「なに、そんなとこに突っ立ってんだ。さっさと入れよ」
「う、うん」
ダメや、体が緊張して異常に硬くなってる。
口の中も乾いて、カラカラや。
どないしよう。
意識したらあかん。
ここはいつものように、ふつうにふつうに。
そう思うも、蜜柑の手と足が同時に動き出してしまう極めて不自然な歩き方。
進むたびにギシギシと音がしそうだ。
だが今の彼女にそんなことを気にしている余裕は微塵もない。
―――― それもこれも、あの会話のせいや。
蜜柑は、昼間に図書室で聞いた、ある話を思い出す度に心臓が痛くなるのだった。
ここは、棗の自室。
これまでも何度か皆でお邪魔したり、はたまた寝たりしたことがある見慣れた一室である。
しかし、今日は以前とは状況が違う。
蜜柑が、彼女という新たな名を加えられてから、初めて入る部屋だった。
両想いであることをお互い認識していた二人は、少しずつだが確実に彼氏彼女の路線を歩んでいた。
まだ初等部生ということもあるためか、特別な言葉をもとに恋人関係をスタートさせた訳ではないが、
お互いがそれとなく意識しあうことで、自然と一緒にいる時間が多くなった。
そして今回は、そういう間柄になってから、初めて棗の部屋に招かれたのである。
「適当に座れよ」
棗がコートを脱ぎながら、部屋の中央で立ち竦む蜜柑に声をかけた。
「・・っうん、」 返事に余裕がない。
「どうした?」 棗が怪訝そうに訊く。
「なんでも、あらへんよ、」
「・・・・」
棗が、じっと見つめていたが、それを振り切るかのように、そばにあったベッドに何気に座った。
その感触にはっとする。
・・・・ベッド?
ぎゃー。
蜜柑は、心の中で悲鳴をあげる。
――― あわわわっ、どないしよう。よりによって、ベットに座ってしもうた。
ジタバタと落ち着きつきなく体を小刻みに動かしていたが、再び棗の視線を感じてハタと動きを止めた。
・・・・まずい。
蜜柑は不自然にも、そこでにっこりと笑ってみせる。
その様子を棗はまた怪訝そうに見つめていたが、あきらめたのか、程なくして飲み物の準備を始めた。
蜜柑が、ふうと疲労のまじった複雑なため息を漏らした。
―――― こんなんで、この先棗と付き合っていけるんやろか。
今だ、頭の中をぐるぐると駆け巡る、あの話・・。
蜜柑が、昼休みに本を借りに図書室に行ったときのことだった。
背中側の本棚の影から、ある会話が聞こえてきた。
聞くつもりはなかったのだが、何故か向こう側の声がやけに響き、自然と耳へ入ってきた。
「ねえねえマナミ、昨日行ったんでしょ?中等部の彼の部屋。どうだったの?」
「うん、まあ・・その、楽しかったけど」 歯切れ悪く答える少女。
「なに、なんかあったの?」
「いや・・・なんか言いずらいし」
クラスメイトのおませな恋ばなだ。どうやら中等部生の彼がいて初めて寮に遊びに行ったようである。
そこで何かが起こったらしい。
蜜柑は、立ち聞きはよくないと思いながらも、自分と似た境遇にそそられ、自然と本棚に寄りかかった。
「どうしたのよ」
「しっ、声が大きいじゃん」
「ゴメン・・」
「でも、まあ、アンタにだから話すんだけど、・・・」マナミが口ごもりながら続ける。「その会話の途中でさあ、・・・いきなり押し・・・倒されちゃって」
蜜柑が本を抱えたまま硬直する。聞いている友人の心の絶叫が聞こえてきそうだ。
――― どっ、どういうことや。ウチら、まだ初等部生やで。
「マジ?!ちょっと、それはさすがに早いんじゃないの?」 かなり動揺している。
「そうなんだけど、・・・・俺たち付き合ってるんだしって・・・」
「そりゃそうだけど、やばくない?それで、どうしたの?」
蜜柑もそれが、聞きたい。
「とりあえずキスだけ。・・あと、ちょっと」 ちょっとって何や?
