この勾配のきつい坂道を上ることにもだいぶ慣れた。
もう何十回目だろうか。最初の頃はかなり辛かった。体力と運動神経だけは自信があったはずなのに、坂の途中で猛烈にヘトヘトになり、よく自転車を放り出しては徒歩に切り替えたものだ。
今は一度ペダルを踏んだら、頂上までまっしぐらだ。相変わらず呼吸は苦しく、ふくらはぎの筋肉は硬く強張り、つりそうなほど末期的にはなるが、さすがに3年目ともなると必然的に鍛えられ逞しくもなる。
こんな思いをしてまで自らを奮い立たせることが出来るのは、上った先に何物にも代え難い喜びが待っているからだ。それを思うと一時の疲れなど、いくらでも我慢が出来る。ただただ嬉しさだけが込み上げてくるのだ。

目的地が前方に現れ始めた。そこで蜜柑は、ブレーキをかけ自転車を止める。
県下一の進学校、瀬田高校。風雅な外壁の向こう側にそびえ立つ校舎は、某議事堂を彷彿させるほどに堂々としていて、とても学舎には見えない。それだけの頭脳の生徒が通っているのだから、きっと設備一つとっても余念がなく、出し惜しみすることなく金を費やしているのだろう。
蜜柑は、自転車のかごの中のカバンから携帯を取り出し、時刻を確認した。午後4時半。思わず緩んでしまいそうになる口元を両手で押さえた。
(そろそろやな。めっちゃ楽しみ!)
自転車を目立たぬよう数メートル先の路地に置き、いつものようにスカートのポケットからハンカチを取り出した。すると、かすかな話し声が聞こえてきた。生徒が校門から出て来ている。男子はネイビーブルーのジャケット、白いシャツに、チャコールグレーのズボン。女子が同上物に、スカートはグレーの細かいチェック柄のダブルプリーツ。一見、シンプルな制服だが、瀬田高の象徴である胸ポケットのエンブレムは美しい緻密な刺繍が施されており、シンプルな制服の雰囲気を秀麗なものに変えてしまう。
蜜柑は、絶え間なく流れ出る、その生徒たちの姿に目を凝らした。
(来た!)
男子生徒4人のグループ。メンバーはいつもと同じ。目的はその中のひとり。
蜜柑はいつものようにそのまま路地に隠れ、都合良く立っている町内掲示板の陰に身体を滑らせると、そこからそっと顔を出した。
静かに耳を澄ませていると、彼らの話す声が徐々に近付き、いよいよ路地に差し掛かった。
「この間の模試の結果、そろそろ出てんじゃねーの?」
「あれは散々だから見なくていい」
「それ、聞き飽きたから。おまえいつも何だかんだ言いながら上位10以内外したことねえだろが」
「オレはな1番じゃなきゃ、ビリと同じなんだよ」
「ああ、そっか、おまえ、この間の女に1番とらなきゃ付き合わないとか言われてんだろ」
「・・・・・・・・」
「なんだ図星か。可哀想なヤツ」
皆がクスクスと笑っている。
「ま、まず、こいつを抜くことだな。な、棗」
棗がこちらを振り向いた。蜜柑はドキリとし、慌てて掲示板の陰に隠れた。だがすぐにまた、そろりと半分だけ顔を出すと、彼はそんなことはどうでもいいと言わんばかりの表情をしていた。
「またまたそんな顔しちゃって。余裕だねえ、全国で常に5本の指に入ってるヤツは」
棗はそれに言葉を返すことなく、ため息をついた。
蜜柑は通り過ぎていく背中を目で追いながら、こっそりと掲示板から飛び出した。路地の壁に張り付き、その背中を小さくなるまで見送った。 ひとつ深呼吸をし、忙しない鼓動を落ち着かせる。
(なんで?なんであんなにカッコええの?)
振り向いた時に揺れたサラリとした黒髪、紅の綺麗な瞳、すっと通った鼻筋と薄く小さな唇。整った顔立ちはあの頃よりも更に大人びていて、何度見てもうっとりしてしまう。ステキすぎて、このまま身体がふわふわと浮いてどこかへ飛んでいってしまいそうなほど、とろけそうな気分だ。
「まあ、確かにビジュアルは悪くないわね」
「当たり前やん。あんなにかっこええ人、そうそうおらへん」
「一緒にいる子たちも、なかなかじゃない」
「何言うてんねん。棗の比じゃあらへんって」
「しかしアンタ、そのマヌケな恰好、何とかならないものなの?」
「マヌケ?どこがマヌケやねん。ん?なんかソースの匂い・・って・・・ん?」
蜜柑はゆっくりと振り返った。
「わあっ」
思わず仰け反った。背後には、親友二人が立っていた。蛍とすみれことパーマだ。
蛍は、たこ焼きの皿を片手に楽しげに中身を楊枝でつつき、パーマは呆れた顔で巻き毛をいじっている。
「いつの間に、」
「アンタがデレデレしてた時から」パーマが言った。
「デレデレって」
「ヨダレが出てるわよ」と蛍。
「よ、よだれ?」
蜜柑は慌てて口をぬぐった。
「バカ」パーマがかぶりを振った。「中身だけじゃなく身なりまでバカとは。その頭から被ってる意味のない怪しげなハンカチ。なんなのよ、それ」
「へ?コレ?」蜜柑は、頬かぶりしていたハンカチにふれた。赤ずきんのごとく顎で結ばれた結び目をほどく。
「これは棗にバレないようにするためや。なかなかのアイディアだと思うんやけど」
「余計に目立ってるわよ」
「それはそうと、」蛍はたこ焼きをひとつ口に含んだ。「アンひゃ、このままふっとこうひてモノガゲきゃらのぞひて、ほれでまんほくなわけ?」
「な、何言うてるかわからんって」
蛍はもぐもぐと頬を動かし、意味ありげな笑みを浮かべた。
「だから、」パーマが引き継いだ。「アンタこのままで良いわけ?ただこうして帰り道を待ち伏せして、彼の顔見て舞い上がってるだけでいいわけ?」
「別に、それで満足やけど?」
「満足って、何年片思いしてんのよ」
「かれこれ3年ちょっと?」
パーマは眉間に皺を寄せ、顔を近付けた。
「それで本当に幸せなわけ?3年もこのままだなんて、知らないわけじゃないんだし、思い切ってデートに誘ってみるとか、告白するとか、とにかく行動に移さなきゃ、」
「それは無理や」
蜜柑は、ハンカチを丁寧に畳みながら、やんわりと言った。
「何が無理なのよ」
「棗にも色々と事情があるし」
「どんな事情よ」
蜜柑は、自転車に近寄り、軽やかにサドルを跨いだ。
「中学の時、女はもう懲り懲りみたいなこと言うてて。恐らく元カノと何かあったんやないかと思うんやけど。だから誰とも付き合ったりしいひんと思う。・・せやから、このままでええねん」
「女は懲り懲り?元カノと何かあった?だからなによ」
蜜柑は怪訝な表情をしているパーマと、美味しそうにたこ焼きを頬張りながら、じっと蜜柑を見つめる蛍に力なく笑ってみせた。そしてそのまま何気に空を見上げた。鮮やかな夕焼けが広がっている。
ああ、そうだ。あの3年前の冬も。こんな風に綺麗な空が広がった夕暮れだった。


