満天の星の下で、
『蜜柑』
棗が手を差し伸べる。
その紳士的で優雅な振る舞いに、少しドキドキしながら、迷わず手を載せた。
まるでワルツを踊るようだ。
そして手を引かれるまま、歩いていく。
彼はどこへ連れて行ってくれるのだろう。
期待と幸福感で、気持ちが浮き立つ。
だが奥へ進むにつれ、徐々にあたりが暗くなり始めた。
『棗、』
不安になり、名を呼んでみる。
彼は振り返らない。
あたりは更に暗くなる。
『棗―――』
もう一度呼んでみる。
やはり振り返ることはない。
暗黒が彼の黒髪を飲み込み、やがて体の輪郭すら奪っていく。
蜜柑の鼓動が早くなる。
――― こわい、
棗・・!
うまく声が出せない。
そんな時、ふと感じた変わらない手の感触。
あたたかい。
ホッとして、繋いだ手に目線を動かした。
だが途端に体が凍りつく。
握られた手は、もはや手首しか見えない。
背筋に悪寒が走る。
咄嗟に手を振りほどこうとした。
しかしその手は、より強い力でそれを阻止した。
気が遠くなる。
・・・・、柑
こわい、
今にも倒れそうだ。
・・・・蜜柑
「蜜柑!」
うっすらと瞼を開ける。
目前には、真紅の瞳が心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫か?」
「・・・夢?」
「おまえ、うなされてたぞ」
蜜柑はゆっくりと呼吸をした。
「よかった・・・」
「どんな夢を見たんだ?」
「それは・・・、」
「どうした?」
「・・・思い出せない」
「は?なんだそれ。さっき見たばっかりじゃねえか」 棗が呆れたような顔をした。
「・・ゴメン」
こわくてたまらなかった、あの夢。
リアルで、体にまだ恐怖感が残っている。
本当は直ぐにでも、吐き出してしまいたい衝動に駆られ、喉元まで出かかった。
しかし、寸でのところで思い止まった。
何故なら言ってしまえば、それが現実になりそうでおそろしかったのだ。
「おおかた何かに追いかけられてるとか、どっか暗いところで迷ってパニくってるようなもんだろ」
棗が言いながら、ベットに腰掛ける。
ほぼ当たってはいるが、蜜柑はそれ以上は話を繋げるつもりはなかった。
何も言わず、布団を鼻のあたりまで引き上げる。
「ところで、なんであんたがいるん?」 声がくぐもる。
「ああ、ちょっとおまえにヤボ用」
「用?」 目を動かし、時計を見れば真夜中の1時を過ぎていた。「用って、なんなん?」
すると棗が立ち上がった。
「行くぞ」
「へ?なに?こんな夜中にどこへ」 思わず身を起こした。
「ちょっとな」 なんでもないように言う。「寒いから、厚着していけよ」
「寒いって、まさか外に行くんか?」
驚きのあまり、やや声高になった声に、棗が顔をしかめた。
「声がデカすぎる。いいから早く支度しろ」
「うん、・・」
半ば強引な誘いではあったが、急いで身支度を始める。こんな真夜中に現れ、いったいどこへ連れて行こうとしているのか。いつもなら文句の一つも言うところだが、今日に限っては先ほどの夢見が悪かったせいもあり、気分を転換するのもいいと思った。
それに彼がいてくれたおかげで、かなり落ち着いていられるのも事実だ。
窓から外へ出る。
棗は来るときも、ここから入ってきたのだろう。別に珍しいことではないが。
満月が下界を照らし、辺りがよく見渡せた。
「ホラ、」
棗が緩やかに手を差し出す。
その所作に先ほどの夢が一瞬リンクしたが、なるべく気にしないようにした。
彼がハンドライトで、道先を照らす。
手をひかれ、歩き出した。
「なあ、どこに行くん?」 横顔に問いかける。
「さあな」
「さあなって、教えてくれへんの?」
「後でな」
「あとでって、・・・もう、なんでいつもそうなんや」
「いいから、少しだまっとけ」
なんなんやもう、と少し不満気な声を漏らしたが、こんな夜、夜中に喧嘩を始めるわけにもいかないので、黙って歩き続けた。
やがて、月明かりが届かない森の中へと進んでいく。
「棗?」
少し不安になり、辺りをキョロキョロする。
だが半歩先を歩いている彼から返事はない。
「なあ、本当にどこに連れていくねん」
やはり、黙ったままだ。
すると辺りは更に暗くなり、棗の髪が漆黒の闇の中へと消えていく。
ハンドライトの明かりが、心もとない。
ドクン、と心臓がなった。
