あなただけしか、見えない / 後編


「はい、それではいきます、用意、」

スタートの合図とともに、撮影が着々と進んでいく。
先ほどの強い決意のせいか、ここまでは今までにないくらい順調にきている。
他のことは一切考えずに、目の前のやるべきことに集中することができた。
おかげで殆どミスもなく、棗との雰囲気も上々だった。
次はいよいよ、問題のあのシーンである。

スタッフが蜜柑たちに動きの確認をする。
ラストシーン冒頭は、棗が帰ろうとするところから始まる。
少しの会話をしながら、彼がソファから立ち上がり、同じく蜜柑も立ち上がる。
そこで腕を引かれ、抱きしめられる。
見つめあうふたり。
手が頬にふれ、棗の顔が近づいていく。
愛しているとささやかれ、口付けをする―――。

蜜柑はこの段階まできても、以外なほど落ち着いていた。
台本を機械的に読み上げ、それに合わせながら情感のかけらもないスタッフの動きを見ていると、 変な盛り上がりもなくかえって気がラクだった。
棗も特にこのシーンだからといって、先ほどのように心配しているようには見受けられず、ごく普通にしている。
案外いけるかもしれない。そう思ったとき、本番が言い渡された。


「今度は、いつ来られる?」
七瀬(蜜柑)が、腕時計に目をやりながら立ち上がる怜(棗)に聞いた。
「そうだな、いつ来てほしい?」 彼が優しげに問い返す。
「・・・・・」 彼女も立ち上がる。
頬が少し赤くなっていた。
そして彼の服を遠慮がちに少し引っ張る。
「・・・ずっとここにいて欲しい。帰らないで欲しい・・。」
恥ずかしそうに、小さな声で言う。
「・・・・・・・」
怜が、愛おしそうに七瀬を見つめる。
すると彼女の腕を引いた。
包み込むように、強く抱きしめられる。

かすかな吐息が、髪を撫でていく。

――――― う、・・わ


彼の体から、紛れもない熱情が伝わってくる。
しなやかな腕に、深く、とめどない想いがあふれ、とても演技とは思えない。

・・・これは、・・・なに?

「七瀬・・」 低く、甘いささやき声。
そして体を少し離した。
恋情を含んだ紅の瞳と目が合う。
蜜柑の胸がじわりと熱くなった。
(棗・・・)
彼が頬にふれる。

「愛してる、・・・・・・」

・・・蜜柑。

その言葉に、蜜柑の体がかすかに震えた。
自然と、涙があふれる。
棗の柔らかい唇が重なった。
幸せだった。

棗・・。

台本はここで終わっている。
触れる程度の口付けというシナリオで、あとはカメラの角度によってに見え方を調整するだけ
だった。
だがふたりのキスが終わらない。
棗が情熱的に蜜柑を欲していた。
彼女は縋り付くように、彼に体を預けている。
スタジオが次第に騒然とし、止めるタイミングに躊躇している。
演技なのか、本気なのか区別がつかない彼らの行動に戸惑っている感じだ。
その様子を食い入るように見ていた蛍が、隣にいるスタッフの腕を掴んだ。
手にはあやしい機具を装着している。スタッフがギョッとしていたが、それに構わず
早く止めさせろと、威圧的な目で訴えかけていた。
だがその時、蜜柑の体からガクリと力が抜け落ちる。
室中が、一瞬にしてざわめいた。
棗が、すぐに体を支える。
「蜜柑っ」
彼の呼ぶ声が響き渡る。
蜜柑は、彼に縋り付いた姿のまま、意識を失った。



瞼を薄く開けた。
ぼんやりと見えるのは、白い天井。
消毒の匂いがする。
そして感じるのは、温かくて、優しい手の感触。

「気がついたか?」
額に置かれていた手が、離れていく。
数回瞬きをすると、徐々に視界がクリアになっていった。
「・・・なつめ」
ベッドの直ぐ横には、棗が座っていた。
安心したような顔をしている。
「ウチ、・・・・倒れてしもうたんか?」 申し訳なさそうに聞く。
「寝不足と過労、そのうえ貧血だそうだ」
蜜柑が、バツの悪そうな顔をする。
「寝てなかったのか?」
彼が少しキツイ口調でいう。
「誰の・・、」 布団を引き上げる。「誰のせいや思うてんねん」 声が小さくなる。
棗が、ふっと笑った。
「オレのせいか?」
「・・・・・・・」
「わるかった」
「もう、・・・謝まらんでええ」 居心地悪く、少し反対側に顔を向ける。
「蜜柑・・」
彼の穏やかな声につられ、顔を戻す。
すると、綺麗な指が髪をすいた。
あのラストシーンと同じ表情をしている。

