魅惑のチョコ


雨が降っている。
休日に降る雨ほど、憂鬱なものはない。予定の変更を強いられる上に、思いがけない事態が待っていたりするからだ。

コンコン、と、ドアからノック音。
来た。

蜜柑は、自室でお茶の準備をしながら、待ちかねた客にどうぞと声をかけた。
ドアが開いた。現れたのは、
「おそかったな、棗。待ちくたびれてしもうたわ」
「人を突然呼びつけておいて、何言ってんだ」
「だってな、こんな雨やろ。どこにも行かれへんし、みんなは何やら忙しそうだし。だからちょっと、お菓子作ってん」
「こんな日だからこそおまえ、やることあんだろ。明日から、補習じゃないのか?」
「う」
う、じゃねえだろ、と言いながら棗は、あきれたように小さくかぶりをふり、ベッドに腰掛けた。
あはは、とごまかすように軽く笑う蜜柑も、ティーセットが載ったお盆を持ちながら彼との間にそれを置き、隣に座った。
「お茶が終わったら、本腰いれるし。だから、付き合ってな」
カップに紅茶を入れながら、微笑んで言った。その顔を見て棗は、言葉が出ないようだ。笑顔好きな彼の弱点を利用した、蜜柑なりのお願いの仕方だ。
「で?」
「でっ?」
「これが暇つぶしに作ったってやつか?」
棗は小ぶりのガラスの器にいくつか載っている小さな菓子を見て言った。
「うん、うまそうやろ?」
「・・・・これ、チョコか?」
棗が嫌そうに訊いた。
「マヌケな質問やな。どう見てもそうやないか。ウチがあんたのために、愛情込めて作ったんやからな」
どうや、と自慢する蜜柑をよそに、棗はスッと立ち上がった。
「どこいくん?」
「帰る」
蜜柑は、やや青ざめながらドアに向かおうとする棗の腕をがしっと掴んだ。
「離せ」 狼狽えている。
「何か入ってるんやないかと疑ってんのやろ?」
「よく、わかったな」
「アンタ、何度もひどい目におうてるからな」
蜜柑はクスクス笑った。
棗にとってチョコは、もはや鬼門である。改めて説明などいらないほど、酷い目に遭っている。したがって、そういう類の食べ物には、人一倍警戒心を抱くのも無理はない。
「大丈夫や。今回は一人で作ったし、何にもはいっとらん」
「いや、いい。遠慮しておく」
「なんや、信用できへんの?だいたいウチがあんたに何かして、得するようなことがあるわけないやろ。仕返しが怖いだけや」
「・・・・・」
「それとも、とうとう自分の彼女も信用できへんようになったん?」
蜜柑は、棗の腕をぎゅっと握った。彼のトラウマはわかるが、今回ばかりは本当に何も入っていないのである。午後のひととき、のんびりまったりと二人で過ごしたいだけだった。
そんな気持ちが伝わったのか、棗が負けたといわんばかりに手で顔を覆いながら、ベットに再び座った。
「・・・甘いものはあまり好きじゃない。少しだけだからな」
「うん!」
蜜柑は張り切って返事をすると、チョコの入った器を棗の前に差し出した。
「どうぞ」
棗は、往生際悪くすぐには手を出そうとしなかった。だが一呼吸おくと、腹を括ったとばかりに手を伸ばし、すぐに口の中に放りこんだ。
「どう?おいしいやろ?」
「・・・・・・」
無言。 待つこと数秒。
「・・・棗?」
「・・・ふん」
肩の力を抜き、軽く笑った。
「なんや?」
棗の反応に蜜柑は不満を抱いた。頬を膨らませる。
「何、ふくれてんだ?」
「おいしいとか、なんとか言ったらどうなん?」
「ああ、わりい」
「味よりも毒の方が気になって仕方なかったみたいやな」
もう、ええわと不機嫌に紅茶を飲む蜜柑の頬に、棗が手を伸ばしてきた。
「だから、わるかったって」
頬にふれる棗の手が優しい。
蜜柑がチラリと隣を見ると、何事もなかったようにカップを口に運ぶ彼の横顔が目に入る。
敵わんなあと思う。お茶を飲む姿もサマになっている。いつ何をしていても、その場の空気を引き寄せ、馴染んでしまう。かっこよすぎて、ため息ものだ。
「・・・なんだよ」
蜜柑の視線を感じた棗が、顔を向けることなく言う。
「な、なんでもあらへん」
蜜柑が慌てて目線を戻そうとした、が、その時。
ふと飛び込んできた光景に我が目を疑った。
え?

