ただ、恋をしただけ


―――― ・・蜜柑?


能力別授業の後、用を思い出して帰る前に教室へ寄った。
ふと窓の外を見ると、特力へ行き、直帰しているはずの親友が校舎前の道を歩いていく。
隣には、最近付き合い始めたばかりの彼がいた。

彼女が楽しそうに話しかけている。
それを一見無関心そうに聞いている後姿。
だが、決してそんなことはない。
辛く、苦しい年月を経て、漸く自分だけの“蜜柑”になったのだから。
心の中は、幸せに満ち溢れているだろう。

「心配?」

窓に手をつき、少し食い入るように見ていたのかもしれない。
声をかけられ、はっとしたように後ろを振り向いた。
「・・・ルカ君」
棗の親友が、穏やかに微笑んでいる。
「別に、そんなんじゃないわよ」
「そうは、見えなかったよ」言いながら、近づいてくる。「娘に初めての彼氏が出来て、その様子を心配そうに見つめてる母親みたいに見えたけど?」
「何よ、それ」
「楽しそうだね」 同じく、窓の外を見ている。
「ルカ君は、これでよかったの?」
蛍が、率直な疑問を投げかけた。彼がちょっと困惑した表情を浮かべる。
「いいも、何も、告白するまえにこうなっちゃったし」
「でも、チャンスはあった」
「うん・・」
「どうして、ちゃんと言わなかったの・・?」
「どうしてだろう?」
そこまで言ってルカが黙り込む。
これ以上の詮索は無用だと蛍は思った。
彼が蜜柑を想っていたことは、もはや誰もが知っていたことだ。そしてふたりの間に流れる空気はどこか特別に見えていたらしく、付き合い始めるのも時間の問題と思われていた。
蜜柑も、ルカの気持ちを知っていたはずだ。彼からの特別なアプローチがなくても、その気持ちに応えるチャンスはいくらでもあっただろう。
だがやはり、その日が来ることはなかった。
蜜柑は、棗だけを想い続けていたのだから。
ずっと。
だからふたりが付き合い始めたと聞いたときも、別段驚いたわけでもなかった。
いつかはこんな日が来るだろうことは、既に予想済みだったからだ。

ルカは、わかりすぎるほどにわかっていたのだ。
二人が長年、相思相愛であることを。
それを隣で、ひしひしと感じていたことだろう。

それが心優しい彼に、歯止めをかけさせる結果となったのか。

「ホッとしたのかも、しれない」
ルカが、ポツリと言う。だがその顔は、決して悲況な雰囲気ではない。
「棗は、自分の欲しいものに手を伸ばすことなんてなかったから。相変わらず、周りのことばかり考えているし。その棗が、・・・佐倉だけは、って思ったんだ」
「ルカ君・・・」
「棗がどんなに自分の生き方に納得していても、このままじゃいつか本当に潰れてしまうんじゃないかって思っていたから、だから、ふたりがこうなった時、」 優しい笑みを浮かべている。「正直、ホッとしたというか・・そんな気持ちの方が大きかったのかもしれない」

お人よし・・・という言葉が出かかった。

親友バカなのだ、彼も。
・・・・同じだ。
棗を思い遣る気持ちが、あきれるほど理解できてしまう。
イヤになるくらい。

――― アンタも、充分自分を犠牲にしているじゃない。

「さっき、心配かって聞いたでしょ?」
蛍が、帰り支度を始める。
「ああ、うん」
「心配は、しているわ。綱渡りみたいなふたりの恋がどうなっていくのか、って。そういう心配」
「・・・」 ルカが納得したような顔をする。
「問題視されてる蜜柑と、それを守ろうとして危険視されている棗君。学園が、このふたりの関係を見過ごすはずはないもの。今まで以上に、風当たりが強くなることは必定よ。そうなったとき、」
「今井、」
ルカが畳み掛けるように言う。
蛍が、軽く息をつく。
「取り越し苦労って、言いたいわけ?」
これにルカは、頭をふった。
「俺も心配はしている。これまでの学園の動きから考えると、何もないなんてありえない。棗も以前にも増して警戒心を強めていると思うし」
「心配性はお互いさまね」
「だけど、」
「だけど?」
蛍が、教室の扉に向かって歩き出す。
「あのふたりはまだ、始まったばかりだし」その言葉に足が止まる。

「ただ、恋をしただけだから」

後ろを振り返る。
ルカは、窓の外に視線を向けていた。
親友たちの姿は、もう見えないだろう。


そう、ふたりはただ、恋をしただけだ。
純粋に。
普通の恋を。

だから、これから起こることをあれこれ考えても仕方がないのかもしれない。

彼らはきっと、そんな先のことすべてを受け入れる決心で前へ進もうとしているのだから。

「帰らないの?」

「・・・もう少しだけ」
そう言い、彼はこちらを振り向く。

その表情は、どこまでもたおやかで美しかった。

Fin


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