彼の特別になりたくて / stage 5


夕陽が差し込み、静寂な空気があたりに漂う。
本来この場所は、生徒の活気に満ち溢れ、賑やかな声が飛び交うところだ。
だが今聞こえるのは、時折紙の上をペンが動いていく微かな音だけだ。

あと10分で、5時になる。
蜜柑は焦りを感じながら、最後のプリントを懸命にこなしていた。

昨晩の睡眠不足のせいで、授業中に度々睡魔が襲ってきた。
そしてあろう事か、神野の授業で居眠りをするという失態をおかし、放課後に居残りをさせられている始末だ。「地獄の居残りプリント」、そう名づけられた、この途方もない量のプリントは、学校内でも有名になるほどの過酷な仕置きだった。 新入生である蜜柑は、そのことを初めて知ったのだ。
こんな血も涙もない措置が待っているのなら、血眼になって授業を受けていたのにと後悔するが、後の祭りだった。

漸く最後の問題を解き終え、ペンを投げやりに転がす。
そして大きく伸びをしながら、再度時刻を確認すると、丁度5時になっていた。
急いで帰り支度を始める。そして携帯を取り出し、棗に15分ほど遅れるとメールを送った。ここからどんなに急いでも、駅までは10分以上はかかる。
忙しなく立ち上がり、出来上がったプリントを教卓の上に置いていると、すぐに返事が返ってきた。
「ゆっくり来い。待ってる―――」 と、ただそれだけの内容だったが、最初のゆっくりの部分に彼なりの優しさが含まれていることを、蜜柑は理解していた。
そそっかしい彼女を見越しているのだ。
こんなに気まずいというのに。・・・棗らしいと思うのだ。

だがこの少しの遅れが、後々の状況を狂わすことになるとは、今の蜜柑には知る由もなかった。



息を弾ませながら、待ち合わせの駅に近づくと、すぐに棗の姿が見えた。彼は出入り口横の壁に寄りかかっていた。徐々に近づいていくと、それに気がつくように顔をこちら側に向けた。かすかに安堵したようにも見えたが、表情は今朝同様やや不機嫌そうな感じだ。

「遅れて・・・、ゴメン」 一応、小さく謝る。
「別に、」 目を逸らす。
「・・・・・」
「・・・居残りでもさせられてたか」
「え、なんで、」
思わず、驚きの声を出す。
すると棗は、ふっと鼻で笑った。
「・・・相変わらずだな」 壁から背を離す。「来ないかと、思ってた」
「・・・・・」
何も言えずにいると、棗は蜜柑に一瞬視線を送り、駅の中へと入っていく。
蜜柑もその後を、緩慢な動きで付いていった。

彼は朝と同じように券売機の方へ向かった。蜜柑の切符を買うためだ。
彼女自身も野乃子に少しのお金を借りてはいたが、声をかけるのをつい躊躇ってしまった。

・・・来ないかと、思ってた

そう呟くように言った彼は、やはりいつもの彼ではない。
いつだって自分に自信があり、それが言葉や態度の端々に出るくらいなのだ。
それが、影を潜めている。
夕べのことに納得がいかないせいか。
それは確かだと、蜜柑は思う。
幼馴染の理解しがたい態度、その理由を突き止めたいのだろう。
いきなりあんな態度をとられたら、誰だってそうなる。
・・・ただ。それだけではない何かを感じるのだ。
やはり彼女とのことを話そうとしているからか。
しかし、蜜柑があの現場を見ていたことを彼は知らない。そして、例え彼女と何かがあるとしても、それを蜜柑に話す必要などないのだ。
ふたりの関係は、特別ではない。互いにどう過ごそうが、干渉の域ではないのだ。

棗が切符を買い終え、蜜柑に手渡す。
構内では、列車の到着案内のアナウンスが流れていた。 それを聞きながら、ふたりが改札の方に歩きだそうとした時だった。

「棗くんっ・・」

突如、後方から勢いづいた人の気配と彼を呼ぶ声が聞こえた。
思わず振り返る。
すると、先ほど入ってきた出入り口に少女が立っていた。
呼吸がひどく荒い。

―――― あの、人

「・・おまえ、」
棗の声につられ、今度は彼の方に顔を向ける。すると、少し驚いたように彼女を見ていた。
「突然いなくなったから、もしかしてと思って、・・・ここに、来てみたの、」
先ほどより息が苦しそうだ。胸に手をあてている。
「やっぱり、あおいちゃんが・・・・言ったとおりなんだ・・・」

あおいちゃん・・?

「妹が、何を言ったんだ」 低く、静かに問いかける。
だがその問いに答える間もなく、彼女の体がガクリと崩れ落ちていく。
「おい、」
棗が蜜柑の隣をすり抜ける。微々たる風圧を感じたとき、彼の横顔が目に入った。
あの時と同じだ。
「大丈夫か、」
棗が彼女の体に腕を回し、支える。彼女も縋り付くように、彼の体に手を回した。
「ゆっくり、呼吸しろ」
彼女が頷いた。そして彼に何かを言っている。
「・・・・・」
棗は無言で背中をさすっていた。だが、もう一度彼女が言葉を発すると、それには答えを返した。
「わかった・・・」

駅内に入ってきた客らが、彼らを一瞥していく。
蜜柑は呆然と立ち尽くし、その出来事をドラマか何かのワンシーンのように見ていた。
自分とは関わりがないことのように。

・・・・何が、起きているというのだろう。

「蜜柑」
「え?」
棗の背中に、反射的に返事をする。
「・・・・・」
彼は惑っていた。だが一呼吸置くと、何かを断ち切るように、こちらを振り向いた。
「・・・悪い。今日は、先に帰ってくれないか?」 瞳が、苦しげに揺れている。
「な、つめ・・?」
「あとで、必ず連絡する」
「・・・・・・・」

なに・・?

電車のブレーキ音が、あたりに響きわたる。



あれから家まで、どう帰ったかなんて憶えていなかった。
ただ微かに聞こえたあの彼女の言葉だけが、いつまでも心の中に悲しく響き渡っていた。


“ お願い・・・行かないで・・・・”



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