「うわ・・、まあ、・・・マナミは外見だけみたら初等部生には見えないもんね」
「でもねでもね、お願いしたんだ。もうすぐ卒業だから、その、とりあえず中等部にあがるまではって」
「それで、いいって言ったの?」
「微妙・・・」
「・・・マナミ・・・」友人がため息まじりに言う。
そこで会話は遠ざかっていく。続きは、歩きながらするのだろう。
蜜柑は、その場からしばらく動けなかった。
なにかひどく恐ろしいことを聞いてしまった気がする。
確かにマナミは、発育抜群で体つきが大人っぽい。
中等部の彼は、年齢うんぬんや精神的なものを無視して、大人の階段を上ろうとしたに違いない。
それにしてもだ。
今日、このあと棗の部屋へ行くことになっている蜜柑には、あまりにも衝撃的な話だった。
殆どと言うか、全くそんなことを意識していなかったから余計だ。
まさか今日、誘われたのもそのためだったり?
―――― 棗は、・・そんなこと、
そう思いたいが、彼の手の早さを知っているだけに、語尾を繋ぐことができない。
出逢ったときをはじめとする数々の実績。
強引だったにしろ、キスまでは一応済んでいるのである。
頭が、クラクラする。
―――― そ、そんなことされたかて、ウチら、まだそんな年じゃあらへんし。
棗だって、そんなことくらいわかっているだろうと蜜柑は思う。
いくら手が早いからといって、この年で進んでいいことといけないことの区別くらいつくだろうと。
しかし、彼は生きてきた道筋が険しかった分、精神年齢がずっと上だ。
となると、あちらの方も考え方としては大人の領域なのかもしれない。
蜜柑は、背中に感じる硬い背表紙を擦りながら、ズルズルとその場に座り込んだ。
あかん、意識しすぎや。まだそうなると決まったわけじゃあらへん―――。
だが忘れようにも、数時間後には棗の部屋にいる自分を想像すると、顔が火照ってくるのだった。
「ほら、」
棗にココアを差し出され、蜜柑は、はっと我に返る。
「あ、ありがと」 再びとってつけたような不自然な笑みを浮かべる。
すると彼は、少し間をおいて隣に座った。
その途端、蜜柑の心臓の高鳴りが、また一段と激しさを増した。
カップを持つ手が、微かに震える。
―――― アホっ、緊張のしすぎや。隣に座ったくらいで、
カップの中のココアが小刻みに揺れている。
蜜柑はそれをごまかすかのように、やや性急に口に含んだ。
「あっつっ」
思いのほか、温度が高かった。
「・・ったく、なに慌てて飲んでんだよ」 棗があきれたように言う。
「ゴメン・・あ、やってしもうた」
見ればスカートにまで、少しこぼれている。
「ドンくさくて、いやになるわ」
そう言いながら、ポケットからハンカチを取り出す。
棗が、蜜柑の持っていたカップをひょいと取り上げた。
「ありがと、」 殆ど目も合わさずに、礼を言う。
蜜柑は、スカートのシミをハンカチで叩いた。
すぐ横には棗が立っていて、蜜柑をじっと見つめていた。
その視線がまた、いたたまれない。
あかんわ。
今日は、体調が悪いとか言ってとりあえず帰ろう。
後日、出直しや。
蜜柑は、スカートのシミを拭き終えると、これが帰るタイミングとばかりに顔を上げ、「棗、あのな、」と言いながら、
部屋に入って初めて彼のことをまともに見た。
だがその時、棗の腕がスッと伸びてくる。
すると彼は、蜜柑の肩を指先で軽くトン、と押した。
体が傾いでいく。
どんな疑問も浮かぶ間がなかった。
気が付けば、背中には柔らかい布団の感触がした。
何が起きているのか、わからなかった。
そうこうしているうちに、棗がベッドに片ひざをつき、顔の両脇に手を置く。
そして顔をやや近づけ、真剣な眼差しで蜜柑を見つめている。
真近に迫る彼の端正な顔立ちを前に、瞬きを忘れるほど顔が強張る。
――― まさか、や。
動きを忘れた体を他所に、頭の中で何度も同じ言葉を繰り返す。
だが、この状況に思考がついていかず、ただ言葉を羅列しているだけだった。
やがて棗が、ふっと表情を和らげる。
