私の全てをあなたに


潮風が、吹きぬけていく――――。


それは頬や髪を一瞬にして通り過ぎ、湿り気を帯びた独特の感触のみを残していく。
同時に降り注ぐ柔らかい陽射しは、その不快感を癒してくれる。

毎日のように同じ場所に来ては、思考を充満させるように、変わらない感想だけをひたすら思い続けようとしている。 そうしなければ、未だ心から離れることがない過去にとらわれてしまうからだ。

『棗・・』

片時も忘れることが出来ない、あの声、笑顔。
記憶や思い出が、これほどまでに身を焦がすものだということを初めて知った。

願うならば、このまま風と共に消えてなくなりたい。
彼女のすべてが、自身の中から感じられなくなる前に。


・・・蜜柑。


学園を出てから、一年以上が経過していた。

卒業まであと半年を切ったところで退学を決意し、学園に申し出た。 予想通り、二つ返事など貰えるわけもなく、かなりの難色を示してきた。 長きにわたり裏の任務に就き、細部にわたり機密を知り尽くしている自分を、そう易々と解放するわけにはいかなかったからだ。 だが皮肉なことに、時間が限られているという理由が彼らの別の意思を動かし、ある条件付で退くことを認めた。 それは一年間だけ某国に潜入し、諜報活動をするというものだった。どこまでもコマのように操り、最後は使い捨て同様に扱う。 潜入期間中に何が起きても惜しくない人物には打ってつけだった。だが学園のこの決定に、もはや嫌悪の感情すら起こらず、どんな感想も言葉も浮かぶことはなかった。 平たく言えば、学園の対応や反応など、どうでもよかった。それにどれほど不利であろうと、 この条件をのむより他に方法などなかったのだ。

自分の体はもう、手の施しようがないほど限界に近づいていた。

あえて医者からの告知を受けるまでもなく、その時期が近づいていることを感じていた。
慢性的な微熱。眩暈。時折発作的に襲ってくる、激しい胸の痛み。立っていることが奇跡だと思えるほどの劣悪な状態の体を引きずる毎日。
これ以上彼女の前で、この体を晒すことは我慢ならなかった。
平然を装い続けてはいたが、それにも限界が生じ始めていた。
無論、彼女にも周りにも病状について詳しく話したことはなく、問い質されても答えることはなかった。 だが下降を辿っていく体について、彼女なりに悩んでいたのだ。 時折堰を切ったように何度も何度も同じ言葉を繰り返し、縋るように自分を説き伏せようとしていた。

『棗、ウチの力で、アンタのアリスを、・・・』

拒否をした時の、彼女のいたたまれない顔が、今でも心に焼き付いている。
酷なことをしたと、思っている。実際逆の立場だったら、可能性を求めて力づくでも行動にでたかもしれない。 しかし彼女の能力で、例えアリスを抜き取ったとしても、恐らくこの壊れた場所が元に戻ることはなかっただろう。
そしてもうひとつ。最後まで彼女の申し出を拒んだ大きな理由は、こんな体になっても、この力だけは失うわけにいかなかったからだ。 いつまでも燻る学園の不穏な空気。決して安泰とは言いがたかった。そんな最中に不測の事態が起きても、能力がなければ話にならない。 この体を引き換えにしてでも、守りたいものがあるのだ。
だが、そんな想いとは裏腹に、状態は日々悪化していく。
あと半年だ、そう言い聞かせてきた体はもう悲鳴上げる寸前だった。
苦渋の決断だった。たとえどうなっても、学園に残るべきか。それとも姿を消すべきか。
結局、後者を選んだ。
考え抜いた末に、ただ一つだけ耐えられないと痛感したこと。
彼女が泣き崩れる姿を見るくらいなら、いっそのこと姿を消してしまいたかった。
最期まで残り、守りきれなかった弱く、身勝手な自分を責めてもらっていい。恨んでもらっても構わなかった。 それほどまでに悲嘆に暮れゆく彼女だけは、どうしても受け入れらそうになかった。
怖くてたまらなかったのだ。
自分自身が、この世から消えてなくなることよりも。

一年の任期が完了し、今は、ある離島に学園が擁している病院で療養している。
ここは自分のような体になった能力者が、治療を受けるため極秘に建てられた医療施設だ。
したがって存在自体を明かされておらず、知る者はごく僅かしかいない。散々利用するだけ利用した、 学園側の最後の温情施設なのか、それとも到底世間には晒すことの出来ない不都合が生み出した産物なのか。 考えるまでもなく、後者になるだろう。
今はもう歩くことも、おぼつかない。
諜報員期間中に何度も倒れた体だったが、何の未練かまだ命の灯火は残っている。