『愛してる、・・蜜柑』

あの時、確かに彼はそう言ってくれた。
聞き取ることなど殆ど出来ないほどの声音だった。
思い出すと、また胸が熱くなる。
あまりの嬉しさに、心が震え、涙が溢れた。

「なつめ、・・」
「・・・・・?」
彼が、ごく僅かに首を傾げる。
「さっき、言うてくれたの・・・あれは、・・」 弱々しく問う。
棗が、ああ、と先ほどと変わらない穏やかな顔で頷いた。
目の焦点が、どこか遠くを見るように、空に向けられる。
「最初に会ったときから、・・・どうしようもなく、惹かれていたんだ」
「・・・・え」
焦点を戻し、蜜柑を見据える。
「今日という日に特別な想いを抱いていたのは、オレも同じだったんだ」
―――― もし、オレが
言いかけた言葉が蘇る。
「あの時、何を言おうとしていたんや・・?」
棗が、自嘲気味に少し笑う。
「もし、オレが、演技ではなく本気で、・・・・愛していると告げたら、おまえは応えてくれるかと、あの時、 そう言い出してしまいそうだったんだ。本番前だというのに・・・、寸でのところで思いとどまったけどな」
「棗・・・」
「オレの中ではもう、おまえに対して、何もかも演技で片付けられるほどの感情なんて少しも残っていないんだ」
棗が、布団から少し出ている蜜柑の手を握る。
それをそのまま顔に近づけ、そっと甲に口付ける。大切そうに両手で包み込んだ。
蜜柑が、そのしなやかな動きを恍然と見つめながら訊く。
「ウチの気持ちには、・・・気付いてたんか?」
「うすうすな」 口元を緩める。「だが確信したのは、さっきだ。おまえは、・・・応えてくれた」
包み込んでいた手を、静かに蜜柑の胸の上に置く。
そして立ち上がり、顔を近づけた。
息がかかりそうな程の距離に、端正な顔が迫り、熱のこもった瞳が見つめてくる。
「・・・蜜柑」
あの時と同じ甘い声。

「愛してる」

また、涙があふれてきた。

「・・・ウチも」

そう言うので精一杯だった。

棗が啄ばむように、軽く口付ける。
いったん離れた唇は、ふたたび吸い寄せられるように深く求めあった。

蜜柑の細い腕が彼の首に回る。
ベッドがギシリと音を立てた。




「いつまでかかってんだか」
蛍がイライラしながら病室の前の壁に寄りかかり、棗が出てくるのを待っている。
蜜柑が病院に担ぎ込まれたあと、直ぐに追いかけてきて、いきなりふたりだけにしてくれと
頼んできた。
・・・・あの新人、許しがたいわ。
眉間に皴がより、相変わらず手にはあやしい機具を装着している。
彼女にしては珍しく落ち着きがなかった。
壁から体を少し離しては、身じろぎを繰り返している。
だが、ふと動きを止めた。
中から、話し声が聞こえなくなったからだ。
「・・・・・・」
軽い吐息とともに、あきらめたような苦い笑いがこみ上げる。

恋、か-----。

遅かれ早かれ、こうなることは目に見えていた。
見えてはいたが、やはりこの複雑な心境をどうにも出来ない自分に苦労していた。
たかがキスの一つや二つ、なんて、簡単に言えないくらい。
彼女の人生は、彼女のものなのに。

―――― これで、よかった・・のよね。

正面の窓から、淡い橙の陽が降り注ぎ、廊下を染めている。

撮影はまだ残っている。
だがもう、あんなに動揺することはないだろう。

二人は、恋におちたのだから。



Fin


*あとがき*

読んでくださりありがとうございましたvv
安っぽい映画のシナリオは、さておき(笑)棗がちょいと、いつもの彼ではない雰囲気でしたが、
一応大人設定なので、あえて落ち着いた感じにしてみました。
ふたりの想いが重なり、甘甘な感じが(努力しました;)伝わればいいなと思っております(笑)


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