見つめあって絡みあって / 前編


その彼の顔を見たとき、
自分の中のすべてのものが、機能しなくなりそうだった。


「・・・・蜜柑、」

お願い。
こんな状態の時に、その声で名前なんか呼ばないで。

棗の手が伸ばす。
それは、額へ優しく触れた。

やめて。

「熱は、ないようだな」

早く離れて。
見つめないで。
おかしくなりそうや。

「なんでそんなに顔赤くしてんだよ」

なんでって、

おでこに触れていた手が、今度はツインテールの先を掬う。

「そういえばおまえ、いつになったら髪下ろすんだ」

だからもう、
そんな顔で、あの時のことなんか言わんといて。

「蜜柑?」
「・・・・まだ、3年しか経ってへん」 やっと出てきた言葉。
すると彼は、顔をすっと近づけ、囁くように言った。
「・・・・待てないって、言ったら」
心臓が止まりそうだ。

彼が結び目に手をかけようとする。
だが潜在的な防御反応なのか、首をすくめ、体がそれをうまくかわした。
「い、今は、そんなことしてる場合じゃないやろ」 喉奥から、無理やり声を出す。「アンタ、風邪ひいたら大変や。また何かあったら、心配で身がもたんわ。ウチ、先生からタオル借りてくるから、教室で待っといて」
そう早口でまくし立てると、顔を逸らすと同時に背を向け、足早に立ち去る。
去り際、彼は拗ねたような顔でこちらを見ていた。
だがそんなことに、構ってなどいられない。
彼の前にあれ以上いたら、本格的に感情をコントロール出来なくなりそうだった。
それは今後の彼との付き合いにも、大きく影響する。

なんなん、もう。今更。
付き合って、一年も経ってるいうのに。
あんな棗、初めてや。



それは、ほんの数分前の出来事だ。

登校時間中、突如、激しい雨が降り出した。
遅刻ギリギリで校舎の入り口にたどり着いた蜜柑は、どうにかその難を逃れ、軽くついた水滴をハンカチで拭いていた。周りを見渡せば、差し迫った時間のせいで、生徒はひとりもいなかった。
急いで教室へ向かうべく、一歩足を踏み出そうをしたとき、雨音に混じって、軽い靴音が聞こえた。
その音にいざなわれるように目を動かすと、見慣れた人物がこちらに向かって走ってくる。
「なつめ、」
彼はこちらを一瞥すると、駆け込むように、中へと入ってきた。
見れば全身が見事に濡れている。制服は辛うじて、上着を脱げばなんとかなりそうだが。
「・・・・つめてえ」
「ああもう、そんなになって、」
蜜柑がハンカチを持って近づくと、彼は頭を軽く振り、髪についた水滴を落とした。そして、濡れた前髪をかきあげながら、少女の方へ顔を向けた。

その顔を見た瞬間、心臓がドクンと大きく鳴った。

急速に全身の血が騒ぎ出す。
それは皮膚の表面温度を一瞬にして、上げていった。

・・・・なに、・・?

しっとりと雨を含んだ黒髪。
かきあげた前髪から見つめる赤い瞳。
頬に滴る、わずかな雫。

そのひとつひとつが艶やかで、尋常じゃない色気を放っていた。
思わず言葉を失った。
鼓動が激しく脈打ち、その音だけが聞こえてくる。
瞬きをするのを忘れ、すべてが捉われていく。

毎日のように顔を合わせ、同じ時を過ごしてきたというのに。
こんなことは、一度たりともなかった。
初めてのシチュエーション。彼の未知の部分が、顔を出したのだ。

蜜柑の火照った顔を凝視しながら、彼は怪訝そうにしていた。
だから熱でもあるのかと思ったのだろう。躊躇なく腕を伸ばしてきたのだ。
あの時は本当に、どうにかなってしまうのではないかと思うほど、放心していた。
振り切れてよかったと心底思ってしまう。

また、髪を下ろせと言われ、Z事件の夜に、湖で水のかけあいをしたことが頭を過ぎった。
あの時も彼は、水気を吸った髪を厭わず、静かな目で同じことを言った。その雰囲気は、似ている。似ているが、今回は以前の比ではない。
何もかも大きく成長した彼は、全く別の種類の色を纏っていた。それは戸惑いを通り越すほどに。
だが、今すぐに気持ちを切り替えなくてはならない。このあと教室で顔を合わせる。
これから彼に会うたびに、先ほどのことを思い出し、感情をかき乱されてはたまらない。




「蜜柑、顔どうしたのよ」
「へ?」
呆けた顔で、蛍を見る。
彼女は、前の席に座り、体をこちら側に向けていた。
「朝から、ずっと赤いわよ」 疑わしい眼をしている。「まさか棗くんとふたりで、遅れて来たことと関係があるなんてことはないわよね」 不穏な気配だ。
「ちゃ、ちゃうに決まってるやろ。なに、変な想像してんねん」
熱を持った頬に触りながら、慌てて否定するが、蛍はまだ懐疑的な表情のままだ。
想像力が豊かなのはいいが、今回ばかりはその路線から外れている。
「あの人、色々と手が早そうだし。もしかしたら、って思ったんだけど」
それは否定しない。手が早いのは事実だ。だが今は、そんなのよりもっとタチが悪い病に冒されている。タオルを渡したときも、数時間たった今も、まともに棗の顔を見られやしない。いや、なるべく見ないようにしている。彼には悟られないように、目線を曖昧にしているのだ。幸い席も、蜜柑が振り返らなければ彼を見ることは出来ない位置にあり、不自然さを隠すには丁度よかった。

