彼の特別になりたくて / stage 4


洗った顔をタオルで拭きながら、鏡にうつる自分の顔を見たとき、蜜柑は酷く落胆した。
夕べは殆ど眠れなかった。おかげで瞼は腫れ、目の下にはクマが出来ている。
「・・・・・・」
棗は、さぞかし不可解だったろうと思う。
久しぶりに逢ったというのに、会話はおろか態度までおかしい自分に、釈然としない想いを抱いているに違いない。
そして極めつけが、あの最後の言葉だ。

『・・・アンタは、ウチの彼氏でもなんでも・・・・』

あんなこと、いうつもりなどなかった。今更ながらに後悔している。
まだ彼女がどういう存在かもわからないのに、自分の中で勝手にあれこれ考えを巡らせ、行き場を失くしてしまっていた。 これからも彼に会うたび、あんな風に心にもない言葉を投げつけてしまうのだろうか。
「・・・・・・・」
鏡に映る自分の顔は、やっぱりどこか醜くて、嫌気がさす。
思わず目を外した。

――― やっぱり、聞いてしまいなよ。
心の中でまた、もうひとりの蜜柑が諭すように言う。

もっと器用になれたらいいのに。
今の自分は、右にも左にも転がることが出来そうになかった。

「今日は、ずいぶんとのんびりなんじゃない?」

背後から声がし、はっとすれば、鏡に母親が映っている。
「時間、大丈夫なの?」
すぐに、洗面台の棚に置いてある時計に目を走らせる。
家を出なくてはならない時刻が迫っていた。
「う、わ、」
慌てて、室内から飛び出す。廊下に出た時、足が床にとられ、転びそうになった。
「相変わらずそそっかしいわね。気をつけなさいよ」
母親が呆れたように言う。
わかっとる、という蜜柑の声が、別の部屋に吸い込まれていった。



自宅から全力で走り、最寄の駅に着いた時には、いつも利用する電車の到着時刻が迫っていた。
どうにか間に合いそうだとホッとしながら、鞄から定期を取り出す。
「・・・・・」
だが、いつもの場所に手をいれても、そこには何の感触も伝わってこなかった。
思わずその場所に目を移す。
やはり空だった。
そこでふと、昨日のことを思い出す。教科書の入れ替えをしていたとき、バランス悪く置いてしまったせいか、 滑るように鞄が落下していった。そのせいで中身が全部飛び出してしまったのだ。
あの時しか考えられない。・・・ということは。
ファスナーを開け、財布を確認する。・・・・・やはり入っていない。
グラリと視界が歪む。
財布まで落ちんなよ、と心の中で毒づきながら、一気に脱力感にみまわれる。
何故、昨日気付かなかったのだろう。
きっとあの出来事で動揺していたせいだ。
これは、・・・一度家に戻るしかない。
肩を落としながら、嫌々、踵を返した。
すると、何かに頭がぶつかった。
直ぐに顎ごと上目遣いする。
驚いて、体が固まった。

「・・・棗、」



車内の込みようは、半端じゃなかった。
否が応でも、客同士の体が密着し、どうにも動けない状態だった。
彼らは扉付近に立っていた。蜜柑は座席の側面に身を縮めながら寄りかかり、棗がその隣に立っている。当然のことながら、呼吸が聞こえるほどの至近距離に彼の顔があり、体も一部触れている。心拍数が上がりつつあるのは、気のせいではない。

振り返ったとき、彼はやや不機嫌そうにこちらを見ていた。
だが無言で券売機の方へ行くと、すばやく切符を買い、蜜柑に差し出した。
彼女に起きていた一連の出来事を見ていたのだろう。
昨日のこともあり、かなり抵抗感はあったが、ここで断りでもしたら何か本気で取り返しがつかなくなりそうな気がして、か細い声で御礼をいい、それを素直に受け取った。
高校へ進んでから、一度たりとも同じ電車に乗り合わせたことなどなかったというのに。
今日は、偶然か・・それとも。

蜜柑は、ちらりと棗の顔を見る。
私服の彼は、中学のときより雰囲気が大人びて見えた。顔つきまで幼さが抜けている気がする。
ピアスをしているせいか、年齢を聞かれなければ、大学生ぐらいにみえなくもない。
思えば、こんなに接近したことなどなかった気がする。触るなと言い放った翌日がこうでは、ちぐはぐな気がしてならない。いや、これは不可抗力だから、仕方ないだが。昨日のことさえなければ、心はバラ色だったに違いない。

車内が揺られ、少しのスペースができる。
棗が体を微妙に動かした。やや、蜜柑の正面に位置している感じだ。更に体の密着率がアップしたが、彼女が他の客に触れないように、ガードしている感じにも見えなくはない。
現に扉の開閉口付近にサラリーマン風の若い男が立っており、彼女の腕が少しあたっていた。
――― 考えすぎ
そう頭の中を過ったとき、電車がやや大きくブレーキをかけた。必然的に体が不安定になった。
声を出す間もなく、前のめりになる。
だがすぐに棗が肩に手を回し、抱き込むように支えた。胸に頬を押し付けられる。
ふわりと彼の匂いがした。
「・・・・・」
揺れが落ち着く。
「・・ご、ごめん」
咄嗟のことに放心しながらも、体を離そうと、棗の胸に手を添えた。
しかし彼は力を緩める気配はない。それどころか、肩に置いていた手を、腰付近に移動させた。
そしてそのまま引き寄せられる。
「な、」
突然のことに、半端な言葉を出しかけた時、棗の顔が耳のあたりに迫る。
「・・・今日、一緒に帰れるか?」
「・・え?」
「話がある」
「・・・・」
「5時に、駅で待ってる」 手の力を緩めていく。
「・・・・・」

顔が、体が熱くなっていく。
あのサラリーマンが、一瞬視線を送る。目が合いそうになった。
隣で繰り広げられている高校生の抱擁劇に、居心地の悪さを感じているのかもしれない。

・・・話って、

蜜柑の思考の中で、その言葉が繰り返されていく。そして。
体を支え続けている棗の手から。
離れない体から。
憂いを帯びた声から。
その彼のひとつひとつから、じんわりと切なさのようなものが伝わってくる。

――― あの、彼女のことを・・

熱に犯された体をよそに、胸がギシリと音を立てそうなほど、軋んだ。

今は聞きたくはなかった。
しかし逃げてもいけない気もした。

こんな棗もまた、初めてだったからだ。



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