―――― このシチュエーション、まるで、
「棗、」もう一度呼んでみる。「返事してや」
だが、蜜柑の問いかけに呼応するかのように、棗の歩くスピードが増していく。
やがて彼の姿が暗闇にすべて飲み込まれた。
明かりだけが、宙に浮いている。
体が震えだす。
得たいの知れない畏怖が、足元からじわりと冷たく這い上がってくるようだ。
こわい、・・
ふと繋いだ手を見る。
体に激震が走った。
声にならない悲鳴をあげる。
手首がっ―――――。
ガクガクと震えだす体を抑えきれずに、繋がる手を振りほどこうと力いっぱい振り切った。
「蜜柑?」
気が付けば、棗の腕の中にいた。
温かい胸に頬をあて、力なく身をゆだねる自分を、彼は包み込むように抱きしめてくれていた。
「棗・・、」
「大丈夫か?」 安心したような声音だ。
「ウチ・・・」 少し朦朧する。
「途中で、倒れたんだよ」
「・・・・倒れた?」
棗が頷く。
「手を振りほどこうとしただろ、おまえ。何事かと思えば、急に倒れこんでくるし」
「ウチ、何度もアンタのこと呼んだんや」
「ああ、聞こえてた」
その言葉に、蜜柑の意識が一瞬にして覚醒した。
「何で返事せえへんの?」
「悪い。でもどうせまた、どこ行くんや、とかそんなんだろ。だったら早く連れて来た方がいいと思ってな」
「人の気も知らんと、」 涙が溢れてきた。「さっきの今で、二度もあんな思いっ」
子どものように訴える蜜柑に、棗の片眉がくいっと上がった。
「・・・・ったく、なんなんだよ。もしかして、さっき見た夢と関係あんのか?」
「そ、それは」
「話せよ」
「・・・・・・・」
・・・言いにくい。バカにされそうだ。
けれどこの雰囲気では、話すより他ないようだ。蜜柑は、しぶしぶ口を開いた。
すべてを聞き終えた棗は、案の定呆れた顔をした。彼女のおでこを指先で軽く弾いた。
「いたっ、なにするんや」
「バーカ」 苦笑いしている。
「笑い事じゃあらへん」 眉間にしわを寄せた。
「くだらねえ」
「なんやて」 目を剥いた「だからアンタに話すの嫌やったんだよ」
「だったらこういうのはどうだ?」
「なに」
「暗闇が、この北の森。手首は、このジャケットの色と辺りが同化したから、そう見えた。そして振りほどこうとして強く握ったのは、おまえが倒れそうになったから」
「・・・・・」
蜜柑は唖然とした。
確かに。
色々辿って行くと、確かにそんな感じである。暗闇しろ、棗の着ている黒のジャケットにしろ。
仮にあの夢が棗の言うとおりのことだとして、
あれは、これから起こることを暗示した夢?
もしそうだとしたら、恐ろしさのあまりパニックに陥っていた状況は、・・・・
ただの思い込みによるものだったんやろか・・・?
「そう考えれば、怖くないんじゃねえのか?」
「・・・うん」
「まあ、確証はないけどな」
そう言いながら、めっきり口数が減った蜜柑の頭をポンポン軽くたたく。
「ところでその夢に続きがあるとすれば、なんだと思う?」
「わからへんよ」 そんなの。
「じゃあ、うしろ見てみろよ」
「え?」
今まで抱かれていた姿勢の為、棗の正面に顔を向けていたが、言われて初めて後ろを振り向いた。
思わず、息をのむ。
目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。
一面の夜景。
神秘的な大パノラマが広がっている。
遠くに煌めく無数の光。
その美しい光彩は、幻想的な色を紡ぎだしていた。
「なんで、・・」 感動で言葉にならない。
「一度でいいから見たいって、言ってなかったか?」 静かで穏やかな声。
「探してくれてたん・・?」
「怖い夢のつづきにしては、悪くないだろ」
蜜柑はゆっくり頷いた。
「学園に、こんな場所があったなんて」
「ここからこんな夜景が見えるなんて、誰も知らないだろうな。第一、こんな森の奥深くまで来るヤツなんかいない」
「ありがとうな」
お礼を言いながら、棗の方を再び振り返った。
笑顔を向ける。先ほどの悪夢に対する恐怖は綺麗に消え去っていた。
棗はそんな蜜柑の様子を察し、かすかに微笑んだ。
たまには、スリリングな夢も悪くない。
fin
*あとがき*
北の森に、こんなロマンチックな場所はないでしょうね。
っていうか、夜景が見えるところなんて、棗がよく登ってる木の上だけでしょうか(笑)