「水もしたたる、いいオトコ」

蛍が、ポツリを言う。
その言葉に、蜜柑がギクリとする。あの棗の顔がフラッシュバックした。
こめかみに汗が滲む。
「変な反応ね」 訝しそうだ。
「蛍が、変なこと言うからやろ」
「変って、アンタは少し遅れてきたから知らないけど、棗くんが教室に入ってきたときの女の子たちの密かな騒ぎようったら、」 嫌そうな顔をする。
「騒ぎ?何の?」
「濡れ姿で現れたから、いつもと違う雰囲気に見えたんじゃない。パーマなんか、大騒ぎしていたわよ」
「へえ・・・」
蜜柑は、目を瞬く。なんだ、そういうものなのか、と少し安心する。他の子も普段と違う棗に、ときめいていたのだ。自分の反応が、異質なわけじゃない。
いや、でも、あの表情を見たのは、自分だけだ。やはり皆が感じているのとは、ケタが違う。
思い出すだけでも、また心拍数が上がってくる。
「因みに誤解しないように言っておくけど、水も滴るいい男は、まんまの解釈じゃないから。魅力に溢れてるって意味。まあ、どうでもいいけど」 本当にどうでもいいように言っている。
棗の場合、そのままの解釈でも、正確な意味合いでも、どちらでも当てはまっていると思うのは、惚気だろうか。
「アンタもその訳わかんないのに、あてられたんじゃないの」 横目で見ている。
なかなかするどい。驚きが顔に出てしまいそうだ。
「にしても、やっぱり」 後方に目をやる。「本人も雨にやられたのかしら」
「は?やられたって、」
蜜柑のその反応に、蛍が少し不思議そうな顔をする。
「棗くん、いないようだけど」
「ええ?」 言いながら、すぐに後ろを振り返る。
ルカの隣、棗の姿はない。
「いつから?」
「さあ。でも4時間目ぐらいにはいなかったと思うけど。アンタ、全く気が付いてなかったの?」
「・・・・・・・・・・」
今は昼休みだから、もう約二時間は経っている。
急いで立ち上がった。
ルカの席へと、向かう。
――― なんで、
「ルカぴょん、」
彼は名を呼ばれると、すぐにこちらを見た。
「あのな、」
「棗のこと?」
彼は、蜜柑より早く質問内容を口にした。まるで、待っていたかのように。
「うん、どないしたん?」
心配そうに聞くと、恋人の親友は、思い惑うような表情をした。
「・・・・・・・・・・」
「ルカぴょん?」
彼は一呼吸置くと、いつものやわらかい笑みを浮かべた。
「・・・・やっぱり佐倉には、本当のこと話すべきだよね」
「え?」
「棗には言わなくていいって、口止めされてたから、言おうか、黙ってるか、すごく迷っていたとこなんだけど」 申し訳なさそうに言う。
「何が、・・・あったん?」 
「2時間目の終わり頃なんだけど、オレがちょっと腕を動かした時に、偶然棗の手に触れたんだ。
そしたら、すごく熱くて、」
「熱、出たんか?」
ルカが、ひとつ頷く。
「軽く咳もしていたから、帰った方がいいってすすめて。3時間目ぐらいには早退したんだ」
「そんな風になってたなんて。・・・・ウチ、何も、」 落ち込んだ顔をする。
「心配、かけたくなかったんじゃないかな」 気遣うように言う。
「ルカぴょん・・・」
「ただの風邪だろうから、大袈裟にするなって、佐倉に聞かれても、適当に別の理由言っておいてくれって、でも、・・・無理だよね。ごめんね、佐倉、やっぱりもっと早く言うべきだったね」
蜜柑が力なくかぶりをふる。
「ウチも全然、気付こうとせんかった。あの雨のせいで、こういうことになるかもしれへんことぐらい、考えるべきやった」
「佐倉・・、」

そう、考えるべきだった。
なのに。
そんなこととは全く別のことで、気持ちが浮ついていた。
今朝のあのことで頭がいっぱいで、もっとも気にすべき肝心なことを想定するに至らなかった。
そればかりか意識的に後ろを振り返らずにいたせいで、彼の変化に気が付くことさえ出来なかった。
情けない。何をやっているのだろう。
それに引き換え、棗は自分を気遣っていた。心配で身が持たないと言ってしまったことがひどく悔やまれる。



授業が終わったあと、急いで寮へ帰った。
一目散に、棗の部屋へと向う。

熱はどうなっただろうか。
何度も倒れている体には、かなりの負荷がかかるだろう。
授業など身にならないほど、彼の状態が気にかかった。
寝ているかもしれないが、せめてどんな様子か確かめたい。

だが、静かに開けたドアの向こう側に彼の姿はなかった。
ベッドは整ったままだ。

「・・・・・・・・・・」
・・・・・なつめ?

嫌な感じがした。

――――― まさか。


踵を返し、廊下を駆け出す。
向かう先は、病院。
この払拭してもしきれない不安は、なんなのだろう。
怖い。

まさか、あんな雨くらいで。

『・・・すごく熱くて、軽く咳も・・』

漸く病院に辿り着き、受付で病棟を尋ねる。

皮肉な展開だ。
そういう予感ほど的中率が高いと相場は決まっている。

確かに彼は、ここにいた。
そして、言われた。
今は逢えないと。

信じられなかった。
朝は、人をあんなに動揺させたくせに。
あれは本当に棗だったのだろうか。

だからこそ、確かめにきた。
何かの間違いかもしれないと、心の中で何度も繰り返しながら。

息を切らし、「日向 棗」と書かれたプレートがある部屋の前に、立ち尽くす。

そして目に飛び込んできたのは、やはり


『面会謝絶』


メンカイシャゼツ。


――― 棗、アンタは良くも悪くもそうやって、ウチを捉えてしまうんやね。


指でその文字にふれる。

・・・・・涙がひとつこぼれ落ちた。



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