう言えば朝の食事以降、あいつの姿を見ていない。今日は忙しいから一緒に登校出来ないと昨夜話していたから、言わずと知れた面々にチョコレートを配りに行っているのだろう。
それにしても、いつもは朝一番で届けられているセンスのかけらもないチョコが、今年は珍しく後回しのようだ。特段、楽しみにしていたわけではないが、毎年恒例となっていたせいで、何となく引っ掛かった。シャツを小さく摘まれるような、そんな引っ掛かり。

まあ、でも時機を見て、どこかで渡されるのだろう。
あの溢れんばかりの笑顔と、

『ルカぴょん、こっちこっち』

「・・・・・、」
突如耳に入った、聞きなれた声。
・・・蜜柑?・・・ルカ?

『なんや、ここって穴場なんやな』
『・・・本当だ。漸く一息出来るよ』
蜜柑がケラケラ笑っている。
『ルカぴょん、ホンマに大変そうやったね。あの高等部のおねーさんの数。すごかった』
『佐倉が見つけてくれなかったら、埋もれて大変なことになってたかも。でも、巻き添えにしちゃってごめんね。佐倉は関係ないのに』
『ええんよ、別に。それに丁度よかったんよ。ルカぴょんにチョコ渡したかったし』
ガサガサと音が聞こえる。
『はい、これ。毎年代わり映えせえへんけど、幸せエッセンス倍増にしておいたから』
『・・ありがとう。いいの?』
『ええに決まってるやないの。何や昔もこんなシーンあったな』
『そうだね』 笑っているような雰囲気。『懐かしい』
『あの時と同じ、久しぶりにルカぴょんが一番や』
『一番って、・・棗には?』
『あ、棗?棗にはあげへんよ。あいつチョコ渡すとむっちゃ嫌な顔すんねん』
『え、でも、』
『ルカぴょんみたいにな、嬉しそうな顔してくれるんやったら、ええんやけど。渡しがいがない奴やねん』 嫌そうに言った。
『佐倉、』
その時、バタバタと大きな音がした。複数の人間が、廊下を駆けているような音。
『ル、ルカぴょん、まずい。やっぱり落ち着かへんな』
『ごめん、佐倉、俺行くから』
気配が忙しなくなる。次に聞こえたのは、窓を開ける音。
『待って、・・ウチも、一緒に、』
廊下側の扉が開く。
『あ、ルカ君、見っけ・・って、またその子と一緒?なんなのよ、もう』
『グズグズしてるとまた見失うわよ。先回りして、進路を阻まなきゃ、』
扉が閉まった。大きな反響音。

「・・・・・・・・」

再び訪れた、静寂。
もう下からは何も聞こえない。

天板をずらした。
まだ身を潜めて数分しか経っていないというのに、再び教室へと降り立つ。
「・・・・・・・」
・・・・相変わらず、そそっかしい。
床から、綺麗にラッピングされたチョコレートを拾い上げる。
窓際までの順路を追えば、もう二つ落ちていた。これでは予定していた全員に配るには、足りなくなるだろう。

わざわざ、ルカと行かなくたって、

―――― 棗にはあげへんよ

机の上に拾ったチョコを無造作に置いた。そのまま縁(へり)に身を押し付け、腕を組み、窓の外を見つめる。

―――― あいつチョコ渡すとむっちゃ嫌な顔すんねん

悪かったな、嬉しそうじゃなくて。
もともとたいして愛想がいいわけじゃねえよ。

遠くで聞こえる、女の声。必死で駆ける誰かの足音。ターゲットを追跡した、実況放送。
どれもこれも、・・・
靴音が鼓膜を震わした。それが自分のものだと気が付くまでにそう時間はかからなかった。

くだらない・・、本当に。

奥歯を軽く噛み、ノブに手をかけた。

机の上に残されたチョコレートの一つが、カサリと床に落ちた。




何だ、・・・これは。
自室の扉前の有様に、思わず片手で額を覆った。これでは中へ入れない。
そこかしこに置かれたチョコ入りのダンボールは、全部で10個以上にものぼった。誰かがご丁寧に運んで下さったようだ。

何とかドアを開け、それを部屋の中へ押し込んだ。隅に追いやるように引きずると、ガサガサと山が崩れ、いくつかのチョコが床にこぼれ落ちた。眉の片方を吊り上げながらしゃがみ込み、箱の中へ押し込む。

