Deary / 後編


夜の帳が色濃く辺りを支配し、昼間の騒ぎなど嘘のような静けさに包まれている。
衝撃的に始まった14日という日も、間もなく終わりを告げようとしていた。

蜜柑は、棗の部屋の扉をゆっくりと開ける。
だが部屋の主は、まだ帰って来てはいない。

消灯時間をとうに過ぎても、蜜柑は眠ることができずにいた。
戻って来ているかどうか、そればかりが気になって仕方がなかったのだ。
そしてこんなに遅い時刻になっても帰って来られないというのは、理由があるのだと、
ただ単にバレンタイン攻めが嫌でいなくなった訳ではないのだということを考えていた。
14日という日に、反応を示していた蛍や翼は、何か知っていたのだろうか。
今更ながらに聞いておけばよかったと後悔している。

蜜柑は暗く、温度が感じられない部屋に耐えられず、音を立てずに扉を閉めた。
静寂で冷え切った廊下を、戻っていく。

たった一日、逢わないだけなのに、ずいぶんと逢ってない感じがするのは、気のせいだろうか。
何も言わずにいなくなってしまったから、余計にそう感じるのだと蜜柑は思う。
こんなことなら、昨日の夜、あんな風に別れなければよかったのだ。
あんなことで。
何もかもが、悔やまれる。
普通に過ごしていたら、こんなにも寂しくはなかったのではないだろうか。

蜜柑は、両腕を抱きかかえる。

――――『あいつは、お前から逃げたんじゃないからな』
翼の言葉が、頭をよぎる。


棗、どこに行ったん?

・・・・逢いたい。


いつの間にか、部屋の前に来ていた。
蜜柑はひどい寂しさに押しつぶされそうになりながら、ドアの前に立ち尽くす。
涙が、ひとつ零れ落ちた。
瞼を閉じ一呼吸置く。
ゆるりとノブに手をかけ、扉をあけた。