・・・・未練。

病院の目の前にある、小さな海浜公園。
東屋やベンチが点在し、少しの整備が施してある、患者の気分転換用に作られたような公園だ。
体調の良い日は、ここに来て静かな波の音を聞く。不思議と気持ちが和らぐのだ。
癒すような柔らかな陽の光は、・・・彼女に似ているのかもしれない。


『棗、ウチ卒業したら、家に帰るまえに行きたいところあるんやけど』
『?』
『棗の家や。葵ちゃんにも逢いたいし。行ってもええ?』
『・・・別に、かまわねえけど。いいのか、じーさんのこと後回しにして』
『えへへ。じーちゃんには、卒業式を三日遅く教えてんねん』
『・・・・・』
『あ、呆れてるやろ。だって一度行ってみたい思うてたんや。棗の家とウチの家、離れてるやろ?
だったら、ここから直接行った方がええと思うてな』
『わかった。おまえがいいなら、それでいい』
『待ち遠しいなあ。むっちゃ、楽しみや』


『ウチ、棗にこうしてもらえるの、実は大好きなんや』
『・・・・・・』
『アンタの胸の音聞きながら、・・・大きい腕の中にいるとすごく安心するんよ』
『・・知ってる』
『なんで?』
『コタツの中のネコみてえに、しまりの無い顔してるから』
『なんや、ソレ』
『鏡で見てみろよ』
『・・・ムードのない奴やな。でもまあ、なんでもええ。これはウチだけの役得や。・・棗、ずっと、傍におってな』

ずっと、そばに・・・。


うっすらと笑う。
これは、夢だ。
わかっている。
届かない儚い夢。

『棗、アンタはどうしてそう秘密主義なんや』
『いつも何も言うてくれへんから、余計に不安になるんや。どうしてそれがわからへんの』
『これから先もそうやって大事なこと、誰にも言わんと、ひとりで抱えて生きていくんか?』
『うちは、アンタのなに?』

・・・・うちは、アンタのなに?

蜜柑。

大事だから、大切だから言えねえこともあるんだ。

わかれよ・・・。


「日向君、時間よ」

看護士の声がする。
一度ここで倒れたせいもあり、近頃はこうやって必ず迎えに来る。
「こんなところで寝てたら、風邪ひくじゃない。まったく、いい加減自覚しなさいよね」
口が悪く、どこか冷めた態度。
彼女は、恋人の親友を彷彿させる。いや、雰囲気といいそっくりなのだ。
少しづつ目を開ける。
目前には、顔つきまで似ている紫紺の瞳がこちらを伺っていた。
「立てるの?」
「・・大丈夫だ。かまうな」
「あたしだって、別に構いたくないわよ」
でも仕事だから、と言い、手を差し伸べる。
変な意地が先行し、そっぽを向きかけたが、こんなところで躊躇していても彼女が引き下がらないことを知っていた。
仕方がなく手を借りる。
「ゆっくり、立ってよ」
体に手を添えてくる。
華奢な体つきで、支えている。
「・・・・・・」
ここが彼女の不思議なところだ。
先ほどまでの態度とは違った、染み入るような労りが伝わってくる。
・・・あいつも、そうだったのだろうか。
「もう、大丈夫だ、」
手を離す。

風が、凪いでいた。
海面は光の恩恵を受け、多様な煌めきを放っている。

「・・あと、少しだけいても構わないか?」
彼女が顔を顰める。
だがすぐに仕様がない、といった表情に変わる。
「わかったわ。本当に少しだけよ」
そう言って踵を返し、歩き出す。
背中越しに、地を歩くかすかな足音が聞こえた。
少し振り返れば、やや離れたベンチに座っている。
どうやら、帰るつもりはないらしい。