蜜柑と棗は同じ中学の同級生だ。彼は転校生で、3年の進級と共に蜜柑のクラスに加わった。
あの容姿と、既に洗練された雰囲気を漂わせていた彼は、忽ち校内中の女の子の注目を集め、ファンクラブまで設立されるほどのモテようだった。
そして蜜柑も例外ではなく、転校初日にして既にひと目惚れ状態に陥っていた。棗を見た途端、心臓はありえないほど激しく動き、頭の芯がぼうっとするほど見惚れた。面白いくらいに、いとも簡単に落ちたのだ。
けれど元々奥手な気質であったため、他の女の子が積極的にアプローチする中で、ひっそりと彼を想っていた。
それでも蜜柑は満足していた。後々、実は棗には前の学校に彼女がいるらしいということをファンクラブの子たちから聞かされても尚、あまり悲観的になることもなかった。勿論、残念ではあったが、目に見えない彼女の存在を疎ましいと思うより、今、ここに彼がいて、時々話しかけられたり、笑い合ったり、からかわれたりと一日の大半を一緒に過ごすことが出来るということの方が大切で、充分に幸せであった。

そんな日常を過ごしていたある日のことだった。棗の様子が、少し違って見えた日があった。
授業中も休み時間も、どこか遠くを見るように窓の外をながめ、じっと何かを考え込んでいるようだった。友人たちに話しかけられればいつもの雰囲気に戻ってはいたが、それでもふとした時に見え隠れする表情は、今まで見たことがないような憂いを含んだ顔つきだった。
そんな様子が2〜3日続いた。蜜柑は、そんな棗が気がかりだった。 いつだって自信に溢れていて、何一つ取りこぼしのない棗だから、些細な変化が余計に気になったのだ。
放課後、学年委員会に出席していた棗を、誰もいない教室で待ち伏せした。
聞いてどうなるものでもないということは理解していた。殆ど自己満足のようなものだった。けれど何故だか放っておけない感じがして、自然と行動を起こした。
教室に戻ってきた棗は、蜜柑の姿を見るや不思議そうな顔をし、すぐに失笑した。 蜜柑は、棗の反応に驚きつつも、反射的に頬を膨らませた。顔を見た途端、笑うなんて失礼だと思った。
<なんで、笑うんや>
<また居残りか?>
<ちゃうって。そんなに毎回毎回居残ってなんかおらんわ>
<それは悪かったな>
<ホンマや>
棗の目を細めた。どうやら居残りだと思われ、笑われたようだ。
いつもの調子の棗だった。蜜柑は少し躊躇した。この雰囲気で、話を切り出すのは不自然な感じがした。だがこのままでは、待っていた意味がなかった。
<あの、>
<腹減ったな>
棗は、委員会で使用した資料をカバンにしまいながら何気なく言った。
<えっ?>
<なんだ。深刻な顔して>
<あ、や、別に、>
<?腹減ったから、何か食ってくか>
<う、ん>
蜜柑はぎこちなく頷いた。
棗は動きを止め、そんな蜜柑をじっと見つめていた。それから不思議そうにちょっと首を傾げ、また少し笑っていた。
これではまるで蜜柑の方に何かがあるようだった。挙動不審もいいところだった。けれど彼は蜜柑が居残っていた理由を訊いてはこなかった。きっとそんなことなど興味がなくて、どうでもいいことなのだと思った。そう考えると、胸がチクリと痛んだ。

帰り道の途中、ショッピングモールの前に来ていた屋台車両で棗は、メロンパンを二人分買い、近くにある公園へ一緒に向かった。
思えば棗とこうしてふたりきりになるのは初めてで、いや、正確には男の子、とで、やや緊張していた。