だが、部屋の入ろうとしていた体がふわりと揺り戻される。
あたたかい感触が瞬時に背中全体に伝わり、両腕が体に回される。
頬には、サラリとした髪の感触。


「・・・なに、泣いてるんだ?」

耳元で感じる、焦がれた声。
「・・・な、・・」上手く、呼べない。
より強く抱きしめられる。
「・・・もう、逢えないかと、」
「んなわけ、あるかよ・・」
「せやかて、」 棗の腕に手を添える。「どこに・・、」
「・・・・・・・」
「・・何かあったんやろ?今日」
棗がまわしていた腕を緩め、体から少し離れる。
そして、彼女の背中を触れるていどに軽く押し、後ろ手でドアを閉めた。
蜜柑が、ゆっくりと振り向く。
目に映る見慣れた端正な顔には、どこか心苦しさが含まれていた。
「今日のことは、前々から決まっていたことなんだ、」 表情に陰りが加わる。「まさか、こんなに遅くなるとは思わなかったけどな」
「ウチは、・・・」 声が震える。「棗が、朝早くからいいひんくても、疑いもせんかった。ホンマに今日が嫌なんやな、仕方がないって」
「・・・・・」
「でもそれは、アンタの行動に疑いを持たせんようにするためやった・・・ウチに余計な心配させんようにって、わざとチョコなんかいらんって、怒らせて、気逸らさせて、」 言葉が詰まる。
「・・・これじゃ、意味なかったな」 薄く笑う。
蜜柑が、彼の服をぎゅっと掴んだ。
「本当に、・・・いつもいつもそうやって、・・・わかりにくんや、アンタの優しさは」
「蜜柑・・」
彼がわずかに表情を緩める。
「悪かった」
蜜柑がかぶりをふる。
「ええんよ、もう」 やわらかく微笑む。「おかえり、棗」
「・・ん・・」
深紅の双眸が、安らいだ色に染まっていく。
そして、ゆるりとした動作で、蜜柑の首元に手を伸ばした。
指先で、翼から貰ったリングにふれる。
「あ、これ、翼先輩がな」
棗が困惑気味な表情をしている。
「・・・余計なことを」
「なあ、これなんなん?」
「・・・・・・・・」 ますます困っている。
「棗?」
彼は、蜜柑の問いかけに少し逡巡するような様子を見せたが、あきらめたようにふいにポケットに手をいれる。
現れたのは、リボンのついた小さな袋だった。
棗が、蜜柑の手をとり、掌を上に向けさせる。
そして、袋をのせた。
「なつめ?」
彼が、小さく頷く。
蜜柑が、袋の中身を掌にあけた。
「これ・・、」
出てきたのは、翼がくれたのと同じリング付きのネックレスだった。
「それは、おまえに渡そうと前々から用意していたものなんだ」
少女の顔が、ほころぶ。
「だが、たまたま受け取りに行った現場をあいつに見られてな。そうしたら、」
言いにくそうにしている。
「そうしたら?」
「これみよがしに言いやがった。・・それは、対でもつと、いつまで一緒にいられるというジンクスがあるのだと。勿論そんなの俗説だ。だから無視していたんだが、」
「気利かせたんやな」
蜜柑が、笑う。
「・・・ったく、変な気まわしやがって。他に考えることあんだろうが」 いやな顔をしている。
「な、せっかくだから、してみいひん?」
「オレは、いい」 棗が即答する。「そんなのは、なんの根拠もねえんだ」
それに構わず、蜜柑が首からネックレスをはずす。
「棗、」 蜜柑が意地悪く呼ぶ。「嘘ついて、いなくなった罰や」
彼が、うっとした表情をし、少し身を引く。
だが彼女の雰囲気に気圧され、嫌そうにしながらも体をかがめた。
蜜柑が、棗の首に手をまわし、フックを留めようと顔を近づける。
「棗、」
「・・・?」
「チョコチョコって、しつこくして、ごめんな」
蜜柑が、済まなそうに言う。
「・・・・・」
「アンタの気持ちも考えんと、ホンマ許してな」
「・・・・欲しいものは、」
「え?」
棗が、蜜柑の体をやんわりと抱きしめる。
「いつだって、ここにある」
「なつめ・・」
「だから、特別なものなんかいらねえんだ」
フックを付け終えた、蜜柑の腕が彼の背中に回る。
「・・・・うん」
安心したように身を預ける。
棗が、背中を軽く撫でてくれた。
「だけど、」 体を少しだけ離す。「ほら、」
それををよこせ、という仕草をする。
蜜柑が、手首にかけていたネックレスを渡した。
するとそれを手に取り、彼女の首に回すと、器用な手つきで留めた。
蜜柑が少し俯き、指でヘッドに触れる。
途端に、笑顔で満ち溢れた。
「ありがとうな、棗」
棗が和やかな面持ちで、見つめる。
特別なものは、いらない。
だが、今回ばかりはどうしても必要だったのだろう。
恋人の機嫌をとるために、少女の笑顔が見たいがために。
だから、時として矛盾したことをしてしまうのだ。
「お揃いなんて、なんか照れるな」
棗は、浮かれ始めた蜜柑に、苦い笑いを向けた。