まさかここに来てまで、似たような女がいるとは思わなかったが。
何故か、変に懐かしい。

蜜柑には、あいつがいる。ルカもいる。他のやつらも。
卒業してもからもおせっかいは続いているだろう。
心配は、いらない。

帰国したとき、それとなく彼女たちの近況を探ってみた。
あれから何事もなく、それぞれの道を歩き始めているようだ。

ただ、ひたすら幸福を願い続ける。

この海のように、穏やかであることを。

「日向君、」

時間か。
声にいざなわれ、振り返る。
だが次の瞬間、動きが止まる。

「・・・・・・っ」

体の中を、何かが走り去っていく。

潮風が、頬を撫でていった。


「・・・、蜜柑」

看護士の隣には、蜜柑が立っていた。
泣き笑いのような顔をしている。

・・・なぜ、

今井似の彼女が、蜜柑の背中を軽く押す。
まるで、本当の親友のように。
前に、一歩進み出た。
途端に、駆け出して来る。

泣いていた。
だが、悲しい顔ではない。

やがて目の前で、立ち止まった。
自分の見ているものが信じられなかった。
だが、間違いなく蜜柑だ。

彼女は、一呼吸置くと、自分を見据えながら、ゆっくりと腕を伸ばしてきた。
大切なものを扱うかのように、体に触れる。
そしてその腕は、すぐに背中へと回された。
思いを噛み締めるかのように、胸に頬をあてる。

これは、・・夢、なのか・・?

「・・・、どうしてここが・・」
蜜柑が、かぶりを振る。
「何も、・・・何も、言わんでええよ」
振り絞るような、涙声。
「よかった・・・。棗、ホンマによかった」
「・・・・・・・・・・」

瞼を閉じた。

オレには、まだ、時間があるのだろうか。

蜜柑の体に、腕を回す。
懐かしいやわらかい、感触。
長い髪は、変わらない。
愛しむように、撫でる。

「ずっと、ずっと、捜してたんよ」
顔を少し上向かせる。
涙のあとが残ったまま、優しく微笑んでいる。
「学園は何も教えてくれへんから・・・先輩や蛍たちと、別ルートで必死に捜してたんや」
「・・・別ルート?」
蜜柑が頷く。
「数ヶ月前、アンタが海外へ行ってたことをやっと突き止めた。・・・そしてここにいることは、最近になって漸くわかったんや」
「・・・・・・」
「もう、離さへんからな」
涙が、またひとつこぼれ落ちる。
「蜜柑、オレには、」 指で雫を軽くぬぐう。「もう時間が、」
「言わんといて」
切願するような、強い口調。
「棗を捜しとる間、ウチらはアンタの体を治す方法も探ってたんや。 病状は、学園内の医者から無理やり聞きだした」
蜜柑の瞳に自信がみなぎり始める。
「調べて、いくつかの病院をあたってみたんや。そして、ついに見つけた。今、アンタの体に最も良い治療法を。だから、」
「・・・・・・・」
「信じ、られへん?」
「いや・・、」
首を小さく左右にふった。

彼女の顔が、以前より小ぶりに見える。
顎のラインが痩せ、輪郭がはっきりとしていた。
これだけで自分が失踪してから、どれほどの苦労と心配をかけたかがよくわかる。

蜜柑も、あいつらも、身を粉にして。

「棗、帰ろう。ここでは、限られた治療しかしてくれへん」
縋るような目。
この顔に見覚えがある。
「帰って、最高の治療を受けよう。もう、準備は整ってるんや」
もう、落胆させる理由などない。
「おまえは、・・オレを恨んではいないのか?」
「そんなこと、あるわけないやないか」 悲しそうに、少し笑っている。
「アンタが、どれほどの想いで学園を出て行ったか、それを考えると、・・」
言葉を詰まらせる。

・・・愚かだ。
自分は、逃げていたのだ。
自身からも、そして、蜜柑からも。
そして、何もわかっていなかったのだ。

「・・・悪かった」
「なんで、謝るんや」 再び頬を体にあてる。 「胸の音が聞こえる。棗は今、確かにここにおる。それだけでもう充分や」
「蜜柑、」
「棗はウチのすべてや。もう決して、ひとりにしない」


潮風が吹き抜けていく。

だが、不快な感触はもうしない。
蜜柑の髪が小刻みに揺られている。

彼女のすべてを感じていた。
気が付けば壊れそうなほど、強く抱きしめていた。
この計り知れない想いの深さを、どう表現すればいいだろうか。

・・・蜜柑。

この先何が起きようが、恐れはもうない。
そして願うならば。

もう一度この手に、彼女との未来を。



Fin


*あとがき*

棗が、大変なことになってしまっていて、読んでいて辛かった方ごめんなさい;;
本誌の彼も、心配ごとはすべて自分の中で 処理してしまおうとしていて、これから彼はどうしようと
しているのか、わからなくて不安です。
でも、ひとりじゃないんだよ、忘れないで、という想いを伝えたくて、書きました。
そんなところを感じて下されば、いいなあと思っています。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました;;


 
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