彼の特別になりたくて / stage 3


「蜜柑、蜜柑、いるのー?」


階下で、母親が呼んでいる。

「はい、」
だるそうに返事をし、ドアから顔を出す。すると階段途中で、母親が何かの土産らしきものを持ち、
こちらを見ている。
「どないしたん?」
「これ、日向さん家に届けに行って欲しいんだけど」
「棗の・・?」 今は、あまり行きたくないところだ。
「今日じゃなきゃ、ダメなん?」
「これ、生ものなのよ。父さんが出張先から買ってきてくれたの。確かこれ、棗くんが好きだったと思うのよねえ」
「・・・・・・・」
・・・どうして、こうなるんや。
「何、アンタ、嫌なの?いつもは、ひょいひょい行っちゃうくせに。棗くんと何かあった?」
母親が揶揄するように笑っている。蜜柑の様子がいつもと違うことを察しているのだろう。
「わかった。行ってくる・・」
あまり突っ込まれたくないので、嫌々引き受ける。棗には会わずに、彼の母親に渡して、さっさと帰ってくればいいだけの話だ。
階段を降り、土産を受け取る。
「そう言えば夕方、駅前で棗くんを見かけたわよ」
「え?」 思わず、母親の顔を凝視する。「・・・それで?」
「それだけよ。ああ、・・・そう言えば、近くに」
鼓動が、一瞬大きくなる。
「蛍ちゃんが、いたなあ」
「ほたる?」 声音が裏返った。
「近くって、隣?」
「ううん、少し離れてたかな。母さんも急いでたから、あんまり詳しくは見てないけど」
「ふうん、・・」 あの少女の後姿が浮かぶ。「他には?」
「いたかなあ。そこまでは、よくわからないわよ」
「そう・・。じゃ、行ってくる」
残りの階段を下りる。
ホッとしたのか、していないのか、自分でもよくわからなかった。


春先の夜の空気は、まだ冷たい。
下ろした髪が、ふわりと夜風になびく。
それを肌で感じながら、5件ほど先の棗の家へ向かう。
よりによって、なんでこんな日にこんなことを頼まれるのか。自分の運のなさに、気が沈む。
普段なら、なんの苦にもならないことが、むしろ歓迎すべきことが、 今日に限ってはそのへんの猫にでも頼みたいほど重たく圧し掛かる。

自分の中で、何度も繰り返されるあの光景。
頭から離れない。
追いかけていた理由なんて、別に深い意味などないのかもしれない。
だが、あんなに必死になっている彼を初めて見た。
自分の知らない、棗だった。

『それもあの棗君がよ、彼女が近寄って行っても、顔色一つ変えないし、嫌な顔もしないのよねえ』

パーマの言葉が浮かぶ。
頭を軽く振り、それを追いやる。

こんな時だけは、違う高校で正解じゃなかっただろうかと思う。
彼に会っても、正直どんな顔をしていいかわからない。
きっと、笑うことなど出来ないかもしれない。

門の前に到着し、いつものように玄関先へ向かう。
インターフォンに指先を伸ばす。押す間際、一瞬躊躇したが、応対に出るのはいつも彼の母親であることが多い。 今回もそれを祈り、ボタンを押した。
はい、という向こう側から聞こえる女性の声のあと、自分の名を告げる。
ほどなくしてドアが開き、相変わらず年齢を感じさせない、華やかな容貌の女性が顔を出した。
棗にそっくりなのだ。
「まあ、蜜柑ちゃん、いらっしゃい」 ハキハキした口調だ。
「こんばんは。ご無沙汰してました」
彼の母親に会うのは、卒業式以来だ。
「どう、新しい学校には慣れた?」
「・・はい、なんとか」 少し微笑みながら、何気に内側に目をやる。
彼の靴は、まだないようだ。
するとそれに気が付いたのか、彼女が、
「棗ね、まだ帰ってきてないのよ」 と申し訳なさそうに言う。
「いえ、今日は違うんです。これを母に頼まれて、」 言いながら、土産を手渡す。
「あらあ、いつもありがとうね。お母さんにくれぐれもよろ、」 途切れた言葉と、門が開く音がしたのが同時だった。
咄嗟的に悪い予感がしながらも、反射的にそちらに目を向けた。
案の定、棗が門を開閉しながらこちらを見ている。
目が合った。
今日は、どこまでもこういうシナリオらしい。