ええ?
うそ・・・や。

なんと、棗の頭、髪の間からわずかに猫耳が出ているではないか。
蜜柑は目を大きく見開き、唖然とした。
―――― なんで、
思わずティーカップを落としそうになったが、棗が蜜柑?と呼んだ声で、はっと我にかえる。
「どうした?」
棗は、の異様な雰囲気をいち早く察知し、蜜柑を怪訝そうに見つめていた。
「な、なんでもあらへんよ、うん、なんでも」
「・・・・・」
取って付けたような蜜柑の言葉に、棗が目を細める。
その目つきに、蜜柑の背筋がぞくりとした。

うわ・・・
・・・・猫だ。
だけど。
なんて色っぽいのだろう。

表立った変化は耳だけのようだ。しかし顔を僅かに傾けたり、切れ長の目で見つめる、ちょっとした仕草が艶っぽい。いわゆる妖艶ってやつだ。もともと色気はあるのだから、それに輪をかけたようになっている。
いや、感心している場合じゃない。バレたら大変なことになるだろう。想像しただけでも、背中に嫌な汗が流れそうだ。しかし何故こうなったのか、・・・皆目、検討もつかない。
「おまえ、オレが何も気づかないとでも思っているのか?」
棗がやや低い声を出し、さらに怪しんでいる。
「何もって、ウチ、なんかした?」 蜜柑は精一杯シラを切った。「どこか、おかしい?」
すると棗が立ち上がった。
「棗?」 蜜柑の声が思わず裏返った。
マズい、――――。 彼女の中の本能が、必死に警鐘を鳴らし始めた。
こうなった場合の彼の行動は、一つしかない。

無駄な抵抗よろしく、蜜柑が座ったままの姿勢で後方に進むようにズルズル移動しようとしたが、それを許さんとばかりに、棗がベットに膝をつき組み敷く。
「ひゃっ」
ティーカップがカチャリと音を立てたかと思うと、たちまち蜜柑の体がベットに倒れ、棗の顔が間近に迫る。
「ちょ、ちょっと、なつめっ、」
蜜柑の無駄な叫びを無視するかのように棗の手が、投げ出された蜜柑の腕の上をしなやかにそして撫でるように進み、指を絡める。

―――― 動きが、やっぱりいつもと・・

蜜柑は、心中で焦りを感じながらも、棗の動きの一つ一つが気にかかる。
昼間から勘弁して欲しいと思う反面、こうなったらもう彼を止められないのは毎度のことである。そして何より、色を含み熱のこもった瞳で、じっと見つめられるともう抗う気持ちが微塵もなくなってしまう。
「・・・蜜柑」 耳元で吐息のように名を呼んだかと思うと首筋にそっと、口づける。
「棗・・・」 ウチ、補習の勉強するから離して、と必死になって言おうとするが、もはや意味をなさない。
「何があった・・?」
棗が、誘惑尋問のようにまた耳元でささやく。
「え、・・・その棗が、」
「俺が?」
「・・・み、・・っ」
耳が。
あかん、このままでは思うツボや。しかし、いつもこの手で白状させられる。
何度同じことをされても、馬鹿馬鹿しいほどに誘導される。これがフェロモンアリスではないというところがまた厄介なところだ。
「言えよ・・」
今度は唇に軽くキスをしてきた。
絡めた指に少し力を加えて。