すると、ゆっくりと影が落ちてきた。
思わず瞼をきつく閉じる。
両指の先がシーツに食い込んだ。
ああ、終わりやーーー―。
しかし感じたのは、思いのほか優しい唇の感触。
それは、ひたいにそっと触れ、ゆっくりと離れていった。
「誰かに、何か言われたのか?」
棗が呆然としている蜜柑に訊く。
「・・・・へ?」
先ほどと変わらない位置にある彼の顔を見ながら、
呪文がとけたかのように、間の抜けた返事をする。
「どこかで変なこと吹き込まれたんじゃねえのか?」 少しからかうような口調だ。
蜜柑は何も言わずに、懸命に頭を振ったが、真実ではないことはもはや見え見えだ。
棗が小さく吐息をつき、身を起こした。
そして蜜柑の腕を引っぱった。
「昼休みが終わってから、おまえ変だったじゃねえか」
「いや、その・・・」
蜜柑は、その見透かされたような言及を避けるかのように、
目を合わせず、足元にある床を見つめた。
やはり棗には、何もかもお見通しのようだ。
自分の不自然な態度に気が付かないわけがないのだ。
「心配すんな。別に何もしたりしねえよ」
蜜柑が、顔をあげる。
目の前に立ち自分を見下ろしている彼は、納得しているような、それでいて残念そうな複雑な顔をしていた。
「・・・ごめん」
「なんで、あやまんだよ」
「なんとなく」
「バーカ」
棗が呆れたように、ツインテールの片方をぐいっとひっぱる。
「いった、何すんねんっ」 蜜柑が目を剥く。
「おまえがあんまりバカだからだよ」
「なんやと、なつめ〜〜!」
蜜柑が立ち上がり反撃しようとしたが、棗は軽々しく身をかわす。
「コラ、待て、ウチかて、色々悩んだんやっ」 言いながら、追いかける。
それを彼は何度もかわし、背を向けて広い室内を逃げまわる。
「くっ、くやしいっ」
蜜柑が棗を掴もうと、懸命に手を伸ばす。
だがその時、スリッパが床にもつれ、バランスを崩した。
「ひゃっ」
ドサリという鈍い音とともに、蜜柑の体が床に倒れこんだ。
「痛っ、・・あれ?」
急激な痛みに襲われると覚悟していたが、どうやら無傷のようである。
「・・・つっ」 苦しげな声が、近くから聞こえる。
顔をあげれば、棗が蜜柑の体の下に倒れこんでいる。
「うわっ、なつめっ、」
「・・・ったく、あぶねえじゃねえか」
後頭部を打ったのか、頭に手を置きながら呻く。
「・・・ごめん。大丈夫・・・?」
蜜柑は、叱られた子犬にようにうな垂れる。
その姿を見て棗が、ふうとひとつ息を吐いた。
「まったく怒ってみたり、落ち込んでみたり、忙しいオンナだな」
そう言いながら、体を起こそうとする。
蜜柑は反射的に、棗の体から離れようと身を動かした。
だがその離れゆく体に、彼が腕を回してきた。
そして体を完全に起こすと、床に座ったまま、蜜柑を腕の中に閉じ込めた。
「なつめ、」
棗の突然の行動に、蜜柑の声が上擦る。
顔が赤くなるのを感じた。
「何もしねえって言ったけど」 彼の少し低い声が、耳に響く。
「これくらいは、いいよな」
どこか問いかけるように言う。
――― 棗・・・。
蜜柑は棗の胸に顔をうずめながら、恥ずかしそうに小さく頷く。
――― なんや、心配せんでも大丈夫やったな、
棗がわずかに腕に力を入れ、愛おしそうに抱きしめてくる。
普段どこか冷めている彼からは想像できないほどの熱情が、体に伝わってくる。
温かい体温と、涼しげな雰囲気の心地よい香り。
大好きや、棗。
「わかってる」
「?」
蜜柑は、やや強引に顔を上げる。
「ウチ、何も言っとらんよ」
「言ったじゃねえか」 赤い瞳が、しれと言う。
「言っとらんって」
「言ってるじゃねえか、全身で、」
「な、」
なんちゅうことを。
蜜柑の顔が、また茹でダコのように赤くなる。
棗はその様子を見て、楽しそうに微笑む。
そして蜜柑を、もう一度強く抱きしめた。
fin
*あとがき*
う〜ん、棗君、おとなしすぎたかな(悩)
しかし年齢的なものを考えると、やはりこのラインが限界でしょうか(笑)
読んでくださり、ありがとうございました。