曖昧に目線を逸らした。
やはりどんな顔をしていいか、わからない。

「久しぶりだな」
何ごともないように、声をかけながら近づいてくる。
「そ、そやね。元気やった?」
平然を装い、なんとか応える。
「ああ、相変わらずだ」
「棗、」 母親が呼ぶ。「蜜柑ちゃんのこと、送ってってちょうだい」
その言葉に、蜜柑が慌てて言い返す。
「いえ、すぐそこですから、大丈夫です」 言いながら、後ずさりをする。
冗談じゃない。
二人きりになるなど、今の自分にはとても耐えられそうにない。
「ほら、行くぞ」
そんな動揺ぶりなど無視して、棗が門へ向かって歩きだす。
思わず前を向けば、彼の母親がにこやかに、手をひらひらと振っている。
「・・・・・」
抗えない。
軽く頭を下げると、しぶしぶ彼の後を付いていった。

「で、女子高とやらは、楽しいのかよ」
門を出てすぐ、棗がこちらを見ながら話しかけてきた。意識的に目を合わせないように、前を向いたまま答える。
「まあまあ、やよ。・・棗は?」
「別に。中学の時とさほど、変わりねーよ」 興味なさそうに言う。
「・・ふうん」
嘘ばっかり、と心の中で呟いた。
「ルカが、おまえのこと気にしてたぞ」
「ルカぴょんが?」
「ああ。あいつはいつでも、おまえのことを気にかけてる。ついでに言うと、今井もだけどな」
言葉の最後の部分は、苦々しく聞こえる。
思わず、アンタは?と聞きそうになるが、その言葉を飲み込む。
「なんやウチ、ひとり立ちできひん子どもみたいやな」
自嘲気味に言う。だが言った直後、しまったと思った。
らしくない自分の言葉に後悔する。
彼は、こういう普段とは違う、微妙な変化を見逃さない。
「・・・・・・・」
親友達の気遣いは身にしみて嬉しいはずなのだが、パーマから聞いたときのように素直に喜びを表現できなかった。 胸の中にかかったひどい靄のせいで、その気持ちをうまく言い表せない。その鬱積していくような感情は、 なかなか欲しいものにたどり着けずに、徐々に溜まるストレスに似ている。
やはりそんな雰囲気を感じとったのか、棗がこちらをじっと見ている。
その視線を避けるかのように、ひたすら前だけを向いていた。
やっぱり、ダメだと思った。
今の自分に正常な会話など、とても出来そうにない。

自宅が見えてきた。
少しの安堵とともに、もうここでいい、と言おうとした時だった。
「・・髪、」
「・・?」
「・・・下ろしたのか」
「・・え、」
視界の端で、棗の手が動くのが見えた。
だが、彼の手が近づいた瞬間、咄嗟的に体がその手を避け、自分の右手で弾き返していた。
「・・・、あ、」
直ぐに彼の顔を見た。ひどく驚いた顔をしている。
「・・・・・・」
蜜柑自身も、驚いていた。中学の頃はいつも、ツインテールをひっぱられ、からかわれたものだ。
それだけに自分がしたことが信じられない。
「・・あ、・・・・ごめん、・・」
途切れ途切れに、やっと出た言葉。
自分の中で、何かが警鐘を鳴らし始めている。
泣きたくなってきた。
もう、ここにはいられない。
急いで帰ろうと、足を踏み出す。
だが、強い力が彼女の手首を掴んだ。
一歩も前に進めない。

少しずつ、後ろを振り返る。
棗は、納得のいかないような、少し怒ったような顔をしていた。
その顔を見て、蜜柑の中の何かが弾けた。
「離して」
「・・・・・」
「離して、言うてるでしょ」 強い口調で言う。
「何があった?」 低く、問いかける。
「何もあらへんよ」
「何年、おまえのこと見てると思ってる」
「ほっといてくれへん?」
手を振り切ろうと、腕を上にあげる。
だが更に強い力で、それを阻止された。掴まれている部分が、熱い。
「・・アンタは、ウチなんかに構ってるヒマなんてないはずや」
「どういうことだ」
「もう、ええやろ」
「よくねえよ」 怒っている。
彼のこんな姿を見たのは、久しぶりだ。
だが、ふとまた、あの光景が重なった。
耐えられない。
思わず、顔を逸らす。
「・・・アンタは、ウチの彼氏でもなんでもないやろ。だから、・・・触らんといて」
「・・・・・・・」

少しの沈黙が漂った。
彼は、どんな顔をしているのだろう。

「・・・・・・」

冷たい夜風が、ふたりの間に吹き荒む。

棗が、ゆっくりと手首を離した。

「・・・・・・」

彼は何も言わなかった。
そのことが余計に痛みを増長させた。

そのまま家へ向かって歩き出す。
この場から、一刻も早く立ち去りたかった。



いっそのこと、今日のことを聞いてしまえばよかったのに。
蜜柑の中のもう一人の自分がささやく。
だが、出来なかった。

もし答えが最悪なら、今の彼女にそれを受け入れるだけのものは、何も残っていなかった。




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