素直に嬉しかった。棗と並んで、好きな彼が買ってくれたメロンパンを食べるなんて、夢みたいだと思った。こういう突如降ってきた幸運をさすことわざがあったような気がしたが、頭の程度がよろしくない蜜柑にそれを思い出すのは無理だった。
本来の目的がなおざりになっていた。けれど顔が綻んでしまうのを止められなかった。いつも何気なく買って食べていたこのメロンパンもかなり違って見えた。何か月も予約待ちの状態のパンが幸運にも突如手に入ったような、そんな風に貴重で特別なものに思えた。大袈裟なようだが、食べるのがもったいないとさえ感じてしまっていた。
<ニコニコ笑って眺めてないで、早く食え>
隣から視線を感じて、頬が熱くなるのを感じた。すっかり見られていた。
<・・・あはは、何だかもったいなくて>
<もったいないって、こんなのいつだってそこに売ってんだろ>
<あ、うん、まあ、そうなんやけど>
そうじゃなくて。アンタが買ってくれたから、と言いたいのを我慢した。代わりに笑顔を向けた。棗は変なヤツと、可笑しそうにしていた。
<ウチ、放課後にこんな風に過ごすの初めてで、少し緊張してん。アンタは慣れとるやろ?こうして誰か、・・女の子と食べて帰るなんて>
<いや、そうでもねえよ>
<・・そう?意外やな>
<何か話したいことがあったんじゃねえのか?>
ふと問いかけられた言葉に、蜜柑はドキリとした。思わずメロンパンをぎゅっと握った。
<待ってたんだろ。教室でずっと何かいいたそうな顔してたし>
棗は残りわずかなメロンパンをすべて口に頬張ると、適当に紙を畳み、ズボンのポケットにしまいこんだ。ついでに両手をそれの中に入れたまま、空を見上げた。鮮やかな夕焼けが広がっていた。
一応、気にしてくれていたのだ。蜜柑はそのことに少し安堵していた。どうでもいいと思われていた訳じゃなかったのだ。
<ありがと・・気にしてくれて、>
<こういう場合普通に考えると、>
棗は蜜柑の方へ顔を近付けた。思わず身体が硬直し、心臓が跳ね返った。
<告る・・とか?>
棗は蜜柑の目を覗き込んだ。その瞳はあまりからかっているようにも見えなくて、何を考えているか全くわからなかった。いや、正確にはあまりの至近距離と緊張のしすぎで何一つ正常に判断出来なかったのだ。
<か、か、からかうのも、>
<違うのか?>
<当たり前やろ!>
<なんだ、いい雰囲気なのに>
<雰囲気とかそんなの以前にアンタ、彼女おるやろ?>
その問いに棗は答えなかった。代わりにひとつため息をつき、また空を見上げた。横顔がやや憂鬱そうに見えた。―――この顔でだいたいの推測がついた。彼女との間に何かあったのだということを。
<ここんとこずっと少し元気がなかったやろ?その、何か、あったん?>
棗は空を見上げたまま、微苦笑した。
<別に>
<ホンマに?>
<ああ>
<気のせいなら・・・、ええんやけど>
気のせいなんかじゃないのはわかったのだ。けれど棗はやはり話したくはないのだ。触れられたくはない部分に触れられ、気を悪くしていたとしたら、蜜柑の中に焦りが募った。
<おせっかいやったな。ゴメン。ちょっと気になったもんやから訊いてみよう思うて、ああ、ホンマにゴメン、メロンパンありがとうな。ご馳走さま>
蜜柑は慌てて立ち上がった。
<帰るね>
<自分のことより>
<・・・んっ?>
<常に相手が優先なんだな。おまえは>
<・・・・・・・、>
棗は、呟くように言った。そしてまたひとつため息を零した。ポケットから利き手を出すと、蜜柑の手首をやんわりと握った。
<送ってく>