惨状に辟易しながらも、やっと終わったと安堵感が込み上げる。いつのまにか学園行事と化している、このイベント。これさえ終わってくれれば、あとは、
・・・終わる。
今年はこのまま終わるのか。
あの不細工なチョコを見ることもなく。
ふっと、笑いが込み上げた。らしくない問いかけが自分自身を嘲笑う。

胸のつかえがとれない。
けれどその理由(わけ)に対して、素直になれない。確かに自分は毎年、嬉しそうな顔などしていなかっただろう。あいつが精一杯作ったものに対して、とる態度ではなかった。
けれど、それがすべてではない。表情や態度の中に隠された想い。それをあいつは知らないだけなのだ。

・・・どこまで、甘える気だ?

自らに問いかけながら、山積みになったチョコからひとつ手にとった。紺碧の包装紙を纏った姿は、自身をイメージしたものか。
――― たかがチョコごときで、何故ここまで。
最も嫌悪してきたバレンタイン。こんなものは日本中いや、せめて学園内だけでも無くなればいいと、心底思ってきた。
だがイベント終了に際して安堵を感じながらも同居している想いは、不覚にもそれと相反するようなものだった。身勝手もいいところだ。

・・・蜜柑。


「何や?」

「、」

振り返る。
蜜柑がドアの前に立ち、不思議そうに瞬きを繰り返している。
「どないしたん?そんな独り言みたいにウチの名前呼んで、」
「おま・・、」
顔を戻す。
いつの間に。
箱を移動したまま、扉を開け放しにしていたせいで気が付かなかったか。
「もしかして今日殆ど、ウチに逢われへんかったから、淋しくてつい呼んでしもうた、なんてな」
笑いながら、近付いてくる。
「・・・・・・・・」
返事が出来なかった。これでは図星と悟られてしまう。するとやはり蜜柑は、
「え、まさか、ホンマにそうなん?」と驚いている。
否定しなくては、・・そう心のどこかで思うも、なかなか言葉が出てこない。
せめて態度で示そうと、すばやく立ち上がり、再び彼女の方を振り返った。
だが、目に飛び込んできた有る物を前に、何もかもが一瞬にして霧散していく。
「・・・なんだ?」
思わず出た言葉。
目の前に差し出されたプレート。ホール状のチーズケーキ。飾りにイチゴの花が咲いている。そのケーキと蜜柑の顔を交互に見やる。
「決まってるやないの、バレンタインや」 満面の笑み。
「バレンタインって、」
「作ったのが朝方やったから、一番に届けられへんかったんよ。ごめんな」
「・・・・・・・・、」
「今年はな、チョコは止めにしよう思うてて。どうせなら棗の喜ぶ顔見たいし。で、考え抜いた末に作ったのがこのチーズケーキや。これなら、アンタ大丈夫やろ?」
「・・・・・・・・」
またもや言葉が出てこない。まるで一時的に声帯機能を失ったかのようだ。蜜柑の顔をただ、ひたすら見つめる。

・・・どのくらい。
考えていたのか。
どのくらい悩み、これを作ったのか。
睡眠もとらずに、ただひたすら、

「・・棗?」 蜜柑が少し不安そうに名を呼んだ。「・・・気にいらんかった?」
「・・・・・・・」
その問いに俯き加減で、少し微笑んだ。

気に入らねえなんて、そんなの、

「棗?」
「・・・だよ」
「・・・え?」
まっすぐに蜜柑を見つめた。
「遅せえんだよ、バカ」
「――――、なつめ、」 驚いている。「待ってて、くれてたん?」
指先を蜜柑の首筋に滑らす。
返事の代わりにそのまま引き寄せ、唇を塞ぐ。

・・・・蜜柑。

胸の内で何度も名を呼び、 想いを伝える。
漏れ出す吐息の合間にその唇をわずかに離し、揺らぐ瞳で見つめ合う。

「・・・つめ」 甘い声。
「・・・・・」
「・・・好、き・・」

濡れた口唇が、愛おしげに言葉を紡ぎ。
その告白にすべてが酔いしれていく。
――― たかが、バレンタインごときで・・。

その心中の呟きは、再び交わされた口付けの中へと消えていった。





fin



棗クン、どんなに嫌いなイベントでも、やっぱり蜜柑からは欲しいよね(笑)
可哀想な意地悪をしてしまいました(ごめん)
でもまあ最後はご馳走さま〜って、筆者自らお腹いっぱいv


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