彼の特別になりたくて / stage1


「こらあ、佐倉っ、何をしているっ」
突然の怒鳴り声に、蜜柑の体が硬直する。
「は、はいっ、すみません」
慌てて立ち上がり、前に目を向けると、数学の神野が鬼の形相でこちらを見ている。
「ったく、お前は毎度毎度、この授業をおちょくってんのか」
「い、いえ、そんなことは」
震え上がりながら言い返すが、焼け石に水である。
「あとで、職員室へ来いっ」
「はいっ・・・・」

蜜柑はガクリとうなだれ、再び椅子に座る。
何もあんなに怒鳴らなくても。
少し窓の外を、見ていただけではないか。
まあ、確かに授業は聞いてなかったような。
だが、よりによって神野に目をつけらるとは最悪である。

・・・ああ、こんな調子ではアカンなあ。



「蜜柑ちゃん、大丈夫?」
帰り際、親友の野乃子が、心配顔で声をかける。
「うん、大丈夫や。まったく、じんじんには参るわ」
あはは、と乾いた笑いで答える。
「元気だして、この学校でも楽しく頑張ろうね」
「心配かけてごめんな」
「ううん、でも寂しいよね。棗君も、蛍ちゃんもルカ君も同じ高校なのに・・」
気の毒そうに言う。
「しゃーないわ、ウチがバカなんやし」
「蜜柑ちゃん、・・・」

そう、仕方ないのである。
こればかりは、自分の実力を呪うしかないのだ。
つい数ヶ月前まで、同じ教室で同じ時を過ごしていた親友たちは、今はまた、別の同じ学校で学んでいる。
しかし蜜柑だけは、私立のミッション系スクールに通っている。退屈な礼拝は毎朝欠かさず行われ、 規則もそれなりに厳しい女子高だ。
思わず、ため息が漏れる。
優秀な親友たちと同じ高校に通いたくて、かなり無謀な挑戦をしたのは記憶に新しい。
受験校を決める時点で、彼らとのレベルの差は歴然たるものだった。
だが蜜柑の想いを汲み取った友人たちが彼女に少し歩み寄り、彼らは本来のレベルより二ランク下げ、 蜜柑が逆に二ランク上げるという中間策をとり、頃合いの高校を選んで受験することになった。
猛烈に勉強した。本来の実力以上のものを狙うというのは、並大抵なことではなかった。

しかし結果は惨敗。補欠にすら入れなかった。
親友たちに顔が立たなかった。自分のためにレベルまで下げてもらったにも拘わらず、 当の本人は端にも棒にも引っかからなかったのである。
・・・まあ、彼らは優秀であるがために、どこの学校へ入ろうがあまり気にならないらしいが。

いい加減、新しい学校生活に慣れなくてはならない。入学して間もないのに、神野に怒鳴られている場合ではないのだ。 嫌でも何でも、自分の現状を受け入れなくてはならないのである。
それにこの女子高は、私立の中でも一応そこそこのレベルがある高校だ。 見てくれだけを気にするならば、恥じることはない。

しかし。
そんなことでは、割り切れない感情が存在していた。
蛍たちと離れてしまったことは、当然の如く辛い。
だがそれ以上に棗と離れてしまったことが、想像以上に痛かった。

あちらの学校でも、さぞかしモテていることだろう。
本人にその気がなくても、周りがほおっておいてくれやしない。

棗は、蜜柑の近所に住んでいる同級生だ。
容姿も頭もケチのつけようがないほど良く、彼女とは正反対の人物だ。
そんな彼とは、小学校から中学を卒業するまで、いつも一緒に過ごしていた。
親同士の仲が良かったことも一因しているが、腐れ縁的ものを感じ、何だかんだと同じ時間を過ごしてきた。 中学の時は皆に羨ましがられ、それがエスカレートしていくと、影の棗ファンに呼び出され怖い思いをしたものだ。
楽しかった。顔を合わせれば喧嘩ばかりしてきたような気もするが、今にして思えば、どれもいい思い出だ。
そんな彼と、初めて離れた生活を送っている。いくら家が近所だからとはいえ、学校が違えばリズムも合わず、 顔を合わせる機会が殆どない。
せいぜいメールでのやりとりをするぐらいだ。

棗があちらで、どんな生活を送っているのかとても気になった。
離れてみると、漠然と気付かずにいた彼への想いが日に日に高まり、それが本物だったことに気が付いたのだ。
彼曰く、「オレはどこにいたって、変わりねーよ」などと言うが、特に女の子に囲まれていたり、話しかけられているところを 想像しただけで、胸の中がざわついて仕方がない。

・・・・ああ、やっぱり同じ学校やったらなあ。

棗はどう思っているのだろう。
自分と離れていても、平気なのだろうか。
残念なことに、蜜柑が彼の特別なポジションにいるかどうかは疑問符がついた。
確実な言葉のなど言われたことはないし、短くはない年月を共にしていても、 そういう対象として扱われていたとは考えにくかった。

ただ。
ひとつだけ、あれは一体何だったのか、という出来事があるにはある。

去年の夏休み、ふたりで海へ遊びに行った。遅くまで過ごし、薄暗い浜辺を後にしようとしたとき、 彼が不意にキスをしてきた。あまりの驚きに体を硬直させ、言葉を失くしていると、彼が心外そうな何とも言えない複雑な顔を していた。突然の出来事にどうしていいかわからず、その後は何も話すことが出来ずに帰ってきた記憶だけが、 鮮明に残っている。
だが、それきり何もなかった。 あのキスがどういう意味のものだったのか聞くのを躊躇うほど、いつもどおりの彼に戻り、 そのまま時間だけが経過していった。

自分は彼の特別ではない、と蜜柑は思う。
その辺の女の子よりちょっとだけ親しい、近所の同級生なのだ。
あんなキスは、女の子に不自由しない彼にはご挨拶みたいなものだったに違いないと。



「蜜柑ちゃん、」
再び野乃子に呼ばれ、直ぐに笑顔を作る。彼女に心配をかけてはならない。
「今日、スミレちゃんと帰りに会う約束になっているんだけど、蜜柑ちゃんも来ない?」
「へえ、パーマと?」
スミレことパーマは、棗たちと同じ高校へ進んだ、中学の時のクラスメイトだ。
棗のファンクラブを創設し、熱心な会長ぶりを発揮していた。噂によると、あちらの高校でも同じような活動をするべく、 会を立ち上げたという話だ。
「ウチが行っても構わへんの?」
「うん、スミレちゃんがね、もし予定がないなら、蜜柑ちゃんも誘ったらって言ってくれてたの」
「そうなんや、じゃあ、お邪魔させてもらおうかな」
「よかったあ」 安心したように、微笑む。「久しぶりに楽しもうね」
「うん」
野乃子の顔を見ながら、彼女たちの優しさに感謝する。
おそらく蜜柑が落ち込んでいるのではないかと、気を遣ってくれているのだろう。

賑やかな元クラスメイト。
彼女の口から、棗たちの様子が耳に入ってくることは間違いない。



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