それから後に、風の噂で彼女とは別れたようだということ、もう当分女は懲り懲りだと言っていたことを知った。結局棗とはそれ以上の進展もなく、変わらない関係のまま卒業し、別々の高校へ進んだ。


「ちょっと、昔話しながら何たそがれてんのよ」
パーマは、蜜柑の頬をぐぃっと引っ張った。
「いっ、ひゃい」
「そんなの時効時効。あれこれ言いわけしてないで、さっさと告っちゃいなさいよ」
「言いわけって、別にそんなんじゃ」蜜柑は頬をさすった。「もう、ええやん。ほっといてや」
「好きなんでしょ?」
「えっ?」
パーマは自転車のハンドルに手を置き、勢いよく顔を近付けてきた。蜜柑は反射的にやや身を引く。
「すごくすごく好きなんでしょ?」
「そりゃ、」
蜜柑は目を逸らした。答えるまでもない。じゃなければ、3年間もこっそり通ったりはしない。
「ちょっと、今井さんも食べてばっかりいないで、何とか言いなさいよ」
蛍の方へ顔を向けた。彼女はたこやきを食べ終わり、ペットボトルの蓋を開けていた。
「アンタ、塾は決めたの?」
蜜柑はガクリと、肩を落とした。
「全然違う話題やし・・・、」
「どうなのよ」
「まだやけど?」
「そろそろ本腰入れないと、マジで留年するわよ」
蜜柑の身体がヒクッと動いた。
「なにを縁起でもないことを。大丈夫や、この間の追試もパスしたし」
「追試・・その追試で悠長に構えてるなら、卒業試験はまず無理ね」
「無理って何が」
「一回で基準点をクリアしないと、ダメなのよ。うちの学校の卒業資格のひとつ。もしかして知らなかったとか?」
額と背中に冷や汗が滲んだ。浮かれていた熱が急速に冷めていく。そんなこと、学校の卒業基準にあっただろうか。
蛍はペットボトルのお茶をごくごくと飲み干した。青ざめた蜜柑の顔を見つめている。
「心臓がバクバクいってきた」
蛍は、ふっと笑った。
「いい塾紹介してあげるわよ。留年だけは絶対に避けられる、信頼できるところを」
「ホンマに?!・・けど、まさかアンタが行ってるところじゃ」
「残念だけど。それは違うわ」
「まず入塾試験で落ちるつうの」パーマが独り言のように言った。
「よかった。ほな、お願いするわ」
蛍は瞬きで頷いた。その瞳は何故だか楽しげに揺らいでいた。何かを面白がっている。

蜜柑がその理由(わけ)を知るのは、3日後のことだ。






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