ホンマ・・もう、だめや。

そう観念した矢先、ふたたびドアがノックされた。
彼らの動きがハタと止まる。
そしてドアの向こう側から、やや遠慮がちな声で「蜜柑ちゃん」と声がした。
「・・野乃子ちゃん?」
棗が小さく舌打ちをした。その表情は、獲物を前にしておあずけをくらった小動物そのものだ。
・・・か、かわいい。
蜜柑は、思わず口元が緩みそうになるのを耐えていると、彼が体を名残惜しそうに離した。
「これで、済んだと思うなよ」
猫耳をくいっと少し動かしながら言う棗に背を向け、急いでドアへ行き扉を開けた。
そこにはやはり、困惑顔の野乃子が立っていた。
「野乃子ちゃんっ、どないしたん?」
「蜜柑ちゃん、あの・・・」
野乃子は、少し戸惑うように口を開いたが、部屋の中にいる棗に気がつくと、それはすぐに閉じられた。頬が少し赤くなる。
蜜柑はその不自然さに目をしばたいた。部屋の中と彼女を交互に見ると、廊下に出て静かに扉を閉めた。
「何か、あったん?」 
「・・・あのね、チョコなんだけど・・」
「チョコ?」
言いにくそうに話し出す彼女の口から出た言葉は、渦中の品、チョコという単語だった。
いやな予感がする。
「本当は、言っちゃダメってスミレちゃん言われたんだけど、誰かが食べたら大変だと思って来たの・・もしかして、棗君・・・食べちゃった?」
「う、うん・・・」
「ごめんね。遅かったんだね」 申し訳なさそうに野乃子は言った。
蜜柑に眩暈が襲ってきた。
「チョコ、パーマがすり替えたんか・・?」
「うん。蜜柑ちゃん、さっきそれ作ってるとき、少しだけ席外したでしょ?その時に、スミレちゃんが昨日悔し紛れに作ったチョコと取り替えたみたいで・・、それ偶然目撃しちゃって・・」 呆然とする蜜柑を前に、野乃子は続けた。「取り替えたチョコには、スミレちゃんの猫体質の方のアリスが少しだけ入ってるの。だから大きい変化はないんだけど、耳と・・・」
彼女の声が遠くに聞こえる。なんてことをしてくれたんだ、蜜柑は今にも倒れそうになる。
だいたい悔し紛れってなんや、悔し紛れって。
あ、と蜜柑が何かに思い至る。数日前の深夜、棗の部屋からこっそり出てきたところを、偶然パーマに見られた。自分達が付き合っているということは既に知っていたはずだが、実際にそんなところを目のあたりにしたショックは大きかったのかもしれない。
―――― ウチに効かへんことくらい、わかってたやろ。ってことは、こうなることを予測して・・・
おのれ、パーマ。

・・・・せやけど

蜜柑はずっと棗を想い続けてきた、パーマを思い浮かべる。いつも彼を追いかけ、一途な面を見せていた彼女は、本当に一生懸命だった。
怒りが萎える。

憎めへんなあ。

棗を好きだという気持ちは、痛いほどわかる。それはパーマも同じだからだ。


野乃子に礼を言い、蜜柑は部屋の扉を開けた。
棗が蜜柑の机の椅子にこちらを向いて座っていた。そして、すべてを悟ったという表情で、うっすらと剣呑な笑みを浮かべている。
蜜柑が、諦観のため息を漏らす。 ―――― 猫耳ついててもかっこ良さはかわらんし、これはこれで似合うんやけどな
サラサラした黒髪からわずかに垣間見える猫耳は、ちょっと毛がふさふさついていて、触ってみたい気もしてくる。・・・・しかし、そんな暢気なことを考えている場合じゃないのだ。
これから起こるであろう事態を考えると、気が重いやら、訳がわからない。

こんなはずじゃなかったのに。

「それで、 」 棗が椅子から立ち上がる。「効果はいつきれる?」
「・・野乃子ちゃんの話では、2時間くらいしかもたないって」
「・・・そうか」
そう言うなり、蜜柑に近づいてくる。 思わず後ずさろうとするが、すぐ後ろはドアだ。
「な、なつめ、これは不可抗力や、」
「へえ、」 棗が利き腕を扉に置いた。そして彼女の耳元に顔を近づける。「蜜柑、知ってるか?知らないということほど、罪なことはない」
蜜柑の体が硬直する。
「勉強、手伝ってやるよ」
だがその言葉に、ふにゃりと体の力が抜けた。
それを見た棗が、悪魔のように微笑んだことは言うまでもあるまい。


雨が降っている。
思いがけない事態は、いつも近くに転がっている。


Fin


*あとがき*

犬猫体質の犬の方は、今回効力ナシということで(笑)
 


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