だが、ふいにその表情が一変する。

彼の変化に気付いた蜜柑が、棗の目線を追う。
見ていた先には、あの小瓶が置かれていた。
「あ、これ、蛍がな」
「蜜柑」 最後まで言わせず、少女の名を呼ぶ。
「なんや?」
「もう、寝るぞ」
言いながら体の向きを変え、ドアノブに手をかける。
蜜柑が、彼の腕を掴んだ。
「なんや、いつものアンタならここで寝ていくくせに、どないしたん?そんなにあの小瓶が
都合悪いんか?」
「・・・・・・」
「なあ?」 蜜柑が棗の顔を後ろから覗き込む。
彼は、目を合わせまいと少し逆側に顔を向けていた。
しかしあきらめる気がない恋人の様子に観念したのか、ひとつ吐息をつき、やや勢いよく
振り向いた。
そして蜜柑を一瞥すると、重い足取りで、小瓶の方に向かう。
「それ、どんな風にして使うんや?」
棗が、躊躇うように小瓶を手に取る。
そして蓋をとり、中身を手のひらに、移していく。
「・・・粉?」 蜜柑が、訊く。
「そうだ。少し、離れてろ」
粉を移し終える。蜜柑が、後ずさった。
すると棗はすぐに腕を振り上げ、それを空に向けてほおった。
散り散りに、粉が舞い上がる。
「なっ」 蜜柑が驚きの声をあげるより早く、棗がごく僅かな火を放つ。
焔に触れた粉は、一瞬光を放射したが、すぐに消え失せた。
目の前が、靄に包まれる。
すぐには、何も見えなかった。だが、徐々に視界がクリアになっていき、何かの輪郭が見え始めた。
「・・・え?」 蜜柑が、目を大きく見開く。
はっきりとした姿が、現れた。
息を大きく吸い込み、口元に手をやる。思わず大声を出してしまいそうだった。
「棗やっ」 くぐもった声でいう。
目の前には、もう一人の彼が立っていた。
棗が心底嫌そうな顔をする。
「すごい、なんで?」
「・・・今、学園で研究中の試薬だ。原理は違うが、実体はホログラムに近い。使用する者のアリスに反応し、その本人が現れる。有事の際に、敵を一時的にかく乱させるために使うんだ」
「・・・本物みたいや」 そう言って、蜜柑が擬似なつめに近づき、触れる。
僅かに感じる、体の感触。
そして顔を見れば、切れ長の美しい瞳と目が合う。
蜜柑が、思わず赤くなる。
するとその彼が、蜜柑の腰を抱き寄せた。キスをしようと、顔を近づける。
棗が、すかさず彼女の腕をひっぱった。
「バカ、なに、惑わされてんだ」
蜜柑が、棗を見上げる。
「棗、もしかして、自分に嫉妬しとるん?」
「・・うるせえ、」
「蛍、ウチがさみしい思うて、コレ、くれたんやろか」
「てめえの周りには、ろくなやつがいねえな」
蜜柑が屈託なく笑う。
目の前のエセなつめが、棗に挑発的な目を向ける。
棗がむっとし、眉根を寄せる。
「あはは、棗、本気になっとる」
「・・ったく、あのオンナ」 不機嫌そうに呟く。
『蜜柑』 彼が名を呼ぶ。
「わあ、声まで出せるんか。むっちゃ、ええ声や」 感動している。
「いい加減にしやがれ」 青筋をたてている。
「なんや、アンタのこと褒めてるようなもんやろ」
「人のオンナの名前を、勝手に呼ぶんじゃねえ」
「ホンマに、なに、ムキになってるん?」 蜜柑は可笑しくてたまらない。
だが、そう言い合ってるうちに、目の前の彼がスッと、姿を消してしまう。
「なんや、もう消えてしもうた」 蜜柑が消えた場所に近づき、がっかりした声でいう。 「でも蛍、よくこんな実験中の薬、持ち出せたな」
「・・・・・・・・」
棗はもう、言葉も出ないらしい。かなり疲れきっている。
それもそうだ、何が悲しくて、もう一人の自分自身に嫉妬し、うろたえなくてはならないのだろうか。
なんとも、情けない。
やはり彼にとってバレンタインという日は、ろくなことがないらしい。
理由がなんであれ、蜜柑を泣かせるととんだ罰ゲームが待っている。

棗が半ばヤケになり、強引に蜜柑の腕を引き寄せる。
「わっ、」
肩を抱き寄せ、軽く口付ける。
「・・・疲れた。寝るぞ」
拗ねた瞳が閉じられ、また近づいて来る。
それを少女は、恍惚とした顔つきで見つめていた。
やがて甘く、優しい口付けにすべてが飲み込まれていく。


どうやら今夜は、まだまだ続きがあるらしい。



Fin



*あとがき*

なんか展開が色々変わってすみません;
波乱ばかりで、ほのぼの路線とはかけ離れてますね。今度は(もう来年の話?)ちゃんと
蜜柑がチョコを渡せるようなシチュエーションにしますんで;;
長々と読んでくださり、ありがとうございました。


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